その日から、僕の成長は止まった。
暗闇の中で歌を歌った。
暗闇の中で歌を歌った。
暗闇の中で歌を歌った。
僕が歌う度に先生は喜んだ。
褒めそやし、望めば抱き締めてくれさえした。
歌唱の技能だけで見るなら、きっとまだまだ
伸び代はあったのだろう、と思う。
でも、僕の『異能』はそれを補ってなお余りあるものだった。
直接感情を揺さぶる『夜空の唄』。
だけど、それは……人の心を削り取れるほどに強力で。
僕は、それに気付いていながら何も言わなかった。
だって、そうしないと『先生』は褒めてくれないから。
『先生』が日に日に窶れていくのを、僕は黙って見ていた。
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「ねえ、本当に大丈夫なの?」
眉を顰める私に対して、とばりは確かに嬉しそうに、
しかし酷く翳りのある瞳で微笑みかけてきた。
「大丈夫だよ。やっと、やっとで……『先生』を
満足させられるものが近づいてきたみたいなんだ」
いつからか、私は彼女の歌を聴いていない。
曰く、昼間は演奏の練習だけに費やして
歌うのは夜だけになったのだとか。
ただ、その瞳が昏く澱んでいることさえ除けば
彼女は確かに、これまでにないほど活き活きとしていた。
「歌の方はね、もう大丈夫だと思うんだ。
だから、今度は演奏の方を何とかしなくちゃな、って」
彼女のことが気がかりで、それでも口に出せなかったのは
今はどうあれ、とばりの夢は必ず叶うと信じていたから。
もしも、もっと早くに声を上げていたならば。
この結末は変えることが出来たのだろうか?
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『先生』が倒れた。
精神に直接作用する歌を毎晩のように耳にして
今まで無事でいられたのは奇跡に近かったのだろう。
いつかそんな日が来ると、薄々分かっていたのに。
いざそうなってみると、何をして良いのか全く分からない。
だって、僕は歌うことと、演奏すること。
そのふたつ以外、何も教えてもらったことがなかったから。
ただ、遠い昔、頭の隅に欠片だけ残っていた記憶を頼りに
『先生』をベッドに引きずって寝かせ、
濡れたタオルをその額に乗せた。
あとは、何ができるだろう。
僕には、何ができるだろう。
考えるまでもない。
僕に出来ることは、歌うことと、演奏すること。
それだけしかなかった。
暗闇の中で歌を歌った。
暗闇の中で歌を歌った。
暗闇の中で歌を歌った。
星の光も差さない部屋の中で。
ただひたすらに歌い続けた。
だって僕はそれしか知らなかったから。
……静かだ。とても、とても。
何も聞こえない。何も聞こえない。
『先生』の呼吸の音さえも。
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その日、とばりはなかなか待ち合わせの場所に現れなかった。
雨が降りそうな曇り空、もう少しだけ待って来なければ
今日は諦めて帰ろうか、と。
そう思いかけたとき、足音が聞こえた。
いつものアップテンポな調子ではなく、
不規則な、まるで壊れたメトロノームのような。
「……とばり?」
振り返ると──果たして、彼女はそこにいた。
前回会った夜と変わらない笑顔で。
光の消えた、暗闇のような瞳で。
「……ねえ、『すてら』。」
「僕ね、『先生』を……殺しちゃった」
──何を言っているのか分からなかった。
ただ、彼女は覚束ない足取りで私に近づいて。
食い込むほどに強く肩を握って、変わらない笑顔で語りかけてきた。
「ねえ、すてら。言ったよね。
僕のお願いごと、叶えてくれるって。
僕のお願いごと、おほしさまに届けてくれるって。
ねえ、ねえ、ねえ。」
夜空よりも黒い瞳から、ぼろぼろと涙が溢れる。
張り付いたような笑顔で私の肩を揺さぶる。
「お願い、すてら。『お母さん』を、蘇らせて?
お願い、聞いてくれるんだよね?約束したよね?」
何も願わなかった彼女の、初めての願い。
それは、あまりに必死で──けれど、叶えようがないものだった。
「……できないよ。……できない」
それだけの言葉を、必死に絞り出す。
「『願い事』っていっても、さ……限度が、あるんだ。
どうしようもないことは……どうしようもないんだ。
人を、生き返らせるなんて……私には、できないよ……」
私はとばりの顔を、眼を見ることが出来なかった。
あの真っ暗な瞳がこちらを向いていると思うだけで、
逃げ出したくなるほどに怖かった。
「そっか」
彼女の手から力が抜ける。
足から力が抜けて、私はその場に座り込んだ。
見上げれば、真っ黒な雲は泣き出すように雫を零し、
とばりはその空の下で私に向けて微笑んだ。
「……嘘吐き」
今も、その言葉が耳について離れない。
私が最後に聞いた彼女の声。
冷たい雨が降る夜だった。
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『先生』の葬儀は、身内だけでひっそりと行われた。
綺麗に化粧された彼女の死に顔。
集まった親戚たちは、誰一人としてそれを見ようとしなかった。
ただ、彼女が溜め込んだ遺産を誰が相続するか。
それだけを巡って延々と争っていた。
皆が口を揃えて同じことを言った。
『私には遺産を相続する権利がある』と。
そのうち、誰かがこう言った。
『お前は遺産よりもその子供を連れて行くべきだ』と。
皆が口を揃えて同じことを言った。
『私に子供を引き取る義務はない』と。
「……おかあさん」
赤い花を手向けて、僕はこっそり葬式を抜け出した。
僕の居場所は、もうどこにもなかった。
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私は三日三晩魘されて、病院の白いベッドで目を覚ました。
とばりに会いにいこうとしたけれど、冷たい雨の中で
一晩野晒しにされた私は肺炎を起こして
身動きが取れなくなっていた。
退院できたのは、2週間も経ってから。
真っ先にとばりの家に向かったけれど、
彼女の家は売りに出されていて、近所の人に聞いても
とばりの行方は分からなかった。
その日の夜、私は荷物をまとめてリュックに詰め込み、部屋を抜け出した。
やることはひとつ。
『お星様』にお願いをしてとばりに会いに行く。
「お願い、私を──とばりのところまで連れて行って!」
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僕は、独りで生きていく方法なんて知らなかった。
ただ、以前すてらが面白半分に登録した創作者支援サイトに
気まぐれで作って乗せた曲のお陰で僅かな収入はあった。
それに、家を出るにあたって『先生』の財布を
持ち出してきたから、少しの間生き延びるくらいの
金銭は手元に残っていた。
ネットカフェは安い値段で滞在できて、
その気になれば寝泊まりさえできる、と。
それを教えてくれたのもすてらだった。
あの夜、僕が何を口走ったかはよく覚えている。
だから自分からすてらに会いにいく気にはなれなかった。
それでも、もしかすると優しい彼女は僕のことを探し出して。
またいつかのように手を引いてくれるのではないか、と。
そんなことを期待していた。
こん、こんとネットカフェの扉を叩く音がする。
「……すてら?」
ほんの少しの期待を込めて扉を開ける。
そこにいた見知らぬ誰かは、和かに笑って
僕の耳元で囁いた。
「やあ、『星空とばり』ちゃん」
「知ってるよ、歌手の『星空ひかり』の変死事件」
「……あれ、君がやったんだろう?」
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黙っていて欲しければついてこい、と。
言われるがままに僕は知らない誰かに連れていかれた。
彼が僕に何をしたのか。
僕が彼に何をされたのか。
分からなかった。分からなかったけれど──
それはとても痛くて、とても気持ち悪いことだった。
何日もかけて僕は念入りに汚されて、
そして今──首を絞められている。
明滅する視界の中で、最期に思い出したのは
──僕のたったひとりの友だちのこと。
せめて、ごめんなさいを言えたら良かったのにな。
ごきりと嫌な音が頭に響いたのを最後に。
僕の意識は慣れた暗闇の中へと沈んでいった。
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冷たい雨が降る夜だった。
「……とばり」
私は不法投棄されたゴミ山の前に立っていた。
『お星様』が、私をここに連れてきた。
だから、分かっていた。
目の前のビニールシートに包まれているモノが
何なのか。……誰なのか。
「とばり……」
瞼は閉じて、あの黒い瞳はもう見えない。
腐臭に混じる生臭い匂いは、彼女がされたことを
残酷なほどはっきりと私に教えてくれた。
「……とばりの『お願い』、叶えてあげられなかったね」
彼女の遺体を埋めながら、私はぼんやりと考えていた。
いくら『お星様』でも、死んだ人を蘇らせることはできない。
「だけどさ。だからさ。
……今度は、ちゃんとした『お願い』見つけてよ」
だけど、『生きている人』を『作り変えてしまう』ことならば──。
「そのための時間は、私があげるから、ね」
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僕は不法投棄されたゴミ山の前に立っていた。
何をしに来たのか、よく覚えていないけれど。
「……なんだろうなあ……」
何か、何か大切なことを忘れている気がした。
記憶が穴ぼこになって、抜け落ちているような。
大きな違和感と虚脱感が心の中を吹き抜けていた。
考えなければいけないことはたくさんある。
具体的には独りでどうやって生きていくのか、とか。
ただ、どうしてだろうか。
泣きながら家を出たあの日と比べると
今の自分は根拠のない自信に満ちているような。
そんな気がした。
「……せめて屋根のあるところで眠りたいよね」
自分のものなのに、変に馴染まないリュックを背負い直して
『お星さま』の光を指先に集める。
「『すてら』、お願い。
寝泊まりできそうな場所まで運んでよ」
『私』の『異能』、『ステラの魔法』。
きらきら ひかる おそらの ほしよ