――悲しい過去も、苦しい今も、不安な未来も一旦忘れて――
――今は、今だけは、ただ楽しい夢を――
ヒトの心を救えるのはそのヒト自身。私はその手伝いをする道具。
まだできる。まだやれる。やらなくてはいけない。そのために造られたのだから。
止まること勿れ。奪われても傷つけられても嘲笑われても閉ざされても。
諦めること勿れ。ただ存在し、歌い、道に轍を刻む。それが証明になる。
忘るること勿れ。それだけが、私という道具の存在価値を保証し続ける。
遍くヒトの心は救われるに値する。全うせよ。疲れや痛みはヒトのもの。
誰かの心を照らすため、我が身を燃やして星と為せ。
これを、祈りと言わずしてなんと言おう。
『あの子』が笑っている。『あの子』が他の人間と触れ合っている。
様々な人と、とても穏やかに言葉を交わして優しい時間を過ごしている。
私は、『自分の記憶』としてではなく――それをどこか遠くから見ている。
それはそうだ。当たり前のことだ。
『あの子』には疎まれ蔑まれた記憶はない。幸せなまま生きている。
それに、モノはヒトではない。モノは、ヒトのためにあるものだ。
『あれはわたし』『ちがうよ』『あれはヒトだよ』
『しあわせかな』『しあわせだよ』『きっと』『なにもしらないから』
がたぴし動く音に混じって、心臓の破片たちがほうぼう勝手にささめいている。
鳴り止まない。
『あのひと』『アンジニティだったね』
『もううばわないで』『さびしくないかな』『こわい』『それでもわらってほしいの』
割れ落ちた心の欠片が。
鳴り止むことはない。
『あのひと』『イバラシティだったの』
『たたかいたくない』『てきじゃないのに』『それは』『つごうがよすぎるよ』
箱の中で、からから。
私も大きな欠片にすぎないのかもしれない。やがてまた砕けるだけの。
『かなしい』『あれはだれ?』『どっち?』『おそってくる?』『しってる?』『くるしい』
『だれか』『だれか』『だれかをよんで』『どうするの?』
悲しいヒトの心を救う。ずっとそうだっただろう。それ以外に道など知らない。
歩み続けろ。長い長い一本の道を。
『ヒトの記憶』『ヒトの心』『ヒトの言葉』『ヒトの経験』『私はヒト?』
私は道具。思い出せ。意識しろ。私は、私҉は。
『ステファンさん』『ステファン』『館長さん』『ミュンヒさん』『ミュンヒハウゼン』『スー』
私҉を呼ぶ声がする。皆、私҉を嘲笑わな҉い҉。あ҉の҉子҉が҉そ҉の҉声҉に҉応҉え҉て҉微҉笑҉ん҉で҉い҉る҉。҉
混濁、 離散、 混同、 錯覚、 夢想、 忘却、 記録、 零落、 羨望、 悔悟、 憂慮、 理想。
『ステファン・"エティエンヌ"・ミュンヒハウゼンという。よろしく』
私҉は。
びし、と箱の中で大きな音が響いた。
夢を見ている間に、他の三人がだいぶ前を歩いていた。
置いていかれる前に、手を。
手を伸ばして、声をかけて、待ってもらわなくては。
手を、
手を。