――ここだった。きたよ。
ツグミの呟きが尾を引きずり、脳裏にこびり付いて消えない。言葉自体ではない、それが向けられているものに私は苛立っていた。ツグミの目当てであろう、エンブリオを欠片残さず消し飛ばすことを望んでいた。癒えることのないように、文字通り塵ひとつ残らないように消し去りたかった。
ああ、ツグミの凍えた心に巣食っているであろう、あの男の影さえも一緒に消すことが出来たなら。
そうすれば、こうして神経を逆撫でされることもなく静かに二人で過ごせるのかもしれない。エンブリオ、それにそこに潜んでいるある男の影。私には見えない、手の届かないもの。それが暗躍している事実が私には耐えられない。

結果として、私がいくら敵を粉々にしたところでそれは徒労だった。
佐久呂や真那霞が探索をしているのをいいことに、少しでも目についた肉片は消し飛ばした。丁度何もかもを消しつくしたあと、水辺に映っていた私の瞳は塗りつぶしたかのように炯々とした水色だった。表情は――わからない。酷い顔をしているのかもしれない。
その水面を削ぐように、一際強い風が吹いた。
水面を、ともすればそこに映った私の顔を削ぎ落す風は、水面に渦を作り出す。私の心すらも巻き込むような風。私とツグミは同じくしてその方向を見ていた。間違いなくそこに何かは居た。視認することこそ出来なかったが、その空間に満ちている気配は確かに覚えのあるものだった。森林で光る鸚哥と遭遇した時に周囲を支配していた、浮遊感と高揚感。それを感じることで一際強くなる嫌悪感も同じく。
目を開けて居られない程に風は吹き続け、悲鳴のような風鳴りが耳に届く。それでも薄目を開けると、ツグミは瞳を閉じるどころか瞬きすらしていない様子だった。一心不乱に水面に作られた風の渦を見つめている。
「ツグミ……！」
風の音に私の声はかき消される。それなのに、ツグミの呟きだけはやけにはっきりと聞こえた。
「……………リン……」
やめろ。
私の前で、その名を呼ばないでくれ。
私の元から飛び立つのはやめてくれ。

「リンっ……！」

その声は震えていて、高揚していて――泣きじゃくる子供のような、涙の混じった呼びかけだった。
呼びかけに答えるように風が体を駆け抜けていく。文字通り、体の中まで滅茶苦茶にかき乱し原形を留めないほどに粉々にされる――……胴体を風に貫かれたような錯覚に陥った。恐らくはそれが、今まで私が感情に任せて消し飛ばしていた肉片の感覚と同じなのだろう。
自分が消されていくような感覚。

会ったことのない軽薄な男の声が聞こえたような気がした。



＊＊＊＊＊＊＊＊＊


どうやって帰路についたのかは分からなかった。恐らくは自分の足で、しっかりとツグミを連れて帰っている。皆と顔を合わせるのもそこそこに、私たちは部屋に閉じこもっていた。ツグミの顔は泣きはらした跡がはっきりしていた。目元が腫れているにも関わらず表情は凪いだままで、少しばかり注力して見るといささか高揚しているようであった。
私の感情はそれに反するように深海の底に沈んでいた。怒りによる感情の高ぶりはなかった。ひどく気落ちしていたけれど、何もかもがどうでも良い――という気分でもなかった。ただ、自ら何か言葉を発する気力はなかった。
あの風に貫かれると同時に、苛立ちが切り取られたように消え失せている。消えたものを埋める感情はまだ見つからない。
心に大穴があいた状態で、ネクタイを緩めることすら放棄してベッドに倒れ込んでいた。
二人が寝ることの出来るベッドは、私が放心していてもいくらかスペースを残していた。そこにツグミは膝を抱えて座っている。
「…………………リンは」
この部屋には私とツグミの二人だけだった。そこにも色濃く第三者の、あの男の気配が忍ばせてあるようだった。
聞きたくない人間の名を、今日は何度も聞く破目になっている。今更言うなとも言えず、一体どんな関係なのかを問うこともできず、ただ聞き流すだけだった。思考は軋みながら動いているものの、正常な判断は難しくなっているのかもしれない。
膝をさらに抱き寄せるような形で、ツグミの声はいくらかくぐもっていた。
今の頭では、ツグミが自発的に話していることに何の感慨もなかった。本来ならば、私もツグミも、双方あり得ないことだ。

「………………心が読めた。…………のうりょくしゃ、だった」

ツグミにとって能力者という単語は言い慣れないものだったのか、私が言う言葉を反芻したような響きを持っていた。
心が読める――読心術。その洗練された響きに、私はマダム・ルージュを思い出していた。

「………………何も言えなくても、伝わった」

そう言うと、ツグミは顔を埋めてしばらく動かなかった。
心が読めるという能力は、ツグミの傍に居るものとしては誂えたかのように相応しい。私は軽い衝撃を感じていた――今度ばかりは、その感情は醜い嫉妬以外の何物でもなかった。
ツグミの思考を推しはかることが出来ずに、歯痒い思いをしたことは何度もあった。私もツグミの感情が手に取るように分かっていたら。
普通の状態の思考ならば、恐らくは激情に駆られているであろう。今は、その気力が悉く削がれていた。私はそこで、ツグミが能力を得てからずっと自主性を喪失していることを思い返していた。ツグミに思考する力があることに気付いたのはいつだったか、会ったばかりからずっと、会話を試みて様々なことを一方的に話していたことを思い出す。それは確かに正しい行動だった。心の底、私が今こうして沈み切っている深海の底で、ツグミは私と変わらずに物事を考え、思い、過ごしていた。その思考を出す手段が無いことも知っていた。いや、今までは無かった――今は、どうなっているのだろう。
少なくとも、あの風の元凶であるエンブリオを知覚してからは、ツグミは今までとは比べものにならない程饒舌だった。
例の男と居るときは、これが普通だったのだろうか。一瞬でもそう思うと、私は酷く後悔した。

「…………リンは…………病気で死んで…………」
知りたくもない男の話は、概略程度は私も知っていた。マダム・ルージュ曰く、死に際にツグミを託すべく手紙を出したという。
「…………………何も出来なくて、ずっと……見ていた」
ずっと。瀕死の人間を今わの際から、冷たい死の気配に侵されるまで。人間の五感は、意識して封じなければ情報を余さず受け入れるように出来ていた。目を閉じなければ、耳を塞がなければ――意識的、つまり自主的に行わなければ。
それが適わないツグミは、厚い氷に阻まれた意識の辛うじて動くことのできる部分でいくら拒んでいたとしても、全てを受け入れるしかなかったのだろうと私は思った。死から、崩壊から目を背け続けた私と違って。
常人ならば耐えられない話だ。
あの時、ツグミが泣き出しそうな声で――名前を呼んだのは、このせいなのだと私は思った。
死んだことを少し酌んでやるとして、死に際に何も出来なかった者にまた会えたこと（本当にあれがその男の要素を持ち合わせていたか、ツグミにはどう見えているのかは分からなかったけれど）を考えるのならば、何か溢れるようなものを感じるだろう――恐らくは私も。
死んでからも迷惑をかける。例の男の存在と私の思考は完全に反り合わなかった。譲歩や妥協といったものはそこに存在しなかった。憎々しいことに、恐らくは向こうも私を見てそう思う筈だと確信じみた考えが浮かぶ程に。

しばらくの沈黙があって、次に口を開くのもツグミだった。後にも先にも、これは初めてだ。
「…………エンブリオは」
また、私の聞きたくない類の話だった。
仕方がなかった――ツグミと私とは、一緒に過ごしているにも関わらず、経験があまりにも異なっている。
ツグミは選ばずして、私は意図的に拒否をして、体や心に全く異なった経験を蓄積している。
エンブリオ、私ひとりでは知覚できない存在を、ツグミがどう捉えているのかを私は知らなかった。
あの男のことを払拭するように（私には、そうにしか見えなかった）顔を上げる。少しばかり目を細めて、腕こそ伸ばさなかったがそこにある私には見えないものを見るかのような仕草をしてみせて。
膝を抱えていた腕がシーツに落とされる、乾いた音がした。

「……………………記憶だった。…………記憶を、集めてた…………」

記憶――ツグミは、記憶喪失に陥っているわけではなかった筈だ。
「…………母さんとか…………閉じ込められてたこと、とか………………リンと、いた時とか…………」
「昔の事を、忘れていたのか？」
思わず、いくらか緩慢な口調ではあったが私はそう口にしていた。その言葉にツグミは体勢を少し変え、こちらに向き直るような形になる。そうして、緩やかに首を振った。いつもはそれまでで終わりだが、そこから会話が続くことが新鮮だった。
ああ、これは――いつもと立場が逆なのだ。私がツグミの反応に機敏になるように、とまではいかずとも、おおよそ人は話し相手の反応が気になって仕方ないように出来ている。
「…………覚えてた、けど……………集めてた…………」
「追体験、ということか……？」
思考を無理やり引きずりあげるように、私は上体を起こした。
私の言葉に反応は無かった。正確に言えば、ツグミの沈黙は分からないと同義だ。私はそれを知っていたので特に気になりはしなかった。
言葉をひとつひとつ、まるで愛おしむように選び取っている様子だったが、それでも言葉が途切れた時の間が一瞬と思える程にツグミは自分の行いについて話をしていた。
言い訳、贖罪、どれも本質とは異なっているように思えた。この会話を形容するに相応しい言葉を私は思いつくことが出来なかった。ただひとつ、私に聞かせたいのだろうということは、自惚れでも何でもなく理解出来た。

「………………ユーグも」
私の名が呼ばれる。
ツグミが集めていたという記憶の中には、私も含まれているのだろうか。
「…………ユーグと会って…………最初の夜…………」


「何も………………何も、出来なくてもいいって…………」

「…………………………覚えてる」
ああ、私も覚えていた。私の人生を変えるに至った、脳裏に鮮やかに描くことが出来るほどの記憶。挨拶程度の言葉しかツグミの母国語を解さなかった私が、たどたどしいながらも伝えた言葉だった。
――何も。
――しなくていい。
マダム・ルージュの屋敷で出会い、そのままそこから連れ出したことを私はその言葉で思い出していた。
最初の夜、ひどく荒れた私の部屋に連れ帰ったこと。ツグミは一言も話すことなく、どの言語が伝わるのか確認するのにも苦労したこと。
順調とは程遠い滑り出しだったが、私はさして気にしていなかった。
時間は生きている限りあるのだと。あの男はもう尽きてしまっている、生という残された時間を、私は全てツグミに費やしても構わなかった。昔も今も、それだけは変わらなかった。そう、生きてツグミの傍に居ることは私に出来てあの男に出来ない唯一のことだった。例え心が読めても、気持ちを全てくみ取ってやれるとしても、あの男は生きてツグミの手を取ることは適わなかった。
短い言葉は伝わっているのかどうかすら分からず、伝えたことの自己満足だけで早々に終わってしまったように記憶していたがどうやらそうではなかった。
私が全てをしてあげよう。一人では生きられない枷が嵌められているのならば、生きる為に私は全てを与えてあげようと。
その為に私は居るのだから。

「……………………………」
いつの間にか日は傾き始めていた。
日暮れの輝き、終わり際に一層強く燃える命の火のような赤い光が窓から差し込み、私たちを包んでいる。髪が、顔が、瞳が、全てが夕日に染め上げられたように赤く輝いていた。ツグミだけでなく私も――。
その瞳はこちらを真っ直ぐに見つめていた。ツグミの艶やかな眼球、その光沢に私の姿が映っている。夕日に染まって赤く輝く私の姿が。
シーツを掴んでいた手が遠慮がちに、私のシャツの裾を摘んだ。
「………………………ユーグ…………」



「………………………………ありがとう」



消え入りそうな声が、夕日の暖かさと共に私の欠けた心を満たしていった。

（先を歩いていたが、くるりと振り向く）