幸福など存在しない。
何故なら、見たことがないからだ。
それは必ずあると人は言う。または、必ず見つかると。
あれもこれも、お前の幸せだったんじゃないのかと、かけられる優しい言葉は何の慰めにもならなかった。
振り返ってみれば、なるほど確かに、自分の人生には幾つも幸福な時間があった。
楽しい事も、安らぎも、無数にあったように思える。
ただ、それらの全ては失われたものだ。
たちの悪い事に、失われる瞬間だけ、幸福というものは姿を現す。
派手な音を立てて砕け散り、無数の欠片となって全身に突き刺さる。
そしてその欠片は、幸福のささやかさとは真逆の鋭さで、身も心も蝕みつづけて。
そして、二度と戻ってこない。
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夢から醒める瞬間には二種類ある。
唐突か、そうでないかだ。
今回は前者で、意識は深谷の中に唐突に戻った。
同時に体がぐらついて、深谷はその四肢で地面を踏みしめ、体を支えた。
――やめろ。
脳裏にはたった一つの、否定を示す言葉。
その言葉は頭いっぱいに広がっていたが、深谷はそれを口にせずに済んだ。
蹲る弟子が見えたからだ。
長い黒髪を背に流した女は、街にいたときと全く変わらない姿でそこにいる。
深谷は溜息をつくと、先ほど地面を踏みしめた四肢を動かし、その背中に近付く。
そうして、右足を――正確には、右前足を――、伸ばして、その背を叩いた。あるいは、蹴った。
八矢 清
24歳の、艶やかな黒髪の女性。
大八洲という神の存在する国の出身。修行によって身につけた、微弱な神力を扱う。
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深谷 「清。」 |
答える声はなく、振り返りもしない。
だが、自分の声が確かに伝わったことを、深谷は知っている。
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深谷 「お師匠サマを無視するたぁ、ええ度胸やな、清よォ。」 |
深谷は前足を横に向け、蹲る清の正面に回った。
頭を掴み、鉤爪が刺さるのも気にせずその顔を上げさせる。
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清 「…………ッ。」 |
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深谷 「酷ぇ顔をしてやがる。」 |
もっとも、酷いと言うなら自分の方が酷い。
土気色の顔。両手だけではなく、荒れた地面を踏む四足の、二つは虎で、二つは馬。
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深谷 「泣きてェのはこっちだっての。こちとら好きな煙草も吸えねェってのによ。」 |
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清 「泣いてない。」 |
間髪入れずに返された声は、涙に濁らず、澄んでいた。
そうして、鉤爪が緩むと同時に視線が逸らされる。
清の眼前には黒々とした海。
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清 「深谷。わたしはどうすればいいの?」 |
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深谷 「それをおれに聞くのかよ。」 |
清が睨んでいるのは、恐らくは海ではない。
先ほどまでの夢だ。
すなわち、眉に唾をつけながら侵略の噂を聞き、
アルバイトに精を出し、たまに浜や河川敷に出かけては、
双子の兄弟だとか、マフラーを巻いた少年だとかと遊び、
深谷に隠れてこそこそと、拙い墨絵を描く。
そういった、穏やかな……しかし虚構に過ぎない暮らしを。
今、深谷ははっきりと思い出していた。
自分たちは狩場を求めてイバラシティに来たのではない。
多くの情報が入ったせいだろう、頭痛がした。恐らく清も同じだろうから、彼女の沈黙は、現実を取り戻すまでの時間だ。
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深谷 「おれらがどういう存在かだなんて、もう決まっているじゃねえか。 そして、それは変わりやしねぇ。」 |
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深谷 「今から侵略を邪魔しに行くか?」 |
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清 「しない。」 |
アンジニティであろうと、侵略の邪魔をする事は出来る。
しかしそれは、自分たちが再び否定の世界に落とされる事を意味した。
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清 「わたしはアンジニティ。」 |
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清 「わたしは罪人。」 |
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清 「わたしは、イバラシティを手に入れる……。」 |
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清 「……必ず。」 |
向こう岸を睨み、呪いのように呟く。
事実、呪いだったのだろう。
ここまで来てしまった今、祈りなど、何の意味も持たない。
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深谷 「…………。」 |
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清 「ねえ、深谷。」 |
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清 「わたしは何も辛くない……。」 |
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深谷 「そうかよ。」 |
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清 「わたしは、ちっとも、楽しくなんか無かった。」 |
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深谷 「素直じゃねェなあ。」 |
夢の日々の中で、薄い布団に転がって、あるいは座卓に向かって煙草を吹かす深谷に、
清はよく、その日あった事を話した。
とりとめも無い事だ。
マガサ区に品揃えの良い画材店を見つけたから、これから墨と紙はそこで買うだとか。
河川敷で、双子の高校生と水切りをして遊んだだとか。
浜でタンブルウィードをほどいていたら、中から宝石が出てきただとか。
スタンプラリーのチラシを見たから、深谷も行ってみたらどうかだとか……。
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清 「わたしは、幸せなんかじゃ、なかった。」 |
幸福など存在しない。
弟子の鋭い声に、深谷はそれを強く思った。
さっきまでは見ていたかもしれない。しかし、それはもう失われた。
これからまた。一時間が過ぎて、二人の意識がイバラシティへ戻されて、
再び虚構の、深谷と清の皮を被せられても。
それは断じて、幸福であってはいけないのだ。
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深谷 「まあ、そう言えるならそれでいい。 気が変わらねェ内に、行こうぜ、清。」 |
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深谷 「侵略とやらを、始めようじゃねえか。」 |
深谷(三劔 司)
土気色の肌に烏の鉤爪、猫と馬の体を持つ男性。
大八洲の出身で、修行によって身につけた神力を扱う。
師弟の異能「式神作成」は、その能力がシティの"異能"として処理されたものだった。