後ろから飛んできた声に振り返ると、桃色の髪の少女が子鹿のような足取りで跳ねていた。

レム。同行しているハーバルドクターの娘のことだろう。
誇らしげにふんぞり返る少女の髪は確かに、結い方が変わっていて、片側に薔薇が一輪挿してあった。

上目遣いで訊ねる少女の前に跪き、目線を合わせて答える。

少女は当然とばかりに頷く。
それから何か思い出したように首を傾げた、その表情に微かな翳りが見えた。

これは良くない。この少女には常に笑顔でいてもらわねば困る。

少女の手を取って、できるだけ優しい声色で。

少しの間を置いて、ドロテアはそう口にした。

ひやりとする。
僕達の五感には制限がある。
こと味と匂い、温度には酷く鈍感だ。

だからわからない。僕にもドロテアにも、その「いいにおい」はわからない。
けれどそれを、僕以外に悟られてはならない。
ドロテアも他の団員も、自分達が死んでいることなど知らないのだから。
彼らには生者と変わらない日常を演じてもらわなければならない。

まずは何の匂いなのか、怪しまれないように聞き出す必要がある。
そして、その香りを「感じている」と認識させる。
慌てることはない。日常的にやっていることだ。
まず、頭に挿した薔薇の香り。
他に何かあるだろうか。
レミエルは香水を扱っている。
香水、香油の類を使った可能性もあるが、薔薇の香りを他の香水でわざわざ打ち消すとは考えにくい。

そこまで予想を立ててから、少女の髪に少し鼻を近付けて、匂いを確かめる素振り。

と、少女がぱっと顔を上げた。

概ね正解だったようだ。
そうなれば後は簡単。薔薇の香油なら嗅いだことがある。覚えている。思い出せる。
銘柄が違うかもしれないが、そんな細かな違いを幼い子供が説明できるとは思えない。

さりげなく少女を引き寄せながら、いつか嗅いだ薔薇の香りを思い浮かべる。

はっきりと思い出したところで、少女の目を真っ直ぐ見つめて、語りかける。

騙り聞かせる。
一言一言を少女の脳に染み込ませるように。

元気よく手を挙げて、ドロテアは来た方向に走っていった。
あまり遠くへ行けないよう歩きにくい義足にしたのだけれど、器用にバランスを取りながら走る姿を見るとどうやら無駄だったようだ。

そういえば、ヴィクトールも彼女と一緒にいたはず。
あのレミエルという娘も勘の鋭そうな顔をしているし、彼が妙なことを口走る前に、手を打った方が良いが…。
ドロテアの走っていった方に目をやる。長身の奇術師と、小柄な娘がドロテアを迎えている。

…今、では不自然か。
仕方ない。先に他の団員の認識を揃えるとしよう。

*******

認識と記憶の操作。

怪奇天幕のスポンサーであるところの《彼女》から、観客を対価に与えられた力のひとつ。
相手の目を見て語りかけることで、その認識と記憶を改竄する。
勿論永続的なものではない。
団員達に《第二の人生》を演じてもらうには、常に彼等の認識を書き換え続けなければならない。

味のない食べ物。
香りのない花。
温かみのない肌。

不審を抱かせてはならない。
僕の生きていた頃の記憶が薄れてはならない。
香草と焼けた肉の味も、薔薇の香りも、人肌の温かさも。
二度と感じることの出来ないそれらを、僕は永劫、憶えていなければならない。

僕が忘れてしまえば、彼等の夢は消えてしまうのだから。

微笑んではいるけれど、よく見れば、笑みの焦点は今一つ緩くぼけているように見えた。

ひらひらと、危なっかしくも軽やかに。
まるで糸で吊られた人形の如き少女の駆け足を見送りつつ、手を振った。
青年の様子をちらと横目に伺い見、

落ちつかなげな青年に向けて酷な一言をさらり。

もうすぐ月は高い。
月が昇れば始まるその一座を楽しみにしているのはヒトだけでは無く。
その音楽に導かれるように白い影が天幕の近くに居た。

その大きな音に、唸り声に、未だ客になるには至らない。
けれど、臆病者は外から音を聞くだけでも今は満足――もしかしたら数日前からパレードにこっそりついてくる白い影の事を、誰かは気付いてるかも知れないけれど。

その音に堪え切れずに、今日は少しだけ、いつもよりほんの少しだけ天幕に近付いた。
未だ入る勇気は無いけれど―――

不意に何か、ヒトではない匂いを嗅いだ気がして足を止める。
色々な匂いが混在するこの世界で、また気になる匂いが一つ。

その匂いが気になって、今日もまた客席には至らない。
いつも天幕から離れた所で隠れていた白いのは、ようやく姿を現わしたというのに。
何やらひたすらにぷすぷすと鼻を動かし続けていた。