
「悪いけど、私が卒業したら連絡先は消してくれ」
いつものようにシャワーを借りた後。
身支度を整えながら、花勝見真菰(はながつみ まこも)は部屋の主にそう声を投げた。
「君とはお互い利害が一致してたし、必要以上に干渉も束縛もしてこないところ、私としてもすごく楽なんだけどさ。
終わりにしよう」
最初は確か、そう、専攻を跨いだ飲み会の帰りだった。教授同士が知り合いだとか、そんな話だった。
論文の進捗が思わしくなく自棄になっていた私が飲みすぎて、まあ、酔った勢いだったと思う。
たまたま隣の席になった相手が全く酔っていなかったのが妙にかちんときて、うざったらしく絡んでいたところまでは覚えているのだが。
気がついたら朝で、この磯臭い部屋にいて、全身のだるさと頭痛が酷かった。
酒癖が悪い自覚は、まあある。
「……わかりました。多分、先輩が卒業する頃には忘れてると思うんで、今消しますね」
淡々とした声が返ってくる。ぽちぽちと携帯を操作する音も。今時珍しく、この後輩はガラケーユーザーだ。
「君は正直だね、ホント」
悪気がないのはわかっている。彼なりに気を回した結果だろう。
藻噛叢馬はそういう男だ。良くも悪くも、人に対して執着がない。
「私ね、海外の研究所に行くんだ。だから君ともお別れだ」
彼だから話したかった、というわけではない。
誰かに聞いてほしかった、というのはあるのかもしれない。何せようやく念願叶って、来年度の春から憧れの製薬研究所に籍を置くことになったのだ。そのために努力も根回しもしてきたし、多少危ない橋も渡ったのだから。
そもそも付き合っているかと言われればそうではないし、改めて別れの言葉を告げるのも何だか妙な気がしたが。
こういうけじめはきちんとつけておきたい派だ。
「そうなんですか。おめでとうございます」
「なんかさあ……もうちょっとそれらしく祝ってくれよ」
「……よかったですね。てっきり結婚するのかと思ってました」
こちらを見て、少し考えるように視線を脇にやってから、真顔でそんなことを言うものだから、ついおかしくて笑ってしまう。本当にデリカシーがない後輩だ。
「フッ、まあそれも悪くないかなと思ってたんだけどさ。
あいつ、結婚したら家庭に入って欲しいとか言うもんだから、ついその場でサヨナラしてしまったよ。この私にそれを言うかね」
所謂『本命の彼氏』だった男の話。
まさかバレンタインデーにフラれるとは思わなかったことだろう。
言われるまでそういう奴だと見抜けなかった私も私だが、まあ手早く忘れるとしよう。
「ところでさ。
侵略の噂ってあるだろ。あれ、どう思う?
もしも自分が侵略者だったら、とか、考えたことあるかい?」
それは話題を変えるために選んだ、他愛のないただの世間話。そのつもりだった。
「……どちら側でも、やることは変わらないでしょう。
生物は本能に従って行動する。俺も、きっとそうします」
「へえ、てっきりくだらないとか言うと思ったけど。ちょっと意外だな」
「仮定の話ですよ。どちらにしろ、答えは決まっているんですから、考えるだけ時間の無駄です」
彼の答えはいつも彼なりの理論に基づいていて、簡潔で、無駄がない。
それは長所と言えばそうだが、人によってはつまらない男と映るのだろう。
個人的には好感の持てる姿勢だし、研究分野が同じだったらもっと一緒にいてもいいかな、くらいには思っているが。生憎畑違いだ。
「なるほどね。その変に真面目というか……遊びがないっていうのかな。
そういうところ、直したらもうちょっとモテるんじゃない? 余計なお世話だろうけれどね」
実際のところ彼がどう思っているのか、深海の澱みのような目からは何の表情も読み取れない。
「……ああ、そういえば君のところの教授、」
温度のない目がこちらを見る。一瞬迷って、やっぱり言うのはやめた。
「いや……何でもないよ。
じゃ、そろそろ行くね。もう会うこともないだろうけど、元気で」
狭い玄関に脱ぎ散らかしておいたヒールを引っかけるように履いて、ひらひらと部屋の中に向かって手を振った。
後輩から返事はないし、見送りにも来ない。
――そういう雑なところがモテないんだぞ。
そう独りごちながら、薄暗い部屋を後にした。
外に出た瞬間、水面から顔を出したような心地になるのも、きっとこれが最後なんだろう。
***
「……やっぱりマジなんだよね、あの噂」
ハザマの地に呼び出された白衣の女は、やれやれと独りごちた。その足元には幻のようなヒメシャガの花が咲き乱れている。普段なら数分で消えるその花は、ここでは少しだけ長く保つ。
「異能が強化されたらしいのはいいけど、これじゃ身を守るには心もとないな。
というか、私みたいな非戦闘要員をここに呼ぶかね、普通」
これまで何度かこの荒廃した世界に呼び出された。
白南海とかいう胡散臭い男から色々と説明を受けた時はまだ半信半疑だったが、その後襲ってきた気味の悪い敵性生物(なんだろう、多分。だって襲ってきたし)からどうにか逃げ切った後はもう、信じるしかないという諦めの境地だった。
そう、逃げ切った。倒してはいない。
何故ならこの異能は全く戦闘向きではない。つかの間の花を咲かせるだけの、はったりにも少々心もとないささやかな異能。
そんな能力者をここに呼ぶとか、ふざけているとしか思えない。
だから、誰とも合流していない。足手纏いになることは目に見えているからだ。
「君もそう思うだろ」
背後の気配には気付いていた。
近付いてくる足音が人のものではないことにも、周囲に立ち込め始めた強い潮の臭いにも。
噎せ返るようなその臭気が、澱んだ海の香りを濃縮したようなそれが、あの大柄な後輩の部屋の空気に少し似ていることにも。
お世辞にも良いとは言えない空気を吸って、ゆっくりと吐く。
落ち着け、と口の中だけで呟いて、女は振り返った。
「……藻噛くん、なんだよね」
目の前に立つ巨大な生き物を見上げる。
剥かれた肉のような色の肌をした人の上半身と、蒼毛の馬の体。そのどちらも自分の知る常識的な大きさを優に超えるサイズで、なまじ人に近い部分があるのが余計に不気味だ。海藻のような鬣と尾は、風もないのに獲物を探すようにざわざわと蠢いている。
そんな趣味の悪い寄せ集めのような怪物が、簾のような鬣の間から覗く赤い一つ目で女を見つめていた。
「君はそちら側で……どうやら私はこちら側。そういうことなんだよね」
――君のことは、少しは知っているつもりだったのにな。
そんな思いは、言葉にしないまま。
花勝見 真菰
創峰大学第二学群製薬化学専攻に籍を置く大学院生。
異能:知る人なしの夢幻花
(しるひとなしのファントム・アイリス)
ハザマで怪物に出遭ってしまった。