川辺ではしゃぐ少女に、カリンカランは微笑んでみせる。
丘での暮らしが長いアジュガにとって、野生の魚というのは物珍しいもののようで、年甲斐もなくはしゃいでいる。
その微笑ましい様子には笑みが零れるが、まったくすべて穏やかな気持ちに浸れるというわけでもなかった。
少女が背を向けると、妖精は表情を曇らせる。

あれから数日、アジュガの容態はとりあえず安定している。
カリンカランとキョンシー―サンインの二人がかりで回復魔法を施したところ、なんとか体温も戻った。
気分の悪さも収まったようで、あれ以来、とりあえず吐血も見られない。


ただし、眠りが少し、長くなったような気がする。


カリンカランは安心できなかった。
ポーリーンのときだって、最期の最期の一瞬以外は、容態は寧ろ安定していたのだ。
体調に少しの変化でも見られるときは、安心してはいけないのだと、過去の経験がそうさせる。
二人目の契約者を失うのは嫌だったし、契約云々を除いても、アジュガはカリンカランにとって、娘のようなものだった。
カリンカランは脳髄を悩ませる。
どうすれば、あの無垢の塊のような娘を、命の危機に晒すことなく、無事生かすことができるのか。

彼女にとって、問題だったのは、アジュガの『心臓』についてのことだった。

アジュガに言われ、特殊な契約ということで納得していたが、それでも辻褄の合わないことの方が多い。
ベルエトワール。まだ見ぬバイカウツギの妖精。
『彼』は本当に、アジュガに生命力を提供しているのか？
そもそもアジュガは―。

目の前で微笑む少女は、何者なんだろう。
どういう契約をもって、その命を繋いでいるのだろう。
人でありながら高位妖精語を理解するその少女は、そもそも人ではなかったのかもしれない。

カリンカランの考えは二つ。

まずは、アジュガが妖精の一種であるという説。
しかし、高位妖精語と低級な自分たちの使う言語を両方使える妖精というものは、限られている。
妖精としての気配を漂わせないアジュガが妖精であるということは、極めて考えづらい。
それでも、妖精の言葉を扱えるということと、何より彼女たちの契約関係を考えると、可能性としてはありえないとは言い切れない。

アジュガは今、ベルエトワールを解して妖精達の生命力である、自然のエネルギーを受け取っている状態にある。
つまり、『アジュガの方がベルエトワールからの生命力を得ている』ということ。
普通の契約で考えれば、これはまったくの逆転現象で、まずありえないことではあるが…。
もしも、アジュガが妖精ならば。
『アジュガがエンブリオで、ベルエトワールが契約者』ならば、自然な関係となる。

もう一つは、アジュガが人間であるという説。
それは変わらずに、『ベルエトワールがアジュガから生命力を得る』、普通の契約状態にあるという状況。
つまり、アジュガが死にそうだったというのは全くの出鱈目。
今、アジュガは自分の生命力だけで自立できているという状況であるというパターンだ。

これもまた、一般的なエンブリオと人間の関係のパターンに収まることとなり、アジュガは妖精の力を血を介した簡単なものではなく、契約者として正式に借りることができるようになる。
ベルエトワールが上位妖精だったかどうかは分からない。
むしろ、人間と会話のできる上位妖精だったという可能性は極めて低いだろう。
しかし、もしそうだったならば、アジュガはベルエトワールの持つ言語能力を自由に扱う権限を得ているはずだ。
また、アジュガは丘が壊滅してから生命力が回復した様子は無く、寧ろ調子が落ち続けている。
もしもベルエトワールから生命力を得ているならば、丘の自然が徐々に戻り始めている今、調子が戻ることはあっても、落ちることはまずあり得ないことだ。

このどちらかが、今の情報から考えられる最適解の二つ。
そして、このどちらだとしても―。

この数日、カリンカランは悩みに悩んだ。
命の危機とはいえ、彼女の信じている彼の存在を、否定してしまっていいものかと。
しかし、考えれば考えるほどに、この二説以外の可能性が無くなっていくように感じられた。
それでももう、ほとんど心は決まっているようなものだった。

カリンカランは、翼を広げた。


* * * *

カリンカランは話した。
今まで考えていたことを、できる限り、やさしく、やさしくと。
それでもアジュガの表情が曇っていくのは、簡単に見て取ることができた。
アジュガは温厚ではあるが、ベルエトワールのことに関してだけは、頑固なところがある少女だった。
命を救われたから、使命を授けられたから。
彼女の中の彼は、他の妖精たちよりも数段、特別な存在として認められている。
だからこそ、カリンカランも極力丁寧に話したつもりではあったが、その言葉は隣の木を叩きつける、拳の音で遮られた。

それだけ叫ぶと、酸素を求めるように、アジュガは一度押し黙る。
肩で息をしながらカリンカランを睨み付ける淡い瞳には、確実な敵意が篭っていた。
―ああ、やっぱりこうなった。
どこか冷静に考える気持ちと、ここまで荒れ狂うアジュガを見るのは初めてだという後悔が、カリンカランに押し寄せる。
アジュガは暫くカリンカランをにらみつけた後、少し悩んだようなそぶりを見せ、彼女にふいと背を向けた。
そして、今までの荒れようが消えたような冷たい声で、一言言い放った。

そういうと、アジュガは駆け出して、戻らない。
カリンカランを一人残したまま、どこか、どこか遠くの方へと消えていった。

ネクターの花が一輪、儚く散った。