
家を出ても、行く宛はなかった。
実家からの着信が鳴る携帯電話を駅に置き捨てて、来た電車に乗った。
終点に着いたので降りて、人の波に押されるようにしてただ歩く。
家族と離れてみれば、やりたい事も、行きたい場所も、何一つ持たない自分に気がついた。
これまでの清は、家族の望む自分でいたし、それこそが己の幸せだと信じていた。
漠然と、誰もが清の行く先を照らしてくれると思っていて、今まではその通りになっていた。
だが、その『誰も』を捨てた今、清には何一つ、したい事などなかった。
自分には何もない。
頼る相手を失い、頼ってくる人間を捨てた今、ついに清には何もなくなった。
… …… … …………
清の家出を可能にしたのは、皮肉にも、母の世話をする為に預かった金銭だった。
医療費と薬代、タクシー代と、行き返りに立ち寄る喫茶店代。
余裕を持って渡されていた財布の中身は、大学生が持つ金額としては少々多かった。
終点までの電車代を払って、それでも余るほどに。
一日目はファミリーレストランで夕食を取り、見様見真似でビジネスホテルに泊まった。
不慣れながらに部屋を借り、眠れぬ一夜を過ごした。
その間に財布の中身を確認して、このまま宿を取り続ければ三日と持たないことに気付いた。
二日目。残額を減らさないよう、見慣れぬ街をただ歩く。
駅前の公園にしばらくいて、次にコンビニの店先、住宅地まで歩いて、見かけた公園のベンチに座って。
移動と休息で一日を過ごして、日が落ちれば駅前に戻り、繁華街のカラオケで夜を明かす。
三日目、四日目も同じように、駅前で、公園のベンチで、コンビニの店先で、何をするでもなく過ごした。
帰るという考えが、浮かばなかったわけではない。
母は心の弱い人だ。次兄を失い、弟を失い、清さえ失った今、きっと弱り切っている。
──だが、母が真に求めているのは次兄だけだ。
戻ったところで、清は次兄の代わりにはなれないし、失った幸福は二度と戻らない。
跡形もなく崩れた今、戻ることは、その残骸をわざわざ見続けることに他ならない。
割れたグラスをかき集め、破片を見つめて生きるなんて、ただ惨めになるだけだ。
いくら修繕を試みたって、それは二度と戻らないのに、往時の面影ばかりを見せつけ、指に突き刺さっては痛い。
…… ……… … ……
そして五日目、ついに金銭が尽きた。
朝食代わりに暖かいココアを買って、それであとは小銭ばかり。
水すら買えないから、人目を憚りながら、公園の水道で渇きを癒した。飢えは感じなかった。
そして夜。どの宿も、カラオケも漫画喫茶も、残った金額では到底入れない。
警官の視線を避けて路地へと入り、壁に背をつけて地面に座り込んで、そこで動けなくなった。
泣く気にすらなれなくて、ただただ途方に暮れて。
それでも帰りたくなくて、どうしてもどうしても、どうしても帰りたくなくて。
そうして。
彼に出会ったのだ。
ひどく汚い男だった。
荒れた長髪に、手入れの気配もない無精髭。
このご時世に和服なんて着ていて、皺だらけの羽織が、妙に似合っていたのを覚えている。
清の家出を可能にしたのは、母の世話をするために預かった金銭だったが
清の家出を完結させたのは、この、深谷という男だった。
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「何だ。家出娘か?」 |
話しかけられるとは思わなかったから、答えるべきか迷った。
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「交番まで送ってやろうか」 |
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「いい」 |
今度は声が出た。思ったよりひどく掠れた鼻声だったので、目を伏せる。
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「帰りたくないんです」 |
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「訳アリかよ」 |
男はいかにも面倒くさそうに、首の後ろをぼりぼりと掻いた。
淡い嫌悪を感じたところで、今度は溜息が降ってくる。
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「いいか、お嬢さん。ここはあまり安全じゃねェんだよ。見ちまった以上、放ってはおけねェんだ。 頼むから、言う事をお聞きになって、交番にご同行願えませんかねぇ」 |
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「放っておいてください。だいたい、仕事ってどういう意味ですか。 殺人鬼でも出るんですか」 |
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「妖怪だよ」 |
男はにいっと笑った。悪趣味な冗談に、体温がかっと上がる錯覚を覚える。妖怪。
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「妙ちきりんな死に方する奴は、大概、妖に食われてんだよ」 |
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「そう。なら、それでいいです」 |
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「わたしの兄もそうらしいですから」 |
根も葉もない噂だ。
唐突かつ異常な死を迎えた人間に対しての無責任な噂は、清も一通り耳にした。
素行が悪かったのではないか。殺されるなりの事をしたのではないか。
元々頭がおかしかったのではないか。
その中の一つ──現代の妖怪。
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「んな訳ねぇだろ」 |
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「八矢直の事だろう」 |
だから、その名が出るなんて、思ってもいなかったのだ。
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「ありゃあ人間だ。……あんた、八矢清だな」 |
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「え……」 |
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「出身は晏香市か。電車でここまで逃げてきたな」 |
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「なんで、そんな事を知ってるの」 |
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「そりゃあ、あんたは有名人だからよ。 おれ達の仲間はみんな知ってる。 妖怪が起こした事件はな、普通、ニュースにゃならねえんだよ」 |
その言い方、まるで、本当に妖怪が存在しているかのような。
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「弟と妹の姿が見えないって話があったか、そうかそうか、家出か……」 |
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「妖怪なんて、本当にいるんですか」 |
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「……あ?そりゃあそうだよ。 俺ァ妖怪狩りだもんでな。いなけりゃおまんまの食い上げだ」 |
呆然とする清に、男はフンと鼻を鳴らし、屈んで手を伸ばした。
清の頭を掴み、眼前に寄せる。
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「悪くねえな」 |
何が悪くないのか、説明もなく言って、突き飛ばすように手が離される。
見知らぬ男に何かを試されている。
じわりと染み出した恐怖を清が咀嚼する前に、今度は無骨な手が伸べられた。
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「気に入った。……飯でも食わせてやる」 |
………………
それから男は、清を定食屋に連れて行った。
毒々しく赤い床はやたらに滑り、アルコールと油のにおいで胸が悪くなりそうだ。
好きなものを食べろと言われたが食べたいものなど無く、
清が迷っている間に、男はラーメンと、わずかばかりの酒肴を注文した。
何も言う気が起きなかったので、清も黙っていて、男も黙っている。
無言のままに二人で待って、やってきたのは酒と、やはり油臭いラーメンだった。
食欲をそそる見た目ではなかったが、促されて口をつけると、熱さと脂の味が身に染みる。
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「美味ェだろ?」 |
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「……はい」 |
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「ここは何でも不味いが、酒とラーメンだけは美味い」 |
男はひとつ頷いた。そして、煙草に火をつける。
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「俺は退魔師だ」 |
席に備えられていたアンケート用紙とペンを取り上げ、さらさらと字を書いた。魔を退ける。
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「神社の守護だの管理だの、他にも仕事はあるけどな。 俺ァ神社の所属じゃねえからよ。妖怪狩って、土地を管理する社から金を貰ってんだ」 |
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「そんなの、聞いたことない」 |
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「秘密だからだよ。 神や妖怪の事は、一般人にゃ教えちゃなんねえ事になってる。混乱を招くからな。 ……が、確かにどちらもいる。神は俺らに恵みをお与え下さるし、妖怪は災いを振りまく」 |
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「……ああ、妙な期待はすんなよ。 神は恵みを分けてくださるが、万能じゃねェ。 妖怪の全てを滅ぼす事なんて、神の御力をもってしても、できやしねェのさ。
だからこそ俺らが存在して、少しでもその恵みが行き渡るよう、 邪魔する奴らを成敗してる」 |
男の話は、まるで異世界の事のように現実感がない。
芝居がかった調子で手を広げなんてするから尚更だ。
清が黙っていると、男は分かりやすいように話してやる、と発する。
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「この世にゃ妖怪がいる。八矢直は妖怪の被害者だ」 |
現代の妖怪。学生の心の闇。心無い言葉と兄の笑顔が胸の内にいっぱいになって、
溢れるまでに、清は首を痛くなるほどに曲げて真下を向いた。
こんなに悲しく辛いのに、涙の一滴も零れない。
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「あいつは運が悪かっただけだ」 |
どうしてその言葉が、もっと早くに与えられなかったのか。
母に、長兄に、崩れ行く家族にそれが無く、
家を捨てた後になって清に与えられたのだと思うと、ひたすらに悔しい。
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「悔しいか、そうだろうな。けどそんな事、毎日どっかで起きてる事だ」 |
どこまでも他人事のようだ。しかし、それも当然。
清自身が、自分のことを他人事程度にしか思えていないのだから。
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「で、どうする?」 |
男は、猪口を持ち上げたところだった。言ってすぐに、ぐいと酒を飲む。
どうしたいのか。問われて、清はこの期に及んでも家に戻りたくない自分に気付いた。
兄やわたし達は何も悪くはなかったと家族に告げることに、今更意味があるとは思えない。
でも、それなら、どうしたらいいんだろう。
一度空になった清の中には、今に至っても、何もないままだ。
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「わからないのか?」 |
清は頷いた。わからないし、考えたくもない。全てが億劫で途方に暮れた。
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「俺に弟子入りしねェか」 |
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「弟子入り?」 |
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「退魔師になれっつってんだよ。 家に戻りたくねぇんだろ?お前さんがただのガキなら追い返したけどよ」 |
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「あんたにゃ才能がある。八矢って名は、晏河の水神の系譜だ」 |
わかるのか、と、そんな問いは無意味な気がした。
この男は、清のこれまでの常識と、隔たった場所にいる。
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「……なります」 |
妖怪と戦える。妖怪を祓える。兄のような目に遭わないし、同じ思いもせずに済む。
そして何より、家に帰らずに済む。
死にたいわけではない。
ただ、生きたいわけでもなかったから、この男に身を預けて、なるように任せればいいと思った。
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「いい返事だ。逃げんなよ?」 |
そうして。
清は深谷の弟子になった。
退魔師
妖怪を祓う事を生業とする神職。正階、権正階以上の階位を持つのが一般的。神社を浄め種々の祭祀を補佐し、妖怪へ備えることを生業とするが、ごく一部ながら、神社に所属しないものも存在する。