祝福の夜だと、聞きました。

　＊　＊　＊

その、前の夜のこと。

夜の空は冷えて澄み切っています。
何かのきっかけでそれは割れて、星々と共に落ちてきそうなほどに。

靴音行き交う土の道を歩いて、私は一人、ある店を目指します。
あの夏の日には踏み入れることの出来なかったお店がまた開いていることを、知ったのです。
あのときはまだ、その勇気がなくて。

「Chroma Celosia」

いい匂いがしました。隅々まで気の行き届いている空間に、美しい品々が並んでいます。
それらがどうやって産まれたのか、検討もつきません。
磨かれた技とセンス、視野、時間……とにかく多くのものが費やされて、それらが形となっている。
一つ一つをじっくりと眺めはじめたら、恐らくキリがないでしょう。
それほどに、見逃してしまえない多くのものが、この広すぎない空間に存在していました。

私はしばらくしてから選びかねて、店員に声を掛けます。
傍に控えていた、また彼もこの場に相応しい容姿の男性は、それに笑顔で受け答えてくれました。

そう訪ねると、彼はいくつも心当たりのあるものを持ってきて、それぞれを試させてもらいました。
とりわけ勧められたのは、退魔の精霊術の施された、薄く透けるマント。
美しい色と柄を持ち、揺れて布地は不規則に重なり、それを通り抜ける光は優雅。
肌触りは溶けるように滑らかで、軽く、確かに感じる、それに帯びた退魔の力。

賞金首である私は、表に安住はありません。
恨みのために、高額の賞金のために、正義のために、憂さ晴らしのために、いつ狙われるかは分からない。
今だって、普段の長斧までは持ち歩いていませんが、鞄に潜ませられる程度の小さな斧を隠し持っています。
戦いに対しての備えにおいては、とりわけ魔法の抵抗力が疎かに出来ないものでした。
魔法による攻撃は、この肉体の強靱さを無視して、身体を焼いたり、凍てつかせたりします。
エンブリオの力が複雑に絡んだ、不可思議な攻撃は、特別な抵抗力や加護でないと、防げないのです。
このクロマ・セロシアが、冒険者向けのそうしたものも取り扱っていると聞いて、
そしてそうした術に関しても一級であると風の噂で聞いて、私はここを選んだのでした。

それは噂以上のものでした。
薄く、傍目には裂けてしまいそうな生地であるのに、確かに守られている感触があります。
既に纏っているのは布ではなく、何か、魔法そのものを纏っているかのような、そんな感覚がありました。
その非現実的な色合いを呈す美しさと共に、実在を問いたくなるような。

　＊　＊　＊

祝福の夜だと、聞きました。
紙袋をいっぱいにして、パーティの準備をする人や、飾り付けをする人。
行きつけの酒場でも催しがあり、特別な料理やお酒が飲まれている。
そんな、煌めくような夜。

呆れた、とでも言うように、ため息をついて。
けれど、

と言えば、足早に、伯爵とリナリアに、出かける旨を告げに行きます。
夕飯は２人の分はいらないということなどを伝えて、アトラは部屋に戻り、私もまた戻りました。
出かける前にお風呂に入りたかったし、着替える必要もありました。
とっておきの良い匂いがする石鹸で、いつもより入念に洗い、髪も丁寧に梳かしました。

　＊　


そうしているうちに夜になり、

それで何かが変わるはずもないのに、

窓の外はざわめきを隠し、しんと静かになったようで。



すでに用意の終えたアトラさんは、会議室にもなっている大広間で待っていましたが、

痺れを切らしてか、私の部屋まで歩いてきます。

足音。

少し立ち止まり、ノックの音。（アトラさんは人の部屋に入るとき、必ずノックをします）

ドアノブを捻る音。

少しの沈黙。それから、

と、アトラさんらしい、あまりに控えめな褒め言葉。
（きっと出会ったばかりの私なら、アトラさんは怒っているだと思うでしょう）

どこか気恥ずかしい、くすぐったいような空気も、この夜には何だかそれも少しおかしくて、私は小さく笑って、

と、アトラの手をとって、住み処を出ます。
手を繋ぐだけなのに、アトラさんは、

と、いつもの調子で文句をいいます。

　＊　＊　＊

まだ夜も早いのに、その喧騒は静かでした。
いつもは、翌日の攻城に向けての準備で、幾多の人が武器を買え揃えたりしていて、人の営みとしての騒がしさがあります。
この特別な夜は、だれもが、その冬の空気の冷たさのことや、あるいは親しい人たちのことを考えていて、
交わされる杯、どこからか聞こえてくる歌と音楽が、雪のように降り積もっています。
足早に帰ろうとする人は、きっと、その両手をいっぱいに買い込んだ食べ物やお酒か、
あるいはプレゼントのドレス、アクセサリーを待ち望む人がいるのでしょう。

アトラさんを誘いましたが、これといって目的地があるわけでは、ないのです。
そう歩いているうちに、私達は川にぶつかり、浜辺の方へと歩いていきます。
誰がそうしたのか、川縁の岩々にはキャンドルが灯されて置かれ、夜を飾っていました。

手を繋いだままに。

歩みは止めないままに。

両手を掲げ、数歩、川の方へと歩きます。

くるりと向き直ります。背後には、月と、星と、キャンドルを映した川面。

芝居がかった振る舞いから、突然、平素に戻るアトラに、私は浮かんだ疑問を投げかける余地はありませんでした。
けれど確信していました。きっと私は、いつかはそれを問うのでしょう。

私は問います。
その必要はないと言われても、いつだって、何故、何故と。
思えばこのメルンテーゼで過ごしたあらゆる時間の中で、疑問を欠いた瞬間などなく、
（目をつむることはあったとしても）
私は問い続けました。

私は問い続けなければいけない、そんな気がするのです。
それはある種の免罪なのかもしれません。責任、義務なのかも知れません。
そうしなければいけないという気持ちが、どこからやってくるのか。
それは今の私には分からない。何故、私は問い続けなければいけないのかは、まだ。

だから、私はきっといつか、それを問うのでしょう。
私はただ微笑んで、再びアトラさんの手を取ったのでした。
もはやアトラさんも、二人手を繋いでいることに、何も言うことはありませんでした。

感情を抑えられなくなるというは、たぶん人を殺してしまうときなのだろうと思う。

できればそうなってほしくはない。