《庭》に解放されたアトラクは、暫くは特別な目的を見つけられず、周囲を徘徊するのみ（彼の移動可能範囲は制限されている）であった。
　私を警戒しているようで、一言も発せず、時々鋭い殺気を向けてくる。
　しかしそれでは意味が無いため、何度も諦めずに声をかける。
　数日後、彼は私が無害（無力）であると知り、少しばかり言葉を交わす。
　意味の無いやりとりではあったが、彼には理性と知識が備わっていることを確信する。無意味に攻撃を仕掛けてこない時点でそれは確かであったが、攻撃性は低いことが確認できた。

　アトラクは自我をもっているが、その自我が何処に由来しているかは解らないようだ。いわく、混ざりすぎていて解らない、と。
　だが、彼のメインの自我が眠りについた後に確認できる「人格」が存在する。それは身体を動かすこともできぬ弱々しい存在だった。アトラクの背にある手に埋め込まれた眼球が、僅かに動くことで存在を主張する。
　もしかすれば彼の中には多くの記憶と人格が存在しているのかもしれない。

　――だとすれば、彼には私の記憶も……？



《貴方にはわからないかもしれないけれど、人を傷つけると――傷つけた方も痛いのよ》

　白い弱々しい手を庇いながら、私を平手打ちにした少女はそう一喝した。
　考えるまでも無いが、私は微塵も苦痛は感じなかった。痛みという概念がないのだから当然だ。
　逆に、彼女はとても痛かっただろう。冷たく固い死体の肌を、ひっぱたいたのだ。生者にさえ手をあげたことはないだろう少女が。
　あの時彼女が何に怒っていたのか――想像できる答えは多すぎて、絞ることが出来なかった。
　今も未だ曖昧だ。

　然し同時に思うのだ。あの頃、私は確かに世界を憎んで戦った。
　自分を生み出した世界を。絶望しかない世界に怒りを抱いていたはずだ。
　だとすれば憎悪と憤怒は理解できたはず、否、それしか理解できなかったから、彼女は、彼らは、憎しみと怒りでそうするのだと考えていた。それが当然だと。


「――ゼゼは、落ち着いたか？」
　どうだろう、仲間のエンブリオ達の様子は暗い。しょげ込んでいるようにも見えるし、それぞれがギスギスとした緊張感を持っているようでもある。
　イドはひとまず問いかけてはみたものの、元より答えは期待していなかった。
　なにより、件の男はまだ気を失っており、その状態でエンブリオ達が主の状態に細やかな干渉をもてるのか、イドの存ずる事では無かった。
　自分の拳で意識を失った仲間を抱えて安全な所まで――この場合の《安全》の概念は複雑だ――引き返したところで、義理は果たしたつもりでいた。
　彼を無造作に下ろした後は、エンブリオ達に任せ、自らは身体の修繕に取りかかる。
　先の戦闘で腕の半分を失い、ゼゼとの対峙でもうひとつ持って行かれた。
　最後の一瞬には、つまり同じ腕の数になったわけだが。対等になったかといえば元々の戦闘スタイルでいけば不利も不利。この状態で勝てたのは僥倖だった。
　まあ……死ぬ恐れがないという意味では、精神的にはかなりのアドバンテージがあるのだが。

「ねえ、アンタって首持ってかれたらどうなるの？」
　そこそこ言葉を交わした事のあるエンブリオの問いかけに、さて、と首を傾いで、
「死にはしない。私の機能を止めるには、形も残さず燃やし尽くすしかない……はずだ」
　元の世界ならばともかく、この世界にはいわゆる「魔法的な回復能力」がある。
　動けない状態まで分解されれば、それはそれで死んだも同然だろう。だが意識は存在し、世界に干渉できるなら、元に戻れるという確信があった。
　――とはいえ、それは今、勝手に何かしてくれる様子はないようで。
　今、目の前の現実は、足下に転がった四つの腕をどうやって元の位置に戻すかという、確かな大問題が転がっていた。
　敵の気配も無いこの間に多少直しておくべきだろうが。
「……縫う手が足りんな」
　ぼやく。
　感覚器代わりの小さな腕の掌で、赤目がきょろりと動いている。不器用なお前の手が役に立つと思っているのか――かつて赤目を召喚して縫合を手伝わせたが、散々だった――イドが毒を吐く前に、ゼゼのエンブリオが手を貸してくれることとなった。

　しかし、どうしてこうなったのか。前々から彼の様子がおかしかったのには気付いていた。
　気付いてはいたが――。

　イドは独りだ。故郷も無い。
　イドゥン＝アトラクに使われた死体は無数すぎたゆえにか、単一の意識、連続性のある記憶や人格は擁していなかった。
　時代が時代なら量産されたやもしれぬが、結果としてイドしか作られず、同胞と呼べたかも知れぬ失敗作達は皆、彼が壊した。
　そして為したことは世界の破壊だ。
　何も無いと思っていたが、胸の底に澱む居心地の悪いそれの名前は、すぐに解った。
　怒りと憎しみ。
　理不尽な運命を与えた世界への本能的な抵抗。
　ゆえに、ゼゼが王や連なる兵士達へ抱くのはそれではないかと――それ以外には、解らない。
　だが所謂「感情」というのは、そんなに単純なものではないらしい。

《貴方にはわからないかもしれないけれど、人を傷つけると――傷つけた方も痛いのよ》

　つまり、彼女の言葉に寄れば、仲間は傷付いているかもしれないということだ。深く深く、他者には触れさせない領域で。
　さて、識ったところでイドにはそれに対する手立てなど何も思いつかない。
「怒りの先にあるもの、か……何なのだろうな、それは」
　独白は何処にも届かず、冷えた闇に消えた。



《ある研究者の記憶》

　当初、人形は「非人道的ながら良心的な兵器」として開発された。
　最初はたった二カ国の諍いから始まったつまらぬ戦争だった。だが小さな火種は誰もの予想を裏切り大きく広がり、世界すべてを包む業火となった。尽きぬ戦い――国々は高い塀を築き、その頂にはおびただしい砲台を備え、常に火を噴いている。
　かつては豊かな緑に覆われていた大地は焦土と化し、多くの骸がその上を覆う。
　其れを踏みつけながら兵士は戦い、朽ちて、折り重なっていく。
　増えるのは死者ばかり。
　元はどんな利を欲していたのか。支配者達は目的を忘れ、ただ勝利を求めるようになった。
　そこで幾人かの研究者が立ち上がり、《それ》を生み出した。
　人の骸で作り上げた《屍人形》
　それは人格をもつ必要は無い。だが機能は生者のように。銃を構えて突撃すればそれでいい。
　さすれば、もう生者は死なずに済む。
　幸か不幸か素材は沢山ある。
　死体を腐敗させぬ技術、筋肉を再び動かす技術、脳の一部を改造することで命令を受け入れる技術……それらは既に確立されていた――あとは実行するだけ。
　それを阻む倫理的な壁が戦争によって壊されたことは、研究者達にとっては僥倖であった。
　「人類のために」というお題目があったものの、彼らの殆どは研究の結果を再現したいだけだったのだ。

　屍人形の投入によって、戦争は情勢を一変させた。
　大地を覆っていた屍たちはすべて回収され、再び兵士となって戦場へと駆り出される。落ちくぼんだ眼窩は敵のみを見つめ、感情の色は灯らない。足取りは不気味なほど揃い、生きた人間はそれが一目で「死者だ」と解る。
　本能的な嫌悪、狂乱と恐慌――死への恐怖は彼らを前に明確な形となるが、屍人形はそんなものを気にもとめぬ。
　一方的な虐殺――毀れた屍人形は再び屍に戻るだけで、痛みも悲しみも持たぬ。
　このまま戦争が終わればいい。
　さすれば死してまた侮辱された屍兵たちも報われる。
　そんな祈りは叶うことは無く――更なる研究者の探求心、敗北を恐れた支配者、その思惑が重なり、屍人形は次々と作られ、改良され、増殖していく。
　生者をそれ以上死なせぬための技術は、いずれ、生者を殺して作るべきものへと変じた。

　気付けば塀の外側はすべて屍人形になり、塀の内側もまた、人間と屍人形の境界も解らぬ。
　そんな世界を見つめながら、師の仰ったことは正しかったと知る。制御され、完璧に統治された世界は美しい。だがそれでは人の存在する意味とは何なのだろうか――いずれ人は人であったことを忘れ、《死》すらを忘れ、緩やかに滅びていくのだという予言。
　嘗て私が裏切り、塀の外へと追放した賢者の行方はもう知れぬ。
　賢者と共に追放された親友が、程なくして亡くなったという報告だけは聴いた。
　そして後悔を抱いたまま、私も死んだ。
　特別な人形へと生まれ変わるために、殺された。

　この頃にはもう《屍人形》は兵器ではなく、まったく別の発展を遂げていた。
　絵画や彫刻のような芸術品。それを生み出す手腕を競う。それを鑑賞する。
　それは間違いなく人の死から生まれる醜悪なことこの上ない趣向だが、もはやそれを咎める声は尽きた。

　――天使の形は歪だった。
　脊椎から大きな純白の翼が広がり、その数も三つという、出来損ないの人形。
　それは観賞用に作られた人形だから飛ぶことはできない――尤も、機能性を追求した人形は、今だひとつも完成していないが。
　不自然に作られた構造だから、歩くこともままならない。
　同じ場所に腰を下ろし、箱庭を観察し、記録をつけ、報告をする。それだけの存在。
　白く染められた瞳は不気味だったので自らの手で抉り出した。
　痛みは無い。血も出ない。
　ころりとガラス玉のように作り替えられた美しい眼球が掌に――それが恐ろしくて、もう一つの瞳を抉ることができなかった。
　困った奴だねと笑った《人形師》はその眼球を持っていったようで、気付いたらそれは私の手から無くなっていた。

　時間の経過は知りたくもないが、記録を残していく上では覚えておかねばならない。
　あれから十五年。未だたったの十五年。
　ずっとこの場所に座って箱庭を見下ろしていた私の前に、久しぶりに人形師が現れたと思えば、ひとつの人形を見せた。
　何となく記憶に残る顔、だが誰だかは解らない。それは目が四つあった。正しくは六つだったし、八つであった。
　腕が更に二対増やされており――正直、これが何のために作られたものなのかわからない。
　今は対の腕同士を拘束され、その拘束具は首に短めの鎖で繋がれ、自由がきかない状態のようだ。
　それは俯きながら憎々しく私を睨んでいる。人形師も睨んでいる。
「ようやく満足のいくものができたとおもったら、ねえ、きいてよ――戦争は終わってしまったのですって」
　虚無に支配された言葉が人形師から紡がれる。悲観するにしては随分と軽い声音だ。
　戦争が終わった。そうかやっとか。でもそうだろう、みんな人形になってしまった。
「だから、これは要らない。ちゃんと見張っててね」
　完全な天使の形をした人形師は去って行く。不格好な人形を置き去りにして。必要な人形を作るために硝子の根城へと戻っていく。

　珍しく地を歩き、人形に歩み寄る――拘束を解いてやるにはそうするしかない。
　背骨が軋む。羽の重みにひりひりと焼け付くような痛みがある。死んで痛覚はなくなったはずなので、これは幻痛というものなのかもしれない。
　人形の背後にある掌に、いつかみた白い瞳と、それより遙か昔に見たあの――……。
　私の意志は蘇り、緩やかに死にかけていた時が鮮やかに回り出す。

　《主よ、貴方は私を絶望させるために地の底よりこれを遣わしたもうたが、これは世界にとっては福音である》

似たような――というかもっと変わり種の死体が呟いた気がする。