Side:C　雪の世界


　今日は晴れていた。冷えきった上に乾いて澄んだ空気の中で見上げた夜空は、さながら黒の天幕に砕いた硝子片を散らばしたかのように美しい様相だった。浮かんだ月は惜しげなく光を降らし、下界を見下ろす様は美しい色を帯びていた。
　物思いに沈むらしき、眉を少し寄せ口元を結ぶ偽の者。黒いフードの付いた長いローブを纏って足を踏み出す。

――さくり。

　新しくまた積もったらしい、まっさらな雪に足跡を刻む。月光を反射するその表面に目を細める。
　辺りの景色は眸に痛いくらいに白かった。白が眩しい。世に溢れる色と云う色全てを塗り潰すような……或いは攫って零にしてしまおうとでも、目論むような白。
　凛と冷たい針のような風は、冥府の氷牢から削り出した水晶の鈴の弔鐘めいて、しゃらしゃらと黒姿の耳を掠める。
　さながらここは楽園の様に静かで幻想的な場所だのに、悲しく響く風はどこも変わらない。
　凍てれる透明の大気を濁すには余りに薄過ぎる彼女の吐息。けぶらせる呼吸はひどく短く。吐き出された息は瞬く間に薄れて消える。
　肌をじわじわと侵食してくるような寒気があった。まして手袋や襟巻など、防寒具を一切身につけていなければ尚更。さらした手首や首元から熱が奪われていく。
　冷えているのは身か、それとも目には見えぬが内の方か、あるいは両方か。

「……寒くなりま　　し　た」
　
　今宵は寒い日だった。いや、急に寒くなった。
　一揆を主たる街より北を“渡って”いたら、そこを見つけた。
　こういう場所なら、雪火女を連れてくれば良かったかと思ったり、そもそも興味本位だけで上へ向かったことを、彼女は少しばかり後悔していた。
　震え声はウィスパーボイスと相まって、静寂な世界によく通る。
　音をたてて手にした方位磁針を閉じて、隠しに仕舞いがてら、周囲を見渡す。耳をすませる。空気のにおいを嗅ぐ。
　立ち並ぶ樹氷が、よく見ると人の形に似ているように思えた。両腕を持ち上げ、頭の上で円を描かせて体をひねっている。隣に視線をめぐらせると、微妙にその上体が傾いで、さらに隣に目をむけると反転しているとも。さらに隣を見遣ってみると明らかに回転していた。バレリーナのように踊る人の連続した姿を模している―――ように見える不思議な木々。
　それまで不規則に、武骨や滑らかなのっぽを作り出していたものとは明らかに異なっていた。
　目を細め、首を傾ぐ時間はほんの僅かな刻。
　ふと鈴を振るような玲瓏の物音を聞きつけて、顔をふり向けた。そこで瞠目した。
　うす白い光が宙に浮かんでいた。それは掌に乗るほどに大きな、しかし触れれば儚く消えてしまいそうなもの。柔らかい綿毛に似た生き物でした。埋もれるようにして見える、つぶらな蒼色の瞳を瞬かせて、じぃと偽を見つめてきていた。

「……あなたが、この園に住まうという雪精ですね」

　呆気にとられて僅かばかり見つめ合っていたが、我に返って息を飲むとともに恐る恐る口を開いてみる。

「――――」

　すると、ぱちりと瞬くとともに体を前に揺すってきました。どうやら頷いているようだった。
　意志は通じると見て、改めて体を向き直らせる。蜻蛉玉を結んだ髪がゆれてこつり、とかち合う。

「……私は偽。あなたに会うために、勝手ながらここお邪魔させていただきました」

　雪精はもうひと瞬きして、毛むくじゃらの身を傾けてくる。
　意味が通じていないだろうか。
　ただ、少なくとも気を害した風はなかったので、頭を上げては臆する様な表情を一瞬浮かべ、両手を組みながら言葉を続ける。

「あなたに頼みがあってきました。……噂に名高い甘味の源。粉雪のごときに粒は淡く、ひと度舌にのせれば、たちまち解けて清涼な甘みを残すという。雪砂糖を作ってほしいんです」

　その言葉を紡ぐと同時に、白毛玉の身が膨れあがった。毛羽立って白ウニの如き態になり、ぐりぐりと目玉を回す。しからば“本気か”とでも言いたげに凝視してくる。

「そのための清水は用意してきました。……どこも力を帯びているらしいと聞きます。実際に味見もしたので、味も折り紙つきの名水ですよ」

　植物が喜んで身に浴びることを許容する水。自然が作りだした植物が好むなら、自然寄り出でた雪の精とて喜ばしかろう。
　その言葉を紡ぐと同時に、毛玉の身が跳ね上がった。はるかに見上げるほどに燐光が小さくなって、そのまま右方向に折れて直進、急降下、また跳ね上がる。かと思えば、斜めに跳んで緩い弧を描いて弾む、弾む。
　……戻ってきた顔。毛むくじゃらの前面に埋まった目は、とても輝いていた。とてもとても煌めかせていた。喜んでいるらしかった。
その様を見て、少し面白いと思った偽は目を細めた。反応は上々だ。ならば早速検分にかかってもらう事としよう。
　鞄を前に回し、中から瓶を二本取り出した。どちらも透明な水がたっぷりと詰められているもの。片方の栓を抜いて、毛玉のほうに傾けた。

「これは美しいと評判の湖から汲んだものです。底が見通せるほどの透明度を持ち、日暮ごろ見た際には鏡のごとくに日を映し込んで、至極確かに美しかった。魔力が詰め込まれて、飲む者の体を強めるという滋養の効もあると」

　体を前に傾けて、瓶の口に近寄っていく毛玉の様子を見守った
　しかし、その反応はあまりかんばしいものではなかった。うっすら半目に瞼が下りて、少しおいた後に白い身は瓶の口から離れていった。
　再び一定の距離をとって浮かび上がった事から、どうやらお気に召さなかったのだろう。

「…そうですか。ならもう一つ。……こちらは、夢に関する効能をもつという泉から汲んできたものです。森を抜けた中央にあり、水は冷たく甘い。活力を与えてくれる。一口飲めば、寝る前に思い出した風景の夢をみることができる。二口のめば故郷を夢見、三口のめば夢が叶う、と」

　却下を受けた瓶に封をし、鞄に仕舞った上で残る一本を開けてみせた。再び目を瞬かせ、寄ってくる毛玉へ傾けて、その様子を伺う。　
　
　―――今度の反応はかんばしいどうこうの域を超えていた。爆発したからだ。

「ば……っ」

　ぱんッ　と小気味よい音をたてて、突如膨れ上がった白い身が弾けたのだ。霧散する白光に呆気にとられたのも束の間に、慌てて目を見開いて、声をあげたところで光が収束した。

「……あ　の？」

　宙に浮かんだ小さな結晶を起点として、芽生えた結晶群が繋がり、あっという間に再びもさもさな毛玉が形成される。だが、その顔は今度は薄蒼の目がほぼ毛に隠れ、三日月を描いて、全身を揺すっていた。しきりと弾んでどこか機嫌よさげだ。

「……気に入って、頂けたの、でしょうか？」

　その様子を見て、こちらも徐々に落ち着きを取り戻してきては、また怯えた目を瞬かせておずおずと口を開いた。その声に体ごと前へ大きく倒し、肯き返してこられ、瓶にすり寄られる。早くはやくと見るからに急かす様子に、ふと、思い出したように目を細めては、瓶を傾けてその上に清水を流していった。甘露にふるると震える毛玉。

「…まだもう一本あります、から」

　一本を流し終え、名残惜しげに瞼を下ろして振り返ってきたので告げてやると、頭上数メートルほどまでまた跳びあがった。ふるふると歓喜に打ち震える毛玉に、余さずかけてやった
　水をすっかり渡してやった後、毛玉は目を弓なりに細めて、重ねて何度か弾んだ。そしてふいと見開いた蒼目を頭上へと注ぐ。その身の燐光が徐々に明るさを増した。
　また弾けるのかとおもわず唇を結びつつ、ならうように空を見上げると、夜天にぽつぽつと灯る、白い光が生じ始めているのに気付いた。

「雪……？」

　幾つもいくつも、新たな星の仔のような光が夜の暗闇を背景に、偽の瞳にも光を点す。瞬いて、おもわず薄らと開いた口にする。
もう1つ、掌におちた雪を一舐め。
　舌の上に落ちて、さっと瞬く間に溶けた淡い。透き通るような甘みのみが残る。目を瞠って口を閉じ、もごつかせた後に毛玉を見た。

「……これが、雪砂糖…？」

　またも体を前に倒して、肯かれた。それを皮切りにして、光たちは次々に降って、先に水が入れられていた瓶の中に器用に入りこんでいった。文字通りのパウダースノーが、きっかり二本分満ちて降りやんだ。
　後に残るのは目的が達成されたことに遅れて気がついた男と、元の目元の大きさを取り戻し、浮かんでいる毛玉のみだった。我に返って向き直るとともにお辞儀を向けた

「……感謝します」

　深々と頭を下げる偽はまっしろな絨毯を薄めの隙間に見遣った。
　毛玉は是とも否とも言わなかったので、暫くして顔を上げては、大事に瓶に栓をして鞄に仕舞った。
　ここは元より極寒の地。事を成せたのならば長居は無用と、辞去を表す形で重ねて柔く目礼を向けるとともに頭を下げ――思い出したように、ここで一度だけ顔を浮かせた。

「……もし、よければ…また来ても構わないでしょうか。あなたの砂糖はとても美味しかったし……まだ、話には聞き及んでも、汲みにいっていない水が幾つかあるんです」
　
　満たされたばかりで欲張りだとは知っている。けれど、美味を知れば絶えることを惜しいと思ってしまうのが生き者の性。けれども、裁量は雪精の赴くままに。男の言葉を受けて、ぱちりと瞬いていた。
　雪精はまたしばらく黙り、無表情を浮かべていたものの、ふいとおもむろに体を前へ倒してきた。肯いてきた。

「良いん、ですか？」

　返事は首肯。
　ただし、とでもいうように、再び近寄ってきた身を瓶に摺り寄せた。上目に見上げてきた。

「……分かりました。必ず美味い水を持ってくると約束します。……来た際にはお呼びすればよいのでしょうか？」

　無言の確かな催促を汲み取り、唇を結んで頷き返した。その返事に満足したものか、離れていく姿を見取って見送ろうとしたものの――ふとまた、思い立って口を開いた。次に繋げる形を問う。遠ざかりかけた白い身は再び振り返って聞いてみる。
　呼ぶか否かの問いに肯いてきた。
　“呼べ”と。次に足を踏み入れる際には声をあげて、自身を喚べと。その意志を残して、今度こそ白い体は薄れていった。元より白一色だった景色に溶け込むよう、最初からそこにいなかったかのように忽然と身を消していった。
　後に残るのは静寂ばかり。立ち尽くす彼女も一礼をおこなった後、踵を返し、その場を後にしていく。
　残ったのは足跡ばかり。その跡もまた、近いうちに雪に消されるのだろう。こうして、野に平常が戻ってくるのだろう。
　もうすぐ南の街にまで、冬は訪れる。

小さくうつろいだ声は、その時ばかりははっきりと意志を伝えていた。

別に偽が悪いと言うわけでも無いのだろうが――。
なんか、疲れていた。

そんな事をぽつりと漏らした。
特に深い理由は無い。ただ、口をついて出ただけである。

偽が調べて良い、と言えば嬉しそうにして。

そんな事を言いながら、魔力をしっかり探知しようとする。
彼女にそういった学術は無いので、至極単純に、魔法による探索を念入りに綿密にしているだけに過ぎないのだが。

偽の言葉からそう読み取って、感嘆するよう、声を漏らした。

そう締め括って彼女を見た。

大声で叫んで、ぴたりと固まったかと思うと今度は勢いよく詰め寄ってくる。まるで子供のように目を輝かしながら。

敵対するのは大きな猛者。追従する娘たち

そして大きい声で…

ひとり……ひとり？　と首をかしげながらあたりを見渡した。
うん、ひとり