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《否定の世界》アンジニティ。
荒廃だけが残る場所。
世界に『否定』された者が落とされるパンドラの箱庭、その深海にて揺蕩うひとつの影。
徐に上方に向けて手を伸ばした。幾度となくなぞってきた動作。それはひとつの癖のようなものになっていた。
氷のように鋭利な水が頬を撫ぜ、とうに冷たくなった身体を凍て付かせてゆく。
この行動に意味はない。ここで出来る行動の殆どに、意味なんてない。
「(……なんで)」
ただこの胸に巡る行き場のない怨嗟と後悔が、映写機のようにからからと乾いた音を立て延々と繰り返されている。
彼の世界は、たったそれだけで完結していた。
数日前までは。
――それは、水に浮かぶ葉の船を気まぐれにつつくようなこと。
その行先なんて誰も知らない。知る義理もないだろう。航海図は、とうに滲んで読めなくなってしまった。
『侵略』を告げる放送。ワールドスワップ。
それを聞いたとき、思わず笑ってしまった。久方ぶりによく笑った。
だって、だって。……そう。これは、光。深海に差し込んだ光芒。
永遠の暗闇の中でようやく延ばされた、救いの手。
こんなこと、有り得ないと思っていた。もう前へ進むことも叶わないと思っていた。
なのに、こんな……こんな!
浮上し、岸に上がる。もうかつての自分ではない。『否定』された時に、海の縛めからは解き放たれた。
最も今度は、酷く乾いた場所に放り出されてしまったが。
ここは仄暗く、あの日見た空なんてありはしない。
目に焼き付いたこの場所は碧い。だがあの空はこんな色じゃない。
こんなの何も変わってない。外に出たい。自由になりたい。人になりたい。ただの幸福を享受したい。死にたくなんてなかった。生きている人間が眩しい。なんで。妬ましい。憎い、憎い。憎い。憎い!!!!
……光が欲しい。鮮烈に瞼を灼く閃光、煌めきが。
ならば。ならばこれは最初で最後の好機。
その手を掴み、獅噛みついてでも、あの陽の下に戻って見せる。
そのためならばなんだってしよう。
例えナレハテだろうと、イバラシティの奴らだろうと。己を引き摺り込んだこの水を以て沈めてしまえば良い。
冷たき海の底へ。救い無き水底へ!!
水際に立つ。海と陸のはざま、今は静かにさざめく波。それを水鏡とし、自身の姿を確認する。
ぐっしょりと濡れた、ぼろぼろのセーラー服。骨の覗く左手、先のない足。
酷い姿だと、自嘲するように口元を歪めた。
怨霊"高国藤久"。
それは己をそう語る。
ある時水死した青年の成れの果て。深い深い海を彷徨う船幽霊。
太陽に焦がれ、生の輝きに焦がれ、なればこそそれを持つ者を妬み。その手を引いては荒れ狂う波の中に呑み込んできた咎人。
この永遠の停滞から脱する時が来た。
敵対するもの全てをいざなえば、きっと自分もあの輝きになれるのだ。
――斯くしてそれは、人間としての仮初の身体と仮初の記憶を手にし。
街の住人に擬態する、『青年 高国藤久』となったのだ。