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兎斬雫は、空を見上げていた。異様な空だ。ある部分は赤に、ある部分は黒に、そしてある部分は緑色に染まっている。本来、空にあってはならないはずの深く濃い色がない交ぜになって、奇妙な光景となっている。しかし、それは現実離れをした、ある種の幻想的な景色だった。空の色がうねり、移り変わっていく。赤と緑と黒との、その変化の様子を雫はじっと見つめていた。視界に白色のもやが混じる。吐く息が白い。肌に感じる寒さはさほどではないが、不思議と厚めの軍服を着ていても暑くはないし、分厚い防刃手袋をしていても蒸れない。しかし、からだの中から口を通って出てくる息は相変わらず白い。
この世界にやってくる前の戦いが思い出される。忘れようにも忘れられない……第四次サリファン戦役だ。その最前線へ出ていく前夜も、雫はこうして空を眺めていた。ただ、その時は肌を刺すような寒さだった。ちょうど吹雪が止んでいて、空に綺麗なオーロラがかかっていた。周りには大勢の仲間がいた。雫のようにからだの一部が変異した「半妖」と呼ばれる者がほとんどだった。初めて共に戦う者から、何度も同じ死線を潜り抜けてきた者までいた。
規律違反と怒られない程度に部隊の皆とはしゃいで、オーロラを見ながら、珍しいからと大事に取っておいたズブロッカを分け合って呑んだ。桜のような香りがするお酒を、割るものは雪くらいしかなかったので、ほぼストレートで呑み合った。そして、記録を取るための、僅かしか支給されていないフィルムを使って、記念写真を撮った。これが記録だと、部隊の皆の写真を撮った。今までのどの戦いよりも過酷な戦いになる……そんな予感がしていて、他の皆もそうだったのだろうと思う。そして、その予感は見事に当たった。
第四次サリファン戦役は、壮絶な撤退戦で幕を閉じた。最終的な人的損耗率は6割を超えていた。その半数以上が最後の撤退戦での死亡だった。
その撤退戦には雫の部隊も参加していた。雪に閉ざされた地獄のような戦場を、雫は生き延びた。しかし、撤退が終わった頃には、雫の心と体は既に取り返しのつかないところまできていた。軍の医者に治療は不可能であると匙を投げられ、名誉除隊と称して軍隊を放り出され……結局、雫は死を迎えた。共に生き延びた部隊の皆も、雫が軍隊を放り出されるまでにほとんど死んでしまった。まだ生きていた人も、やがて死を迎えるだろう。
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雫 「……みんなのところに、行けると思ったんだけどなあ。」 |
雫は、確かに死んだ。軍隊を放り出された後、世界を越えた先で拾われてたどり着いた診療所のベッドの上で安らかに死んだ。
そして、身体を離れた精神は死出の旅路へと赴いたはずだった。
しかし、雫は再び身体を得て、ハザマに立っていた。
死んでからのことは良く覚えていない。記憶がぽっかりと抜け落ちているかのようだ。ただ、自分が何かに引き寄せられたことははっきりと覚えている。そして、今回の侵略行動について、何者かに簡単な説明を受けたことも。
イバラシティとアンジニティ、2つの世界のどちら側に着くかと問われ、雫は何となくイバラシティと答えた。その2つの世界について、雫は何も知らない。ただ、守る側がイバラシティ、攻める側がアンジニティということを教えられただけだ。今まで防衛戦や撤退戦の経験が多かったことから、経験が何かしら活かせるかもしれないと考えて、イバラシティと答えた。ただそれだけだ。雫にとって、どちらの陣営に着くかは些細な事に過ぎなかった。
それは、イバラシティでの生活の記憶を得ても、変わりはしなかった。
イバラシティでの生活の記憶は楽しいものだ。嬉しいものだ。向こうの世界での雫も悩みはあるけれども、それでも自分よりは生活的に恵まれている。もし、自分があのままイバラシティで過ごすことができたら、それは素敵なことだろうと思う。しかし、イバラシティでの生活、狭霧雫としての生活は夢だ。狭霧雫が兎斬雫のことを夢で見たように、兎斬雫にとって狭霧雫は夢でしかないのだ。いくら楽しくても、夢の世界に住み続けることはできない。目覚めを告げる喇叭か銃声が響けば、いつだってそこは戦場だった。雫にとっては、戦場こそが現実であり、そこは揺るがない。皆のところに行く前に、一つだけ戦場をくぐっていく。それだけだ。
武器を確認する。手榴弾、使い慣れた拳銃に剣鉈、それと解体用のナイフ……戦闘には向かないと近接格闘の師匠に何度も言われたが、結局一番手になじんだのが小さいころから握り続けてきたこれだった。ずしりとした剣鉈とナイフの重みが、自分の心を落ち着かせてくれる。剣鉈を鞘から抜く。よく切れそうな光をたたえている。動作を確認するようにゆっくりと振りぬいて、鞘の中に戻した。
ためらわずに征こう。ためらわず切りつけて、引き裂いて、引き金を引こう。危険の中を渡り歩いていこう。たとえ相手が、夢の世界で仲良くしていた子であったとしても……陣営は、今更覆せない。どんなに仲が良い友達でも、陣営が違って戦場で出会えば単なる敵のうちの一人にすぎないのだ。
空は相変わらず奇妙な色に染まっている。しかし、その赤と緑と黒との色は、出征前に基地で見た、オーロラがかかった夜空の色と一緒だ。
もしかしてと思って、背嚢を探る。思った通り、そこにはズブロッカが一瓶入っていた。封を切り、キャップに注ぐ。桜餅のような香りがした。遠征前夜、部隊の皆の騒ぎ立てる声が思い出された。お酒をキャップからぐいと煽ると、熱い液体が喉から食道を通って胃へと零れ落ちていった。
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雫 「……っ、はぁ!」 |
体がブルリと震えた。たまらなくなって、瓶からゴボリと大量のアルコールを流しこんだ。胃の中からポカポカとした感覚が広がっていく。懐かしい感覚だ。雪と血に覆われたあの戦場では、こうやって寒さをしのいでいたのだ。みんなで寄り添って、それでも凍死する子がいて、その死体まで使わせてもらっていた。その記憶が思い出されて……それが懐かしいと感じられる自分がおかしかった。
過ぎ去ったせいだろうか、お酒のせいだろうか、それは分からない。でも、それならいっそ、懐かしさに身を任せて叫んでしまおうと思った。
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雫 「我ら、血肉分けたる仲では莫れども、その武運拙きときは、再び、あの遥かなる極光の彼方で!」 |
兎斬雫。11歳で軍隊に入り、12歳で初陣を迎え、14歳で死亡した少女。
これが、そんな彼女の――――最期の、戦い。