
これはイバラシティではない、どこか別の世界の話だ。
ある大学で、学生の失踪が相次いだ。
心神喪失状態で発見された者。不審死を遂げた者。未だ行方不明のままの者。
共通点は皆同じサークル、オカルト研究会に所属していたということのみ。
そして最終的にその部長が姿を消した後、ぴたりと行方不明者は出なくなったという事実だけが、不気味な手触りともにそこにある。
***
「……あ、え……? なに……なんで、」
喘ぐような呟きが、まるで他人のもののようだ。
切りつけた姿勢のまま手首から先が消失した右手を、鼠森は呆然と見つめていた。
「あんたのそういう切り替えの早いところ、割と好きよ」
降ってきた声に視線だけを上げる。
黒い目を細めて、大曲晴人が嗤っている。
「ちょっと餌をちらつかせたらすぐ食いついちゃって……ホント、かわいいんだから」
出血はない。痛みもない。ただ、右の手首から先は何度確かめてもすっぱりと斬られたように、或いは喰われたようになくなっている。
震えながら大曲を見上げる。その足元、荒れた地面に落ちる黒く長い影の中に、何かがいる。
「な、なんですか、それぇ……」
男の影から、ぬるりと滑るように"そいつ"は現れた。
黒猫
大型犬程の大きさの、空間に空いた穴のように真っ黒な猫がじっと鼠森を見つめていた。いや、ただただ黒いその顔に目らしいものは見当たらない。目の代わりに、顔の真ん中に口のような穴が空いている。それなのに、見られている、という嫌な感覚だけがある。
「先輩、戦えないって言ってたじゃないですか……」
「そう簡単に手の内明かすわけないでしょ」
大曲は肩を竦め、薄笑いを浮かべて鼠森を見下ろした。
ぞく、と悪寒が背筋を駆け抜ける。
「ところで、『ドライバーさん』の話。本当なのかしらね?」
「は……?」
「知ってると思うけど……あたし、試してみないと気が済まないのよね」
それは、オカルト研究会で何度となく聞いた言葉だ。
新入部員を唆していわくつきの心霊スポットに踏み込ませたり、所謂"ヤバい"怪談の入った本を何食わぬ顔で薦めたり。そういった"実験"を試す度に、彼はそう言って薄く笑った。
別にそれは大曲晴人に限った話ではなく、部長を始めとしたサークルの中心メンバーはそんな連中ばかりだった。
そして鼠森も、それを止めるような人間ではなかった。寧ろ、起こった結果を眺めて楽しむ側だった。いつか自分を仲間はずれにした奴等も、同じような目に遭えばいい。そう思っていた。
――のんは大丈夫。
――のんには"耳"があるから、先輩達に気に入られてる。
ここなら、自分には価値がある。だから、仲間外れにもならないし、捨て駒にもならない。
そう思って、いたのに。
「影響度を稼げなかったら姿が変わるって、本当なのかしら。どんな風に変わるのか、あたしすっごく興味があるわ」
「……なに、待って……ねえ、嘘でしょ先輩、」
「手ぶらだと思ったら刃物が出てくるとか、油断も隙もないんだから。危ないからそっちの腕も寄越しなさい。うっかり死なれでもしたら台無しだから、脚は残しておくわね。がんばって走ってちょうだい」
「や、……やだ、やだやだやだ、おねがい、のん役に立つから、何でもするから……ッ」
「あら。イバラシティはもういらないの? 『同郷の先輩』を殺してでも手に入れたかったのに?」
冷や汗が止まらないまま、ただがくがくと頷く。
いらないわけない、でも化け物にもなりたくない。
とにかくこの場を凌げさえすれば、後でいくらでも、機会が、
「そうやって簡単に手のひら返してると、ろくな目に遭わないわよ。鼠森」
そんな考えを見透かしたように、大曲は昏い目を細めた。足元の猫がゆっくりと尾をくねらせて足音もなく一歩踏み出す、その動きに心臓が跳ねる。
思わず後退りしようとして、何かに蹴躓いて倒れた。無意識に体を支えようと伸ばした右手首の断面が、石だらけの地面をざりざりと滑る。肉が削れる痛みに、声にもならない悲鳴が洩れた。
「わかってやってるならいいけど。あんたはそうじゃないでしょ」
猫が近付いてくる。
「『自分だけは大丈夫』って、そう思ってるんでしょう?
何かあっても自分だけは助かる、そう思いたいわよね。でも、」
猫が近付いてくる。
「――結局『誰も助けてくれなかった』でしょ?」
大きく口を開けた猫が、目の前に立っている。
(――あれ、)
違和感。
猫の後ろに立つ男を見る。大曲晴人。
鼠森かのんがアンジニティに落ちた時、既に大曲はその世界にいなかった。
オカルト研究会のメンバーが一人また一人と姿を消した"事件"。
殺しても死ななそうだと言われていた大曲晴人があっさり消えて、鼠森を含めた下級生達は恐慌状態に陥った。
所謂"本物"に手を出してしまった、誰もがそう思った。それでも手を引こうとしなかった部長に逆らえずついてゆく者も、逃げ出す者もいたが。最終的にほぼ全員が多かれ少なかれあおりを食った。
鼠森かのんも例外ではなく、為すすべもなく怪異に呑まれて、気がつけばアンジニティにいた。
その寸前、必死で伸ばした手が振り払われたことも。
誰も助けてくれなかったことも。
最後に見たメンバー達の顔に浮かんでいた恐怖と焦燥と、自分は免れたのだという安堵も。
全部全部、ちゃんと覚えている。
だから。
だから、おかしいのだ。
先に消えた大曲晴人が、鼠森かのんが見捨てられたことを知っているのは。
「……のんより先にいなくなったのに、なんでそんなこと、知ってるんですか」
左腕だけで這うように後退しながら訊ねる。
時間を稼ぐ意図もあったが、それ以上に強烈な違和感に耐えられなかった。何かが、おかしい。
「……あら」
大曲は指先を細い顎に当てて、首を傾げた。サークル室で何度となく見た仕草。
・・・・・・・・・
「そういえば、あの時はそうだったかしらね」
うっかりしてたわ。何でもないようにそう呟くのが聞こえた次の瞬間、黒い猫と赤い口が衝撃とともに鼠森の視界を覆い尽くした。
***
両腕を失くした女が瓦礫だらけの地面に倒れている。
大曲はそのすぐ近く、大きめの瓦礫に足を組んで腰掛けて、『Cross+Rose』を操作していた。
「さてと、今の影響度は…………ま、サボってたんだし当然かしら」
意識を失っている様子の鼠森を一瞥する。
彼女を『倒した』ことで得られた影響度は、予想はしていたがそう多くはなかった。
「暫くここで遊んでてもいいけど、多分あんまり美味しくないのよね。
持ってる相手からの方が多く奪える、っていうのがまあ定石でしょうし」
影響度の低さが姿形に及ぼす影響は気になるが、自分も道連れになっていては世話ないわけで。鼠森の様子は定期的に『Cross+Rose』で確認するとして、まずは自分の影響度を上げることが優先だ。
はあ、とひとつ息を吐いて立ち上がると、鼠森の顔を覗き込んでいた猫が寄ってきて、顔なき顔で大曲を見上げた。
「あの街は確かに、居心地はよかったわ。元の世界と割と近いし……異能っていうのも面白い。あたしのは尖りすぎててちょっと使いにくかったけど」
猫のつるりとした黒い表面を見ながら呟く。
これは命令に従うというだけで、意思の疎通ができるようなものではない。だから、これはただの独り言だ。傍目には、猫に話しかけている男に見えるのだろうけれど。
「でもやっぱり、あの世界はあたしが戻りたい場所じゃない」
勿論、イバラシティでの日々は悪くはなかったのだ。
社畜としてこき使われる立場ではあったものの、収入もそれなりにあったし、甘いものを食べたり、服や靴を見たり、好きなだけ買い物をしたり。
"素"を出せる場は少なかったけれど、長く住んでいればそんな友人の何人かだって作れただろう。
それでも、あの世界が欲しいとは思わない。
大曲は欲しいものによく似た別物で満足するほど欲の薄い男でもないし、何よりも。
アンジニティで試したいことも、知りたいことも。
まだまだ尽きる気配がない。
大曲 晴人
かつてある世界からアンジニティに落ちた男。
好きに生きているので人生が楽しい。
大曲晴人は自分のためにしか動かない。
したいように、やりたいように、ただそれだけで生きてきた。
知りたいことを知るために。欲しいものを手に入れるために。
使えるものは何でも使って、邪魔なものは踏み台にして、涼しい顔をして生きてきた。
地獄に落ちろ、と怨嗟の目を向けられたことも一度や二度ではない。言われなくともいつかそうなるだろうとは思っていたし、わかった上でのこの状況だ。
だから今回も、したいようにするだけ。
「……どうせ夢なら、なんて」
影の中に猫を飼う男はひとり、荒れ果てた道を歩き出す。
「あたしらしくもないわね」