ハザマには、『チェックポイント』と称される地点が存在する。
ベースキャンプへ帰る前にその地点を通過しておけば、その地点を目印に次元タクシーを走らせて貰えるという侵略戦争のシステムの一つだ。
先刻このチェックポイントの守護者である魔導人形たちを退けたことで、伐都たちは一度ベースキャンプへ帰還することを選択したのだった。
これでもう五時間は経っただろうか。
言葉にせずとも、巳羽や壱子の憔悴は一目で分かるほどだ。
自身が前線へ出るタイプではなかった伐都もまた、少しずつ溜まっていく疲労を隠せてはいなかった。
漸く気を休めることが出来る。その事実は、一時の休息を取る理由には充分だった。
伐都は自ら立候補した物資の買い出しを手早く済ませると、荷物をエイドたちに任せてベースキャンプを後にする。
オニキスはベースキャンプから少し離れた位置に存在する木々のひとつに背を預けて佇んでいた。
恐らく時間を気にしているのだろう。首から提げた懐中時計を開いて文字盤に目を落としていた男は、伐都の気配に気づくとすぐに時計を閉じてしまった。
「小娘との家族ごっこはいいのかよ?コウモリくん」
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バツ 「今おれに必要なのは『それ』じゃあない。巳羽の奴だってきっと同じさ」 |
吸血鬼たる男のすぐ近く。座り易そうな切り株の一つに乱暴に腰かけながら少年は言う。
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バツ 「前置きは充分だ。あんたも気付いているんだろ? オニキス」 |
何を語りに来たのか、男にその答えが既に分かっている筈だと言わんばかりに続ける。
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バツ 「この『侵略戦争』はおかしいんだ。不自然……そう、明らかにおかしいところが幾つかある」 |
まるで、『準備運動』だとでも言うかのような生温い敵対者。争いを煽るには中途半端に抑制された異能の強化。
それは、実際にアンジニティの争いに身を置いてきた二人だからこそが感じ取れる違和感だった。
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バツ 「あんたの考えを聞きたい」 |
「ちったあ目が覚めてきたらしいな。……幾つか?嘘をつけ。違和感なんぞ、ここにはありすぎる程だ」
男の嘲笑うような笑みは既に失せていた。
木陰に翳された薄暗がりの中、緋の双眸が伐都を捉える。
「――このゲームはそもそも『侵略』なんぞを目的にしちゃあいない」
「何のつもりで始めたかは知らねえが――世界二つを丸ごと巻き込んだ能力行使。
どれだけの力を持っていようが、そう易々と連発できる規模じゃあない。
……『ヤツ』も未だ、おっかなびっくり説明書片手にやってるんだろうよ」
大きな違和感は、示された目標と思惑が剥離しているから。
小さな違和感は、仕掛け人にとっても不慣れで全容が把握しきれていないから。
それが、吸血鬼の解答だった。
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バツ 「おれの見立ては間違いじゃあなかったって訳だ」 |
少年には、男の苛立ちの理由が少し分かった気がした。
世界が、障害が、思惑が。
思い返せば、何もかもが疑わしかった。
それはまさしく、『本気』ではなかったからなのだ。
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バツ 「言うなりゃ『試運転(テスト)』ってとこか。この大掛かりな能力を少しずつ、少しずつ調整しながら……機が熟したところで、本当の戦争を始める……そんな辺りかね」 |
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バツ 「記憶を消されるのか、はたまた甘い戦いに慣れたところでいきなり地獄にぶち込まれるのか……いずれにせよ、おれたちにとっての『戦い』は始まってすらいなかったんだ」 |
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バツ 「あんたはこの先の黒幕の動きをどう見る?」 |
「俺達には未だヤツの掌の皺さえも見えちゃいない。……が、こんな大がかりな舞台を用意するようなヤツがただ眺めて過ごす理屈がねえ。いずれは干渉してくる」
「その時だ。その時こそが、俺にとっての本当の『ゲーム』の開幕」
「この首に付けられた鎖を辿って引き摺り落とし、喉笛を掻ききってやる。どんな手を使っても、必ず」
その言葉には、確かな怒りが宿っていた。
どれほどの力を削がれようと、どれほど永い時を過ごそうと、この男の誇りには一片の曇りも無かった。
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バツ 「――同感だ。わざわざ次元タクシーだのチェックポイントだのを用意してくれている以上、黒幕は必ず手を出してくるだろうさ」 |
公平性を謳い、ハザマの世界に様々な仕込みを施す『黒幕(ゲームマスター)』。
その介入がある限り必ず真の目的に迫ることが出来ると、少年はそう信じていた。
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バツ 「いいね、少なくともあんたがその機を逃さず焼き尽くしてくれるってんなら、そいつに乗らない理由はねえ」 |
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バツ 「――これは、おれの予想なんだけど」 |
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バツ 「『仕切り直し』が近い気がするんだ。この1、2時間は、あまりに静か過ぎた。……や、そうであってほしいってのもあるんだけど」 |
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バツ 「とにかく、榊とかいうヤツからの通信が急に止んだのには理由があると思うのさ。たとえば……そう、誰かが『ゲーム』の不備を見つけた、とか?」 |
「『仕切り直し』。仮にそうだとしたら――てめえはどうなる?イデオローグ」
冷徹にして冷淡な声音。この地で再会した瞬間の、険難な雰囲気を放つ『裁定者』がそこにいた。
「俺にはある。絶対の確信が。吸血鬼オニキスは、王だ。――何処に放り込まれようが、幾度繰り返そうが、俺は俺の主で在り続ける」
「……見りゃ分かる。開幕と比べりゃあ、お前にも成る程多少の心境の変化はあったんだろうよ」
「だがそれは他所から与えられたもんだよなあ。あやふやな夢から始まった、曖昧な自我。そんなものが同じ道筋を辿れるなんざ到底有り得ねえ」
「前置きは十分だ」
「もう一度『あの時』を繰り返したら――小娘と婆さんを前にして、お前は一体何を選択する?そう断言できるだけの、己への確信があるのか、てめえには」
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バツ 「――ずっと考えてたよ。 おれの軸は何処にあるのかって」 |
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バツ 「どうしようもなく卑怯者で、どうしようもなく臆病なおれが、自分以外の誰かの為に命を燃やすだなんて『奇跡』に、もう一度辿り着けるのか。そいつが自分自身でもずっと疑問だった」 |
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バツ 「結城伐都の人生がやり直しになったとしても、同じ道筋を辿ることはきっと無いんだろうな。全ての出会いは偶然で、何もかもが奇跡の連続だった」 |
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バツ 「次も隣に同じツレがいるとは限らねえ。おれがどんな人間になってるかなんて、見当もつかないんだ。DJなんてやめちまってるのかもしれない。友達だって出来ないかもしれない。イデオローグの頃がマシだったと思えるくらい、どうしようもなくしんどい人生を送ることだってある筈さ」 |
思い返すのは、イバラシティで紡がれた数多の縁。
アンジニティの侵略者にも、友人がいた。後輩がいた。先輩がいた。教師がいた。
たとえハザマでは敵対するのだとしても、それでも。結城伐都にとっては、そのどれもが大切な人だった。
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バツ 「……でも、絶対に変わらないこともある」 |
何かを確かめるかのように、開いた拳を握る。
浮かんでは消えていく、イバラシティに生きる大切な人々の顔。
これまで育ててくれた両親。何度も笑い合った級友たち。学園の職員の顔だって全員覚えている。
ステージ上で切磋琢磨したアウトロー。バイト先の仲間たち。学園見学の案内をしたことから始まった縁だってあった。
そして、何よりも――
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バツ 「イバラシティには巳羽がいるんだよ。おれの大切な、どうしようもないくらいバカで、どうしようもないくらい立派な妹がさ。理由はそれだけで十分だ」 |
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バツ 「たとえ兄妹じゃなくったって、出会うことすら出来なくたって。いいや、記憶を失くしたとしてもだ。おれは必ず思い出して、妹のいるこの世界を壊させない。何度だってアンジニティを裏切って、何回だってイバラシティを守ってやる」 |
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バツ 「だから、『奇跡』でいいんだ。奇跡に頼るくらいに無茶な願いだったとしても、おれはそこに辿り着くまでは絶対に諦めねえ。そいつがおれの決めた『覚悟』だ」 |
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バツ 「オニキス。おれはあんたみたいに何度繰り返そうが変わらないなんて格好いいことは言えないよ。でも、この魂に一度刻まれたもんがある限り、必ず辿り着く。どれだけ道筋が変わっちまったとしても、必ずだ」 |
奇跡で構わない。
覚悟さえあれば、歩みさえ止めなければ。
零で無い限り、それは必然に変えられるのだから。
そして歩みを止めない理由は、既にこの胸の中にある。
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バツ 「おれはどうしようもなく卑怯者で、どうしようもなく臆病だけどさ。……それと同じくらい、『シスコン』みたいなんだ」 |
「――は。くく、そいつぁ、小娘にとっても傍迷惑な結論だわな」
「……まあ、いい」
「コウモリらしくふらふら頼りなく飛び回って、彼方此方にぶつかりながら掻き集めるがいいさ。どんだけ歪で違う形になろうとも、確かにそこには『重さ』はあるんだろう。抱えて落ちる先は知らねえが、な」
「『夜明け』が来た。そろそろ女どもの顔も拝んだ方がいいだろう」
「――行くぞ、『シスコンのバット』くん」
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バツ 「……!」 |
たとえ仮初の人生をあてがわれたのだとしても。
たとえ仮初の役どころをを押し付けられたのだとしても。
確固たる定義は。その『魂』は、けして揺らがず、変わることはないのだ。
結城伐都が、イデオローグの一つのIFであるならば。
――天河ザクロだって、きっと。
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すべてが作られたものではなかった筈だ。
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バツ 「――ああ。 行こうぜ。一秒だって無駄には出来ねえ。 あんたからはまだまだ学ばせて貰わなきゃいけねえことが多いからな、先生」 |
少年もまた、立ち上がり、前を向いて歩き出す。
己の確固たる定義を胸に、少しの希望を心に抱いて。