――夜明け前。潮騒の向こうに遠く、嘶きを聴いた気がした。
***
藻噛叢馬は創峰大学に通う学生であり、第二学部で海洋生物学を専攻する修士課程の二年生である。
学者だった両親は、彼が高校生の時にフィールドワーク中の事故で他界した。
それまで親族とは疎遠だったが、彼の祖父は代々続く学者の家の息子が大学にも行かず就職するなど恥であると考え、大学院までの学費とその間の最低限の生活費は援助すると一方的に告げた。彼としても特に異存はないのでありがたく受け取っているが、もし学者志望でなかったらさぞ揉めたのだろう。
祖父からの援助は寮に入っていることが前提であるため、寮を引き払ってアパートを借りている今現在、彼の懐事情はかなり厳しい。何故わざわざアパートに住んでいるかと言えば、理由はただひとつ。寮が狭いからだ。
1DKのアパートの部屋の真ん中に敷いた布団を囲むように、うず高く積み上げられた標本の数々。これが寮の部屋に入り切らなくなった、それだけだ。それどころか、この部屋の容量も既に限界が見え始めている。
奇妙な海の生物達に心惹かれるようになったのは、いつからだったか。それは親からの影響というにはあまりにも強すぎる欲求に思えた。
幼少の頃に読んだ図鑑の隅、子供が好みそうなコラムとして欄外に小さく載せられていた図版。
船乗りを惑わす人魚。
船を襲う巨大蛸。
そして、無害な獣のふりをして人を喰い殺す、海辺の妖馬。
それらを初めて見た時、彼の胸に湧き上がったのは懐かしさだった。まるで生まれる前から知っていたかのような郷愁に幼い彼は陶酔し、以来海辺に出かけては目に留まったものを拾って帰るようになった。
いつか、あの図版に描かれたモノに出逢いたい。
その存在を証明したい。
一度抱いたその願望は成長しても消えるどころか、知識が増えるほどに強くなっていった。
単眼の鮫や、鋏が三つある蟹や、不思議で不気味な姿をしたありとあらゆる海の生物。標本を作る知識を得てからは、打ち上げられたそれらを拾い、標本にしては棚に詰め込んだ。
そうして増え続けた異様な蒐集物は彼の居住スペースと生活費を圧迫するに至っているが、趣味というより自身の一部となってしまったこの行為をやめるという発想などあるはずもなく、彼の頭を占めるのは専ら、どうやってより多くの標本を部屋に詰め込むか、管理に適切な湿度と室温を保つには何が必要か、というような事柄であった。
――これが、この世界における藻噛叢馬という男。
かつてある世界で否定され、アンジニティに落とされた存在をイバラシティに紛れ込ませるために何者かが用意した、仮の姿。
辻褄合わせの仮初である彼自身は知る由もないが。
イバラシティを手に入れようと目論む侵略者の一体、それが彼の正体である。
***
狭間の世界に、巨大な馬が立っている。
艶のある青い毛並みに覆われた太い首を堂々と反らし、逞しい四肢からも海藻のような鬣からもとめどなく水を滴らせ、大きな蹄は地面をしっかりと踏みしめている。
「――まだだ」
人々の恐れによって澱み、深さを増していった海。今や人は海を恐れない。
かつての魔の海域、囁かれなくなった遭難譚。海への畏怖が産んだ幻想は、忘却によって死を迎える。そのはずだった。
「俺はここにいる」
ここは狭間。
現世と異界、現実と幻想の境界。ここなら、まだ、この姿を保つことができる。
「俺は、まだ、消えていない。死んでいない」
確かめるように呟く。
ここならまだ、声が届く。
この脚はまだ動く。硬い蹄も、整然と並んだ歯も、全盛期のままだ。
それどころか、この戦いに勝てば。取り戻すことができるのだ。懐かしい海を。
歓喜に毛皮を震わせて、蒼い馬が嘶いた。大きく首を仰け反らせて後脚で立ち上がり、頭部を振り下ろすように前脚で地面を踏み砕く。
その一瞬の間に、馬の姿は変化していた。
青い毛並みの首は人の胴部に変わり、不釣り合いに長い腕は土を掴むように地面に爪を立てている。体も腕も顔も、人の形に似た部分の肌は全て、赤く剥けたような悍ましい肉の色。俯いていた顔を上げると、変わらぬ色の鬣の間から人間の顔が現れる。
赤く光る目を持つその顔は。
獰猛に歯列を剥き出し、怒りと獣性を露わにしたその貌は。
藻噛叢馬という男によく似ていた。