
「……ぅ、ぷっ」
まず最初に、強烈な吐き気が立ち尽くしていた私の意識を叩き起こす。
思わず口を両手で覆い、えづきながら両膝をつく。
体中の汗腺が脂汗を垂らし、瞳孔は焦点を合わせる仕事を早々に放棄した。
頭が痛くてたまらない。
ぼやける涙目であたりを見回すと、どうやら広い道路の真ん中に立っていたようだ。
両脇にはガードレールを挟んで歩道があり、その先には町並みが並んでいる。
自らの周りには、力の行使に使用する「退魔符」が散乱し、
中には内蔵した霊(ひ)を消費しきってふやけたものも数枚混じっている。
どうやら私は、何かしらの――それも大きな術式を行使した直後らしい。
何をしていたのか、どういった経緯でこんなところに立っているのか、
一切の記憶が頭にない。なぜ、私はこんなところに?
そう考える間に、役目を終えた退魔符は風化して消えていった。
落ち着いてみると、周囲の景色もおかしい。
空は赤と黒のペンキを雑に混ぜ合わせたようなモザイク模様。
立ち並ぶ家は家ではなく、目に見える人は人にあらず。
ただのモニュメントですらどこか禍々しく、おぞましいものに感じた。
“あの場所”が、頭の片隅をよぎる。
濃い靄がかかったように、頭が回らない。
五感が感じ取る全ての認識も、傷だらけになってしまった眼鏡のように
余計なものが挟まったような違和感を感じる。
疲れ切った体はぬたつく縄でがんじがらめに縛られているような、
叫び出したくなる不快感と不自由さに支配されている。
狂人が喚き散らしているような、激しい頭痛と耳鳴りがする。
混濁しているせいか、それとも何も知らないのか。
この場所のことも、ここに来た経緯も、何も思い出せない。
「ぅ、ぐっ……」
うめきながら、地面を手で探る。
散らばっている札を一枚つまみ、人差し指と中指で挟んで掲げ
ごく単純な祝詞を諳んじる。
シスイ
「……
清水、招来。」
瞬間、大量の水が札から吹き出して私を洗い流す。
この水は邪なものを禊ぐ力がある。汗まみれの体には、とても心地よい。
「……ふぅ……。」
水を浴びきって一息つく頃には、少なくとも吐き気は消えた。
頭痛や不自由な感覚は続いているが、動けないほどじゃない。
立ち上がって長い後ろ髪をかき上げると、全身を湿らせていた水が
たちどころに消えてなくなった。
落ち着いたところで、自身について確認する。
身体や服装に損傷は皆無。きめ細やかな白い肌には傷一つない。
二つで一揃いの退魔符のホルダー“祓魔扇”は、
「翠華扇」は見当たらないものの、「藍華扇」と退魔符は残っている。
おそらくだが、戦闘したわけではないと見て取れる。
しかし、この縛り付けられたような感覚に加え、体にこびりついた歪な霊。
これは何者かによる“呪詛”が原因だ。なにせこちらは専門家だ、まず間違いない。
しかも先程の単純な禊ではびくともしないほど、根が深く緻密な呪いのようだ。
つまり、見知らぬ土地で、外傷もなく、ただ呪われた状態のまま放置されている。
……これはどういう状況?
一歩を踏み出す。異貌を晒す世界の空に、鈴とこっぽり下駄の可愛らしい声が響いた。
分からないことは考えても仕方ない。
なんのこれしき。
この程度で、他人様に弱味なんて晒してやるものか。
平気な顔をするのは私の得意分野だし、なにより平気だ。
今は自分のことより、知り合いが心配だ。
皆は無事だろうか、急がなくては。
とりあえず、似たような状況にいる人を探してみよう。
助けを求められたら、助けないわけにはいかないだろうが、
何かしら情報が手に入るかもしれない。あわよくば戦力増強も見込める。
もう二度とやることもないと思ってたのに。
あぁ本当に、億劫でたまらない。