金は火によりて試され聖者は逆境にて試さる 後篇
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《響奏の世界》イバラシティ タニモリ区『ヤガミ神社』
ヤガミ神社は、古の神を祭る歴史の長い神社である。
参道を朱に染めていた日の光が途切れはじめる暮六つ時、
ご神木と神輿蔵が重なった影に1人の男が立っていた。
アズライト・シィ
日に透けると紺青色の髪を持つ、細身の青年。
右手には白杖、左手にはスマートフォンを持つ。
眼鏡をかけた姿は、柔和な印象を与えるだろう。
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アズライト 「ここは……どこだ……?」 |
この神社に来るまでの経緯が思い出せない。
彼は鈍く痛む額を押さえ、思考をめぐらせる。
自分の名前は、アズライト・シィ。
ドイツ公立ハノーヴァ医科大学に籍を置く、
中国系ドイツ人の大学院生……。
あらかた必要なことを思い出してから、
アズライトは自分がどうしてここに居るのかを理解した。
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アズライト 「そうか、今日はタニモリ区を散策してたんだっけ。 こんな簡単なことを忘れていたなんて、 もしかしたら僕は、自覚している以上に旅疲れをしているのかも」 |
ドイツから日本へ渡ってきたのは、つい数日ほど前のはず。
ろくに休みも取らずイバラシティを回っていたのでは、
観光であっても疲れるというものだろう。
時刻は17時を過ぎたころだが、外は薄暗くなっている。
彼がご神木を見上げると、
頭の位置のあたりに、紙のようなものがあった。
何か書かれていることは分かったが、
全てが曖昧に見えるアズライトの視力では、文字までは読めない。
彼は左手のスマホを操作して、読み上げAIアプリとカメラアプリを立ち上げる。
そして手早く紙のようなものを撮影した。
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アズライト 「シレクサ、撮影された文字を読んでくれる?」 |
アズライトはAIに向かって呼びかけた。
軽快な機械音とともに、画像を分析したAIが反応した。
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汎用AIシレクサ 「悪魔は 羊のように 鳴くことを 忘れるな」 |
抑揚のない合成音声が、文字を忠実に読み上げる。
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アズライト 「……えっ? ごめん、もう1回読んで」 |
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汎用AIシレクサ 「悪魔は 羊のように 鳴くことを 忘れるな」 |
もう1度呼びかけても、同じ答えが返ってきた。
最初は自分の聞き間違いだと思ったが、そうではないらしい。
気味が悪くなってその場を離れようとしたところ、
参道の方から何やら呟く男の声が耳に入ってきた。
アズライトの聞いた男の声は、何かを読み上げていた。
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アズライト 「もう日も暮れているのに、朗読なんてしてるのか?」 |
不思議に思った彼は、気づかれない範囲で参道に近づく。
神輿蔵から離れ、ご神木に沿って姿が見えないギリギリの場所で
何を言っているのか聞き耳を立てた。
小島 正男
おじままさお。目つきの悪い中年男性。
鼠色のダウンコートに褪せたジーパンと
小奇麗なスニーカー。
左手に魔法陣の描かれた分厚い本を持っている。
低い男の声を聞いて、アズライトは身体の動きを止めた。
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アズライト 「これ、呪術の類じゃないか……? シレクサ、今から唱える呪文をネットで検索して」 |
ご神木から少し体をずらして、男の位置を確認する。
男は参道を挟んで反対側におり、こちらに背を向けていた。
おぼろげな視界で覗き込んだ彼は、
よほど大きな音を立てない限り気づかれる様子はないと考えた。
男の呪文を復唱し、AIに検索させる。
AIが導き出した答えは『ハンブルグ降霊術手引書』だった。
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アズライト 「降霊術……? 黒魔術でしょ、これ。 素人が扱っていいものじゃないよ?」 |
黒魔術のことなどファンタジー小説くらいでしか知らないはずだが、
アズライトはこの男が危険を冒していると確信を持った。
どうやって止めようかと思案している間に、呪文は唱えられていく。
ふいに男の声色が変わったので、
何があったのかとアズライトは反射的に参道へ顔を出す。
そこには、参拝所近くに置いてある何かに小動物が群がる姿があった。
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正男 「そこに置いてあるブランド豚のガラはなぁ、大切な生贄! オメーにやる豚ガラなんかねぇよ!!」 |
鈴のような猫の鳴き声が聞こえた。
どうやら豚ガラを鼻先でつついていた猫は、警戒すらしていないようだった。
男は潰れた声をつくり、猫を追い出そうとするが
猫は少し離れるも豚ガラを諦めてはいないようだった。
この様子をぼやけた視界でかろうじて見ていたアズライトは、
豚ガラで召喚される悪魔など聞いたことがないと
やや脱力しながらその場を離れようとした。
――そんな、いつもより暗く紅い、逢魔が時。
アズライトの脳内に、或る男の姿と声が再生された。
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アズライト 「……あっ……!」 |
自分はこんな男など面識はないはずだ。
しかしどれだけ理性が呼びかけても、心臓の脈動は速くなっていく。
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アズライト 「榊……? 僕はお前なんて知らない、 知らないいいぃいいい!!!!!!」 |
アズライトの絶叫は、境内全体に響き渡った。
豚ガラを狙っていた猫は社の奥へ逃げ、
召喚儀式らしきものを行っていた男は、
ようやく境内にもう1人居たことに気づいたのだった。
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《響奏の世界》イバラシティ シモヨメ区『大衆レストラン どらごん亭』
ヤガミ神社の最寄であるタニモリ駅から
環状線を2駅ほど乗った場所にある、『大衆レストラン どらごん亭』。
少しレトロな雰囲気を持つ、家庭的な洋食屋である。
神社で怪しげな儀式をしていた男に半ば強引に連れて来られ、
アズライトは居心地悪そうな様子を見せながらカウンター席に座っていた。
連れて来た当人は、キッチンの中で何やらこしらえている。
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アズライト 「あの……正男さんでしたっけ? ここはあなたの店なんでしょうか?」 |
名前などの簡単な自己紹介は、ここに来るまでに済ませていた。
正男は器に調味料を入れつつ、生返事をする。
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正男 「そうだよ、俺の店。 ほら支那そば作ってやったから食え、故郷(くに)の味だろ?」 |
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アズライト 「僕は中国系ドイツ人です」 |
ドイツ人、の部分を強調しつつもアズライトは器を受け取った。
レンゲでスープをすくい、一口含む。
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アズライト 「このスープ、あの豚ガラで取ったんですかね。 どうして神社で降霊術なんてやろうと思ったんですか?」 |
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アズライト 「どっちだって一緒ですよ、英雄とやらを召喚したいのはなぜですか?」 |
自分が息巻いても物怖じせず
麺を上手にすすっている相手を見て、正男は溜息をついた。
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アズライト 「都市伝説系の怪談なら、どこの地域にでもありますが」 |
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アズライト 「それは英雄ではなく保健所を呼ぶ案件では」 |
不安になる気持ちは分からなくもない、と心の中で続ける。
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正男 「だからよ、強い異能とか持ってそうな奴を召喚して ヤバい建物を調査してもらおうと思ったんだ」 |
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アズライト 「……そうですか。しかし、降霊術が失敗して良かったですね」 |
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アズライト 「ネットで調べたんですけど、 あなたが持っていた魔導書の複製品、 本物はドイツの博物館にあるんですが……中身は黒魔術です」 |
正男の反応が強張った。
これは複製品を召喚魔導書と銘打たれ、法外に高い値段で買ってしまったなと
スープを飲みつつアズライトは察していた。
その時、ふいに店の扉が開く。
小島 良子
おじまよしこ。長めの髪を後ろに束ねた女性。
薄手の白いダウンコートに青いリブニット、
千鳥格子のテーパードパンツスタイル。
良子の声からほどばしる、察するに余りある怒りの感情。
急いで店を出ようと、アズライトは残ったチャーシューを頬張った。
良子の言葉がぴたりと止まる。
どうやら別口の収入源のために休んだと思ったらしく、
冷静になった女性は、少し離れたテーブルの席に座った。
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正男 「なぁアズライトさんよ、あんた目の手術待ちでしばらくイバラに居るんだろ? それならさ、うちは民泊の許可取っているから 下宿しながらいろいろ調べてくんねぇかな」 |
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アズライト 「調べるって、怪しい場所ですか?」 |
正男が大袈裟に頷く。
しばらく考えたあと、アズライトは器の中の最後のスープを飲み干した。
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アズライト 「わかりました。 空いた時間にいろいろ調べてみましょう。 しばらくはお世話になります」 |
アズライトは面倒を押し付けられているとは知りつつも、
当面の宿と食事を確保できたと安堵するのだった。
To be continued......