回想録　青年が名前を貰った日

「そう、この光です。俺はこの光を探していたんだと思います」
　分厚いカーテンが何重にもかけられた、埃まみれの薄暗い書庫で青年は言った。
　太陽の光もなく、ロウソクも灯されていないにも関わらず、青年の青い髪は淡紅色に優しく照らされ、紫がかった発色を見せている。
「何か思い出せたかしら？」
　紺色の修道服を着た初老の女性はそう青年に訪ねながら、発光源となっている古い羊皮紙に乗せられた花びらにそっと手をかざすと、まるで親友にしたためた手紙に封をするような柔らかな手つきでそれをくるみ、書庫は完全な暗闇となった。
「いえ……何も思い出せません。見覚えがあるのは確かです。ですが、それだけです」
　初老の女性は相槌を打つ事も無く、花びらのくるまれた羊皮紙を元あった場所に戻すと、膝元の埃を両手で軽く払いながら立ち上がり、書庫の入り口にかけられていたランプに灯りを灯した。
「この花びらは"ネクター"と呼ばれている物です。人が力を求める時、必ずそこに、この花がある」
「俺は力なんて求めていません。俺が求めるのは、昔の記憶と……居場所だけです」
　青い髪の青年はそう言うと、袋と袋が擦れるようなこそばい音をたてながら立ち上がった。
　そこは書庫……建物の中であり、外は雨が降っていたわけでもない。
　しかし、青年が着ていたのはまぎれも無く雨から衣服を守る為の、いわゆるレインコートだった。
「おばさんには感謝しています。行き倒れの、"自分の名前が何だったか"も覚えていないなんて人間をここまで面倒見てくれる人は、このご時世ほとんどいません」
　青年はレインコートについた埃を二度だけ強く叩いて払うと、初老の女性の顔を見て、続けた。
「ですが……ここが俺の居場所であるとも思えないんです。とても失礼な話だとは思います……けれど、どこかにはきっと……」
「耳」
　初老の女性の強く短い発声が書庫に響き渡る。
「えっ？」
「また耳が、出てるわよ」
　初老の女性はそう言うと、自分の耳の当たりを人止し指でトントンと叩いてみせ、そこでようやく青年は自分の耳の変化に気がついた。
　慌てて青年は耳を抑えようと右手を上げたが、途中で何かを悟った様に手を降ろし、初老の女性の方を見た。
「いえ……いいんですこれで。別に俺にとっては隠したいものではありません。隠さないと不味いと、周りが一方的に考えている、そういう場所は居場所と呼べるでしょうか」
　初老の女性は青年の顔を静かに見つめたまま、ランプをそっと前へ突き出した。
　青年の顔がランプの炎で暖かく照らされる。長く伸び先のよれた髪が。髪の色と同じ様に青く染まった瞳が。そして……人のそれとは違う、茶色の毛が生え揃い、外に向かって鋭く伸びる、鹿と同じような耳が、くっきりと照らし出された。
「あなたには姿を自由に変化させる力がある……その耳も、隠そうと思えば隠せる。この世界には、人とは少し違う姿を理由に虐げられているような者がたくさんいる。あなたは選ぶ事ができるのよ……もう少し考えて見るのも……」
「いえ」
　青年は初老の女性の言葉を鋭く切ると、暗い廊下に出て初老の女性の手からランプを取り、優しくかざしながら言った。
「あの花、見せて頂きありがとうございました。本当はあれを見れば落ち着くと思っていたんです。失った記憶を求める気持ちや、旅立ちを思って沸き立つ気持ち。それらが無くなるんじゃないかって。ですが違いました。それよりむしろ……」
「手に入れたく、なりましたか？」
　あの花を――力を――
　青年は目を瞑りむこうを向くと、短い沈黙を抱えた。
「……俺が欲しいのは、昔の記憶と居場所です。力が欲しい訳じゃない、けど……わかってます。おばさんの言いたい事も」
　青年は石畳の感触を確かめるかのような歩き方で３歩ほど初老の女性から離れると、精一杯の笑顔で振り向いた。
「俺はここに居てもいいんだって思える場所が欲しいんです。正直なことを言うと、自分でも今から王都に向かうなんて馬鹿げていると思うし、何よりおばさんの元から離れたくない。どうしようもなく寂しい。できるなら常に誰かの側に居たい、それが本音です。けれど、それすらも……実は難しい事なんでしょう？　居場所を守るという事には、少なからず力がいる……そうなんでしょう？」
　神妙な面持ちで青年の話を聞いていた初老の女性は、青年の悲しみをいっぱいに含んだ笑顔に、どこかしら諦めたようなため息をつくと、うつむいたままで口を開いた。
「私は……力を求めず生きるやり方が見つけたくて、聖職者の道を選びました。だから、あなたが一揆に参加する意思が有ると知った時、少し悲しかったのも確かです」
　初老の女性がゆっくりと廊下を歩き出し、青年もそれに歩幅を合わせる。
「"柔を持って剛を制す" 昔、武器も持たずに盗賊の頭と交渉すると言って聞かなかった旅人の男が私に言った言葉です。その男は私の制止も聞かず、強引に歩を進め、やがて悠然とした態度で、盗賊に捕われていた町の娘を連れて生還しました」
　初老の女性は話をしながらふと立ち止まると、ずらりと並ぶ廊下の窓のにかけられたカーテンを横に引き、太陽の光を入れた。
　青年はあまりの眩しさに、手で顔を覆う。
「それはそれは、帰ってきた旅人の男は悠然とした態度でした。右腕と右耳がそっくり無くなり、全身に包帯を巻いた姿であったのにも関わらず、です。彼は盗賊の長がプライドを大事にする人間だと聞き、身体の一部との交換を思いついたそうです。そんなもの、私は生還などとは呼びたくありません」
「ですが、彼は笑っていました。戦わずに勝った、言う通りだっただろう。そう言って、心の底から嬉しそうに笑っていました。取り返しのつかないような重傷でも、彼にとってはあれが生還で、勝利だったのです」
「私は……当時の気持ちをそのままに表現すると、その男の生き方に強く憧れました。それまでずっと、女の私には力が無い、足りないと言って悲観するような生き方をしてきたからです」
　徐々に太陽の光に慣れ青年の目にも、この建物全体にのしかかる長い年月から来る威厳を構えた、窓枠１つ１つにあてがわれた美しく細やかな装飾が見えて来た。
「その旅人の男とは別れ、それからしばらくして私は聖職者となり、些細なきっかけから文書に携わる機会が増え、やがてこの図書館を任される様になるまで、多くの困難や問題があったと、今考えれば思います。力が欲しい、力さえあれば。そう願った事も少なくありません」
　青年の目が慣れるのを待って初老の女性は１つしか開けていなかったカーテンを、まるで長い長い廊下に光を餌として与えるかの様に、早歩きで開け始めた。
「幾度となく戦って来た私があなたに伝えたい事は、力を求めるなということではありません。力は、すでに手元にあるのです。精神論ではなく、誰の手にも大小はあれど必ずあるものなのです」
　長過ぎる廊下の半分以上のカーテンを開放してしまうと、青年にはまるで眼前に広がるパノラマが空の上にいるかのように思えた。
　町の中心でもある図書館は重要な書物を集め続けた結果、上に上にと増築を重ね、窓から見下ろすと遥か下には人々の暮らす町が、そして遠く彼方にはうっすらと水平線、それと境界のつけ難い雲海が広がっていた。
　初老の女性は青年から見て逆光となり表情が見えず、強い存在感を示すシルエットとなり、なおも深みのある声を廊下に響かせて話を続ける。
「柔も剛も、力です。旅人の男には盗賊の長がどういう人物か見極める観察眼があった。言葉巧みな話術があった。ただ、それだけのこと。確かにこの町も、もうすぐ軍営より敵が剛を持って押し寄せ、廃墟となるでしょう。しかし、私には私の戦い方が、"私なりの勝利"があります。あなたも求めなさい”あなただけの勝利”を。その過程でネクターを手にする事もあるでしょう。恥じる事はありません。あなたの勝利はあなただけが知っているのです」
　カーテンを開け終えた初老の女性は、呆然と立ち尽くしていた青年の元に戻って来た。
　そして、少し背伸びをしながら青年の頭を撫で、言った。
「そんなに泣くんじゃありません……あなたの過去と未来が良い物である事を……私は心より祈っていますよ」
「はい……俺……泣きません」
　青年は振り絞る様に、言った。その際、鹿の耳が小刻みに震えたのを見て、初老の女性はつい笑ってしまった。
「もう行くのですか？」
「ええ……これ以上長く居るとどこにも行けない気がして……ってそれも悪くないですかね……ハハ……」
「いいえ、あなたは行くべきです……止めたい気持ちは変わっていませんが、それ以上にあなたには求める物を掴んで欲しい……そう思います」
　青年はその言葉を聞くと、また強く鼻をすすり俯いた。
　また鹿の耳がぴくぴくと可愛らしく動く。
「あなた、耳を出してる方が分かりやすくて好きよ。……そういえば、今まで聞きそびれていたけれど何故レインコートを着ているの？」
「……雨が降った時って、外に出たくなるじゃないですか。その時にすぐ出られるように……ですかね」
　真っ赤な顔で照れくさそうに青年は言う。
「私は雨は苦手でしたが……なるほど」
「ここは雨降りませんけどね。自分は水浴びが好きみたいです。だからその、冒険は……少し楽しみだったりも……します」
　そう言いながら水平線を見つめた青年は、もう、笑っていた。泣いた後の腫れぼったい顔ではあったが、旅立ちを前にして少なからず喜びがある。それを初老の女性は感じ取り、嬉しく思った。使命感だけで自分を保てるほど人は強くない。
「青葉しぐれ……ね」
「へ？ なんですか」
「旅人の男が言っていた話でね。森の青葉に貯まっていた水滴がぱらりと頭に落ちて、時雨かなと季節を感じて一瞬嬉しく思うのだけど、勘違いなわけ。勘違いして損したと一瞬思うのだけど、よく考えるとそれもまた季節を感じる嬉しさであったりする。そもそも、空から落ちた雨と、青葉から落ちた雨、どちらも雨よね。何が自分に取って良い事かは考え方次第で変わるという話よ」
　そして、初老の女性は不思議そうな顔をしている青年の目をじっと見つめて、言った。
「"青時雨アマド" 私が考えた、あなたの名前」
　青年は何を言われたか理解できずぼうっとしていたが、すぐに驚きの声をあげた。
「俺の名前ですか！？」
「名前がないとこれから先、不便でしょう？」
「確かにそうですけど……"青時雨"はなんとなくわかりましたが、どうしてアマドなんですか？」
「その窓の雨戸の装飾が、余りにも素敵だったからです」
「そんな理由ですか！？」
「名前は親しみやすければそれでいいんですよ。それとも、この名前は嫌ですか？」
　青年は……青時雨アマドは、一瞬困った表情をしてみせたものの、すぐに微笑んで、大きな声で言った。
「いえ嬉しいです。すごく……いい名前だと思います。ありがとうございます！」
「良かった」
　二人は廊下中に響く声で長い間笑いあった。そして、最後の握手を堅く結び、口づけを交わすと、その日のうちに、別れた。

　この図書館の下に広がる町々に秩序はなかった。
　重ねられた図書館の増築は階下の町にまでおよび、要塞状になった外壁の隙間をぬって、百を越えるスラム街が形成されている。図書館は魔法の力によって害獣はもちろん、人間も入る事は出来ない。しかし、出る事は出来る。
　アマドは目がくらむような高さの城壁に足を掛け、王都の方角を見据えた。
　ここを出るだけでも命がけだ。生きて居られる保障は一切無い。だけど、アマドはおばさんの言葉を信じ、自分の力を信じる事にした。
　腕に神経を集中させる。全身の野生の血が滾る。
　鹿であった耳は素早く形を縮め、肌色の皮膚には白と黒の混じった羽が敷き詰められて行き、甲高い鳴き声とともに、一匹の黒いワシが大きく羽を広げ空に舞った。
　動物の姿と、人間の姿。自由に行き来する事ができる自由の身。だからこそ、自分が何者かをより強く知ろうと焦がれていく。

　――雨を降らせたいとあなたが願うなら、きっとそれは叶うでしょう。けれど、求めるがあまり雨がやがて嵐と化したとき、あなたはそれを否定する事ができるでしょうか。
　蒼時雨 雨戸
　剛と柔を制す精神を、その名に込めて……

羽の生えた相手を見つつ

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