20.


　ほんの少しだけ、時間を遡る。
　演奏会がはじまり、誰もがピアの演奏に見とれているなか。
　客席のないカウンターの隅に、もぞりと何かが動く気配があった。それは人よりもはるかに小さく、せいぜい人形程度の気配。

　ポポロのエンブリオ、アルラウネ――アルルーンである。最近になって、ようやく自分からそう名乗ったようだ。
　なぜ隠れるようにそこにいるのか。何のためにそこにいるのか。
　いつもと言えばいつもであるが、不機嫌そうな顔はいつも以上に険しく、照明のあたらない表情は不自然なほど陰りがある。
　アルルーンは、演奏を見てもいないし、聞いてもいなかった。
　あたたかなチェロの演奏のただなかで、まるで悲劇でも観ているかのように――
　己が主、ポポロ・ダンドリオンを見つめているのだ。


　　　＊


　かつてのわたしは、生きるということは死ぬことだと思っていた。
　何事にも終わりは必要だ。原因なくして結果はなく、作品は完了してこそ作品たりえ、ゴールがあるからこそ走り、勝敗をつけるために戦い、今日を越えて明日がある。
　故に、死ぬことのないわたしは、そもそも生きてすらいない。
　永遠は孤独で、過ぎゆく時の流れは残酷だった。美しい、大切だと信じた景色はわたしを残してどんどん遠ざかっていく。そんなことを何度も何度も何度も何度も繰り返すうちに、わたしはこう思うようになった。
　どうせわたしは置いて行かれるのだから、もうなにも見たくない。
　もうなにも聞きたくない。
　なにも感じたくない。
　考えたくない。
　わたしは意味がなく、価値もない存在だから――。

　だけどそれは違った。

　始まりはいつも目の前にあって、幕を引けるのはいつだって自分だけだった。
　わたしは生きていなかったのではない。失うのが怖くなって、選ばなくなっただけ。
　選択をしないことは楽で、悩む必要がなくて、つらくなかったけれど。
　ただただ、つまらなかった。



　チェロを弾きながら、ピアンタ・ディペントーラは閉じていた目を開いた。
　果たして、そこにはタンポポ荘の住人たちがいる。
　世界は美しいと、意味は探すものだと教えてくれた人たちが、そこにいる。
　どいつもこいつも顔を見るだけで名前が浮かんでくる。アムネジアの従者であるヴォーグは見るも恐ろしい異形のくせにコーヒーが飲めないとしょげていて思わず吹き出しそうになり、優しいと連呼するハディートの言葉は姿勢を正しておかないと背中がかゆくなりそうで、歌うさねいまには言葉ではなく喜びに満ちあふれる一節で応えてみせる。
　旋律を奏でながら、一人一人と目を合わせていく。
　伝わるだろうか。
　相も変わらず不器用で、言葉足らずで、面と向かって言うことはできないけれど。
　――こうしてお前たちと一緒にいられることが、楽しい。
　何者をもよせつけなかったはずの自分の周りには、気づけばこんなにも価値あるものだらけになっている。どんなに目を凝らして見てもどんなに側にいても、相手のすべてがわかるわけではない。時に傷つけることもあれば対立することだってある。相手のことをどれだけ信じようとも、間違えることを止めることはできない。
　だけどそれ以上に、誰かと一緒にいたいという気持ちを止めることができない。
　それを教えてくれたのは、
　すべての始まりは。
『ですから！　ポポロたちも一揆に参加して、みなさんにポポロに――ポポロの家に住んでもらうんです！』
　ずっと一緒に歩いてきた、花のような笑顔を浮かべる少女。
『名付けて、タンポポ荘計画です！』
　それまで巡らせていたピアの視線が、ある一点に注がれる。
　そこには照明の落ちた店内にあってなお輝かしい金の髪。
　その髪が、まるで滑り落ちるように崩れていくのを、ピアは確かに見た。
　何かがおかしい、と思う暇もなかった。
　チェロの音色が、止まった。



　鈍い音をたてて、ポポロが倒れた。

　自分でも驚くほどの大声が出たが、知ったことではない。
　ピアはチェロを放り投げ、割れるような音がリチェッタに響いたが、それすらどうでもいい。
　頭の中が真っ白になる。椅子の脚に何度も引っかかりながら、ピアはポポロに駆け寄る。住人たちは何事かとピアの動きを追う。

　ピアは倒れたポポロの上半身を抱きかかえ、手を握り、叫ぶように呼びかける。
　すると、ポポロはまるで寝起きのように薄く目を開けて、ピアを見上げてみせる。

　どうみても、意識がはっきりとしていない。自分が倒れたという自覚すらないように見える。
　そして気づく。ポポロの腕が痙攣でもしているかのように震えていることに。
　――手を握り返す力すら、出ないのだ。
　どうしてポポロがこんな状態になっているのか、ピアはまったくわからない。今までこんなことは一度もなかったはずだ。死とか病とか苦痛なんて、概念すら持っていない奴だと思っていた。
　夢うつつのまま、ポポロは柔らかな笑みを浮かべる。
　その笑顔が美しいなどと、こんなときに思ってしまう自分の正気を疑う。

　言葉を失った。
　そして、無意識の中にあった点と点が繋がった。
　心の底が凍りついていく。
　いつでも側にいて、どこへ行くにも一緒だったポポロ。
　そんなポポロのことを、ピアがわからないはずがないのだ。
　答えは何度も目の前を横切っていた。
　例えば、口癖のように住人たちに「自分はたいした神様ではない」と言っていたこととか。
　例えば、朝目覚める時間がどんどん遅くなっていたこととか。
　例えば、自身の力を使わずにエンブリオの力に頼り切っていたことだとか。
　神であるポポロは人智が及ばぬ存在であり、強いとか弱いとか考えるのも馬鹿らしくなるぐらいの『力』を持っている。
　しかしその力は、無限だろうか。
　仮に限界があるとして、ポポロが持つ天文学的な規模のエネルギーは、どのようにして消耗していったのか。共に様々な世界を渡り歩いてきたポポロ。時には火山を起こし、時には海を裂き、時には空を変えてみせたデタラメな力を上回るほどの『何か』。
　真相はもうわかっている。
　それでも目前の真実が信じられない。いや、信じたくないのだ。あまりの衝撃に目が眩んで、ピアは左目を手で覆う。
　他に。他に答えはないのか。
　なにもなかった。
　背後からざわめきが聞こえてくる。それはタンポポ荘の、住人たちの声。
　タンポポ荘。それはピアのかけがえのない『居場所』であり――ポポロ・ダンドリオン『そのもの』。
　みんなに住んでもらうという、始まりの言葉を思い出す。

　何十人もの人々が暮らすためのエネルギーとは、一体どれほどだろうか。

　それだけではない。食堂をはじめとする生活施設を作り、階段を増やしエレベーターを建てることで利便性を求め、プールや図書室といった娯楽を用意する。いや、そもそもが家なのだ。普通の建物は廊下をただ歩くだけで、少しずつ老朽化が進む。タンポポ荘で起こることすべてが、ポポロの身を削っていたのかもしれない。
　それなのに。それなのになぜ、ポポロは事あるごとに周囲を盛り上げ、次々と祭りのようなことを起こしていたのか。いつかもそう思ったことがある。メルンテーゼにきてからのポポロはいつも以上に騒がしいと。今思えばそれは、ある種の狂気すら感じられるほどの騒ぎぶりではなかったか。
　それは、なんのために。
　それは、だれのために。
　――ポポロは、ピアさんの居場所になれましたよね。
　あまりの無力感に、目の前が真っ黒になった。
　それはあくまで心情を喩えたつもりだったが、次の瞬間、本当に真っ暗になった。
　意識を失う直前。ピアは何かが割れるような音を、聞いた気がする。
　そして、ピアは倒れた。

　握りしめていたはずのポポロの手が、遠く離れていく。


　　　＊


　カフェバー『リチェッタ』は、騒然としていた。
　楽しいはずの演奏会は唐突に終わりを告げた。管理人であるポポロとピアが倒れてしまい、その後すぐに――まるでこうなることをわかっていたかのような迅速さで――エンブリオたちが駆けつけ、二人を運んでいった。
　わけのわからないまま住人たちは取り残され、今はさまざまな憶測が飛び交っている。その中には動揺を隠しきれない者もいるし、どうにかしようと躍起になる者、少なくとも表面上は平時と変わらぬ者もいる。
　そんな中、一人の住人があるものに気づいた。

　ポポロとピアとは攻城戦でも共にすることが多い、万已楽である。
　万已楽は床に落ちていた眼帯を拾い上げ、まじまじと観察する。やはりピアがつけていた眼帯そのものだった。

　うん、とひとつ頷く万已楽。
　しかしその直後、ある疑問が頭をよぎる。
　それはあまりに不思議なことだったので、万已楽は思わず首を深く傾げてしまう。
　なぜなら、

こちらも同じように手を振り、ポポロが見えなくなるまで見送った

ポポロを見送った後

そんなやり取りの後、お互い自分に割り振られた部屋へ入って行った

ポポロの言葉に、うーん、小さく唸ってから、

そう言って、返す気が有るのか無いのか、にやりと笑った。

――とルイーズは家族のことを話し始めた
失敗談やら愚痴も多く含まれていたが、ずいぶんと楽しそうだった

（メッセのほうは了解いたしました　
強引でもいいので、物語展開で負担にならないように処理しちゃってくださいなー）