アルームを離れてしばらくが経った。
カミユとそのエンブリオ、ルーアハは、日ごとにより強い力を身につけてきている。

ルーアハの力とは、癒し、即ち再生の力だ。失われた肉体を急速に取り戻すか、あるいは新たに創造する力。そう言った術の類を身につけているものはこの世界に多くいた。それはカミユにとって衝撃だった。癒しの力とは即ち神の力、神とそれに近しいもののみの持つものだと信じていた為だ。カミユが故郷の外に慣れるまでにはさほど時間が掛からなかったものの（カミユはほんの子供のように見たものの殆どをすんなりと受け入れる才能があった）、未だ自身の行使する癒しの力――ルーアハによって齎された力について、しばしば考えることがある。

カミユが「神とそれに近しいもののみが持つ」と信じてきた力、癒しの術を行使できるのは、ルーアハと契約している為に他ならない。しかし契約を望んだのはカミユではない。ルーアハだ。何故ルーアハはカミユに「わたしと契約しなさい」と伝えたのだろう？
ルーアハはカミユの問い掛けに曖昧に答える。「おまえのために」。問い質してもそれ以上は返ってこないので、カミユは自身でそれを読み解くしかない。おまえのために。カミユの望みのために。天使病の解明……。では何故。では何故、天使病のためにカミユが独りになる前に、アルームの人々の為に、ルーアハの力は行使されなかったのか？カミユは考える。


（天使の食べ物、ネクターの枯渇）
（あるいは、ルーアハが未熟なエンブリオだったため……）


そう、実際、ルーアハはマァムブのような絶対的な力を持たない、どこにでもいる未熟なエンブリオだった。
カミユがグレイマンと出会い、生き延び、食事を摂り、生活をし、戦う事を覚え、活力を得て行くその過程で、ルーアハもまた食事をし――契約の為の生命力を受け取り続け――強い癒しの力を得てきたのだ。カミユの生命力がルーアハを成長させる。
そして、マァムブの力。荒れ狂う生命力の奔流が注ぎ込まれるあの瞬間。神如き力――しかし、そのマァムブもエンブリオなのだ。

カミユは考える。ルーアハが成長し続け、やがて強打な力を得、その身の内にとめどない生命力の奔流を宿したならば。
ルーアハもまた、マァムブのような神の如きエンブリオになることが出来たのだとしたら？


（グレイマンさんの病気を治してあげられるかもしれない）
（アルームで眠る天使病の人々を、目覚めさせることができるかもしれない）


祈りの歌に満ちた光の村。アルーム、母なる霊峰の懐、その子宮。聖処女信仰の小さな村。
天使病に冒された人々は、眠りの内に呼吸を止めた。あるいは鳥のように崖から飛んだ。崖から飛んだ人々の身体がどうなったかは判らないが（カミユはそんな事を考えたくもなかった）、しかし眠った人々の身体は――不思議な事に、腐らなかった。少なくとも、天使病が始まり、カミユが最後の生き残りとなってアルームを発つその日まで、土に埋められることのなかった――次々に人々が目覚めなくなったので、埋葬が追いつかなくなった――人々、彼らの身体は劣化せず、清浄だった。まるで絵のように、どこまでも。
カミユはそれもルーアハの力だと信じている。僅かな力しか持たないルーアハが、最大限を尽くして繋ぎ止めた望みだと。
けれど。


『ルーアハは、せいしょじょさまなの？むかしきたてんしが、ルーアハなの？」


フョードル、グリゴリの息子の言葉だった。聖処女。アルームの守り神。奇跡の象徴。
カミユはその言葉に面食らった。カミユはルーアハの事を「聖処女に祈りを届ける存在」だと思っていたのだ。
人々がネクターを介して生命力をエンブリオに捧げるように、ルーアハ、天使を介して祈りが聖処女に届くものだと。
しかしネクターは狩り取られ、天使は皆それを追って去り、聖処女の加護を失った人々の魂は――天使を追って行ったのだと。
そして未熟な天使、ルーアハだけが残った。未熟なルーアハ、その未熟さ故に、僅かなネクターでカミユと契約することができた。そして聖処女へ祈りを届ける天使を呼び戻すために、ルーアハは自分を導いたのだと……
けれど、ルーアハが聖処女そのものだったとしたら？

村に残った唯一の天使。確かにそうなのかもしれない。かつて光とともにトラメンストルに舞い降りたというその伝説が真実ならば。
それならば尚更に、何故カミユ一人が生き残ったのだろう？外から来た子供であるカミユが。
敬虔なアルームの人々が護られなかったのは何故なのだろう――あれほど村は祈りと歌に満ちていたのに！

そうしてカミユの思考は立ち戻る。
ルーアハが未熟な聖処女だったために？受胎を告知される前、未だ神を孕まず、ただのか弱い少女であったために？……。
いずれにせよ、ならば何故、カミユに癒しの力を与えるのだろう。…………。


カミユは咀嚼する。ルーアハの放つ僅かな言葉を。奪い取った糧を。答えを導き出す為に。
「おまえのために」。培われてゆく、癒しの、再生の、あるいは創造の力。必要なものはただ、生命力。そして祈り。
それは確かにカミユに必要な力だった。疑うまでもなく救いだった。けれど何故？「ぼくのために」。
ルーアハではなく、カミユ自身が癒しの力を得てゆくその理由は。そしてルーアハ、カミユの天使は一体何者なのだろう？……。


答えは導き出される事も、返ってくる事もない。今は未だ。
しかし答えの代わりに、ルーアハの気配がわずかな実感、質量を伴ったような――そんな感覚を、カミユは覚えた。







アルームの聖処女：
アルーム村の興りは、いつ、誰が、何の為に作ったのか知れない聖処女の像の発見による。
天から降りてきた光を追って司祭が辿り着いたトラメンストル山の中腹で、聖処女像は発見された。
険しい山中に本来存在しえないはずの聖処女像、その奇跡は人々の心を強く捉える。やがてその場にアルームの村が作られた。
聖処女とその胎内の御子は、しばしばトラメンストル山とその中腹に存在するアルーム村に例えられる。
像の材質は恐らくトラメンストルの山肌と同じ礫岩であるが、山肌のような薄紅色ではなく艶やかな暗褐色をしている。原始的な意匠で、見た目にその腹はさほど膨らんでいないが、自身の腹を撫ぜる指先の表情などに乙女らしいたおやかさが見受けられる。

（聖処女像は元来それきりしか存在していなかったが、後に人々の手によってそれに付随する彫像や浮き彫りが作られた。
　洗練された意匠ではないが、アルーム村の祈りの象徴として、聖処女像と共に人々の信仰に深く根付いている。）

カミユの対応に、エンブリオは少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
大人しく撫でられながら、滲みだす液体の量は、徐々に減ったように見える。

どうして怒ったの、という言葉に、少し俯くようにする。

カミユの話をじっと大人しく聞く。
しばらくしゃっくりだけを漏らし、たっぷり沈黙してから、ようやく口を開いた。

自分で言って想像したのだろうか。再びじわじわと羊水が滲みだす。

村を出る前でエンブリオの詳細を知らなかった、と聞くと驚いたように軽く口元に手を当てた。

くるくると回る精霊を諌めるように撫でると、こちらもまたふわりと姿を消した。

　　　　　　ワイルド。

―　闇オークション開催決定から数日後、夕刻　―

カミユが外へと繋がる通路に差し掛かると、ふと見慣れぬ姿の女性を見つけた。
背丈と髪色からリレッタしか該当はしないが―――

声をかけるか、かけまいか。
逡巡しているうちに、彼女の――リレッタの方が気付いたのか、振り返ってカミユに笑いかけた。

そこで、少し言葉を区切って衣装を見やすい立ち姿を披露する。
髪を纏め上げているのも印象を変えるが、服装も普段の濃い茶色をベースにした
上着やシャツにジーンズ生地のズボンやスカートではなく、鮮やかな、それでいて下品でないワインレッドのベストとネクタイに白いYシャツ、黒地のスラックスを身に纏っている。

小さく苦笑しながら、ほんのりと朱に染まった頬を掻いた。

一揆とは関係していないと聞いて、エッと驚いた顔をしながら、カミユの顔をまじまじと見て

後ろに隠した手で、慌てて何かをクシャりと潰した

少しだけ考えるような素振りを見せ。

クリストファーの背後から４０cm程の人形がひょっこりと顔を出して。

　

　

　

小さく、隣の人に聞えるかどうか、といったそんな声。
震える手をぎゅ、と握り締めれば獲物を構え。
不安げな表情を無理やり内へと押し込めれば、顔を上げた。

刃を構えるのをやめれば、はああ、と深く息を吐いた。
自分が無事なことに、仲間にも致命傷がないことに心底安堵をする。

倒れた相手に近寄れば、傷の度合いを知るために声をかけようとして――
問いかけは、途中で止めた。

ふるり。首を横に振る。
そのまま、結局何も言わずにその場を去った。

不安げな表情で、しばらくは意味不明な言葉を呟いたりしていたが。
ようやく相手に向き直れば、喋りなれない、かのような片言の言葉と共に、深々と頭を下げた。

コインが弾き上げられた。