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物心ついた時から、わたしの側にはお母さんだけがいた。
お屋敷に、あの人とわたし。
二人で暮らすには大きすぎるくらいだったけれど、
フリージアの香る中庭の、芝生の上に寝転んで。
頭が痛くなるからと膝枕をしてもらった、いつかの思い出。
わたしは、そんなのんびりとした日々が好きだった。
たまに、黒い服を着た怖い人達が廊下を歩いていることがあった。
ただでさえ大きな家の中。自分以外の誰かがいたら、気になって仕方がない。
黒い人。白い人。
ふさふさの人。つるつるの人。
ヒゲの人。ツルツルの人。
何人も居るようだった。
毎日かわりばんこに廊下を歩き、いつもわたしの方を見て、
けれど声をかけようとするとどこかに行ってしまう。
わたしが大きくなっても、お屋敷にいる人は両手で数えられるほどだ。
わたし、お母さん、
お父さん、
お姉ちゃん、黒い服の人たち、メイドさん。
小さかった頃のわたしは、それが全てだと思っていた。
「お屋敷の外へ出てはいけない」と、お母さんは言う。
わたしはその言葉を、約束を破らずに、お屋敷の中を歩いて、走って、探検して、遊び回った。
ある時、お屋敷の地下まで迷い込んだわたしは、一際大きな扉のついた暗い部屋に入ったことがあった。
本棚と木箱が並んだ、不思議な部屋。そこはとても冷たくて、とても暗くて、とても怖かった。
ぶるぶると震えながらなんとか周りを見渡して、背の低い机の上に小さな桐の箱が置いてあることに気がついた。
その箱を持って自分の部屋に帰り、中を覗いた瞬間。
眼の前に、大きな"ワニ"が浮かんでいた。
◆ ◆ ◆
物心ついて間もない頃、ある男はわたしに言った。
「
お前など、生まれるべきではなかった」
――と。
それは凡そ人の親が発していい言葉ではないはずで。
しかし、当時のわたしはその台詞と、捲し立てる男の形相とが頭にこびりついて、事あるごとに恐怖した。
そんなことを口走ったあの男と、それについて従う数年歳上の女は、わたしに対して何一つ反応することはない。
……当然だ。
女と男が混ざりあった身体に生まれただけでない。
人ならざる力までもこの身に宿した娘など、一体誰が可愛がれるというのだ。
客観的に見れば彼らの反応こそが正常で、母の行動こそが異常に映る。
双海の家系では特別珍しくもないそれら特徴を、二人が偶々
受け継がずにいたというだけで、世界の常識は逆転する。
わたしの存在を認めようとしない連中は、『無視する』ことを選んだ。
剰え、使用人を通して必要以上の外出を制限し、唯一許された学校への通学に至っても真っ直ぐ下校するよう徹底された。
交友関係は殆ど無く、校内行事の参加など以ての外である。
あんな者たちでも、世間一般では"父"や"姉"と呼んでわたしと結びつけようとする。
不愉快という感情すら湧いてこない。
無視されるのであれば、こちらも無視すればよいと気がついたのは、入学から一年ばかり捻くれた後のことだ。
あの男の所為で少なからず歪んで育ったであろうことは否定しない。
家庭内におけるわたしの立場がどうなろうと、もはやどうでもよかった。
それでも母に迷惑を掛けて、無理をさせてやいないかと心を痛め。
何年も、何年も、"家族ごっこ"を続けてしまった。
恐らくは、わたしが何歳になろうと、その関係が続くはずだった。
あの男
ただ一つ――
お父さんが母に手を上げさえしなければ。
◆ ◆ ◆
"ミクスタ"というのは、
それを初めて見たその時に、ふと頭の中に浮かんだ名前だった。
ナ ナ カ マ ド
『
Sorbus commixta』のもじりだと分かったのは、それからずっと先になる。
ぼんやりと薄く色付いていた頃の"ミクスタ"は、自分の部屋の中でのみ形を保つことができた。
扉や窓などのはっきりとした線を境に、室内という『海』を泳ぎ回る自由な生き物であった。
喋ったりはしない。手で触れられもしない。言っていることを理解出来ているのかも分からない。
ふよふよと浮かんだまま、こちらの呼びかけや動作に反応するように、じたばた手足を掻いて楽しませてくれた。
その一点だけで、わたしは"ミクスタ"に興味を抱いた。
一ヶ月、一年と過ぎていくにつれ、"ミクスタ"はわたしの部屋のみならず、廊下をも泳げるようになっていった。
母を始め他人に見られないよう気をつけながら、お屋敷という名の大海原に繰り出しては不思議な生き物について理解を深める。
まんまるで愛嬌のあるワニが新たに広がった世界を前に燥ぎ回る。
そんな姿を眺めるうち、わたしはこの奇妙な生き物と不可解な空間に、どうしようもなく惹かれていた。
あの男が母を傷付けた、いつかの夜。
"ミクスタ"が人の形を得て、確かな実体を持って現れたあの日。
連中
わたしは、
家族が自分を避けていた理由の一端を漸く思い知った。
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