
重い空気が満ちている。誰も一言も発するな、という合図を、皆が忠実に守り続けていた。
言い争う声の両方に聞き覚えがあり、そしてその片方は“ここにいる”。そのはずだった。片方は二ノ平悠だ。そしてもう一人は、いまここで電話に出たはずの“西村一騎”。
何が起こっているのか、何が始まったのか、全ては推測するしかなかった。大日向でさえそうだった。
『一向にお前が“そう”でなくても構わない。俺は探せる、何故なら運命があるから』
『……させないと言ったら、それはどうしますか』
『それは、お前たちのところにいる、ってことじゃないか。けれどどうしてだ、いるはずなのに何も感じない。――どこに隠した?』
『さあ?それこそ存じ上げません。』
『分かった。通信で教えてやる時間もこれで終わりだな』
電話が切れる。“西村一騎”はスマートフォンを拾い上げると、緩慢な動きで大日向の方へ向いた。彼ですら、今は厳密に言うと“西村一騎”ではない。
「……どうしますか?」
「しばし待て。人員を適切に割り振る。出る準備だけしろ」
それは鶴の一声だった。
一斉に散っていく創峰――いや、紫筑大学の学生たち。その背を見送り、大日向は自分のデスクに戻った。
大日向は、紫筑大学そのものをこの場所に結びつけている代償として、基本的に創峰大学の敷地内から出ることができない。故に全てを今回連れてきた学生たちに任せなければならない。それだけがただただ歯痒い。
彼の世界に派遣したパライバトルマリンにも動きらしい動きはなく(――要するに拠点にまだ戻っていないということなのだろう)、大日向は手持ち無沙汰だった。
故にやることができたのなら、それは願ってもないことだ。
「追い詰めてやるぞ……【透翅流星飛行】!」
ひとりきりになった部屋で、パソコンのモニターを見つめた。送られてくるデータを研究室のサーバーで、――ユッカ・ハリカリから支給された、積層世界間をまたぐ接続を可能にする特殊な無線通信を用いてアクセスした紫筑大学のサーバーで、即時分析をかける。
データをすぐに頭に入れて、思考する。どうして今【透翅流星飛行】が現れたのか。そもそも【透翅流星飛行】とはなんなのか……モニターのノイズ。かすかな糸口。
「……もし、いるか?ハリカリ。一つ頼まれてくれ」
「ええいますよ、いつでもね。いいお客様ですから」
何もなかったはずの空間に、いつの間にか男が立っている。
何の特徴もなさそうな男だ。それが、ユッカ・ハリカリのある意味での本性だ。“誰でもない”、故に誰かである。誰かであり続けている限り、本人に被害は及ばない、そう言い張る生粋の引きこもりだ。
「お代は高くつきますけどね。何用でしょう?」
「造作もなかろう。並行世界を調査して欲しい」
「……もうちょっと具体的にお願いしても?」
「料金を上げるつもりか?分かっているだろうに」
「全く傲慢なことだ。せいぜい【右手の幸運】の情報くらいで許してあげようと思っておりましたのに?」
「とっくに担保に入れたつもりでいたよ」
そして、その相手の仕方は、もう何度目か分からない。数えることはとうに忘れた。強い要求をあまり退けないということを、大日向深知はよく知っていた。後出しで高い報酬をふっかければいいということも。
諦めたように肩を竦めた男が、何も言わずに揺らめいて消えていく。そして、大日向のデスクの上に、いつの間にか『ハリカリ道具店』と書かれた領収書が落ちている。
二ノ平の救出に割り当てられたのは紀野とクレールのコンビだった。大日向は救出とは言っていたものの、“あの”二ノ平がそうそう簡単に転がされるわけがないと、二人とも思っていた。
特に、機械類が存在していればなおのことだ。二ノ平は数値計算ラボラトリにいるはずだった。
二ノ平悠という男は“機械が大量にある場所で真価を発揮する”。それは彼の能力がそのように定められていて、機械があればあるほど、その種類に応じて、ありとあらゆる能力を間接的に駆使することができる。【多脚百跡夜行】は、機械であれば何でも、自分の意のままにすることができる能力だ。それが故に万能で、それが故に欠点がある。幾重にも処理を走らせればオーバーヒートを起こすことは当然あるし、データを即時反映できても、それを理解していなければ意味がない。万能であることは、知識が伴っていなければ強みにはならない。【知識の坩堝】系統と区別されて記載されているのは、機械さえあれば理論上は全く際限なくあらゆる力を行使できるからだ。
「数値計算室の二ノ平パイセンならへーきなんじゃないっスか……?」
「そういう仮定で動くな。イレギュラーはいつだってある」
「ッス」
そこはいつも通りに静かだった。いつも通り静かなことが、これほど異様だっただろうか。本当にごく一抹の不安を握らされたまま、廊下に足を踏み入れた瞬間だった。
「お前、やっぱり同じところから来てない?」
静寂をばりばりと引き裂いて、男の“ようなもの”が飛び出してくる。
身に纏う金属光沢が流動的に位置を変え、その手は完全に繋がってはいなかった。――そして、その手に、二ノ平が常に能力を発動させるために身に着けているアームデバイスが握られている。
「俺、見たことあるもん。見たことあるよ、お前のこと。でも違う」
「二ノ平パイセン!!」
「すいません、下手を打ちました!せめてそれだけでも!」
揺れるプラチナブロンド。
鮮やかな空色の目。
顔から下を一切合切、人としての理から外した――男のようなもの。
「あたしは足止めだけだったらクッソ得意ですよぉ~ッ!!クレールパイセン!!」
「うるせえな」
【私が魚でここは海】、と力強く宣言された瞬間に、足元に水が押し寄せるような感覚が走る。人の歩みを止めるのは、膝下だけで十分なのだ。確かに困惑の表情を見せた男が、その腰の推定羽で飛ぶ前に、クレールは『弓』を引いた。
「置いていけ」
それは不可視だった。それは不可視のはずだった。けれど、到達する直前に明確に光として捉えられたのを見た。一瞬こちらを見た鮮やかな空色が、明確にクレールを嘲っていた。
「もういらねえから置いてくよ。お前らにも用はない」
「何のためにお前はここに来た?答えろ」
世界の壁が、耳障りな音を立てて引き裂かれていく。ショッキングピンクの爪の色。にやりと口元を歪めて、それは名乗るように言った。
「息子を探しに来たのさ。俺の運命が、ここにいるって告げているんだ!」
二発目を撃つより早く、その姿は世界の向こう側へと消えていた。
『こちら大日向。襲撃を掛けてきたのは【透翅流星飛行】と断定』
ある場所に向かって走りながら、西村と宮城野は通信を聞いていた。直接的な被害は今のところ不明、データに触れられた可能性あり、負傷者はなし――怪異【透翅流星飛行】。
西村一騎に酷似した外見と顔立ちを持つが、その髪色は染めたようではないこと。外見、および所作から怪異に分類されること。世界の裏側に潜り込み、身を潜めるすべを持つこと。本人自体の攻撃力は全く大したことがなく、適切な防御を繰り返していれば先に【透翅流星飛行】自身が消耗していくこと。目的は息子を探すことだということ。
『断じるには早いが、【透翅流星飛行】の言う息子はほぼ【右手の幸運】のことで間違いないだろう。結果的にボクの対【哀歌の行進】対策が功を奏しているうちに、告げよ』
遠かった。故に、この二人だった。
宮城野陽華の【捻じくれた深淵の鈴】は、規定されている座標に対してなら、即座に移動することのできる能力の持ち主だ。そのスキップの仕方は、世界の裏側を通ること。事前にいくつかの座標を取っておけば、そこに即座に移動し、それに対応する場所に現れることができる。
つまり大日向は、これを逆手に取って平然と自分たちを釣り餌にしているのだ。【透翅流星飛行】が世界の裏側に潜む能力を持つというのなら、“自分”を狙ってこないわけがない。
『件の神の手を煩わせるようなことでもないかもしれないが……』
「それ、要するに、釣りますって言ってますよね」
「……飛びますね……」
「ああいいですよ、一々許可を取らなくて」
積層構造世界論によって体系づけられた世界は、転がり落ちるのは簡単だが、登っていくことは大変だ。そこを飛び越えて登るためには、能力が必要だ。それが宮城野陽華の持っている能力の本来の使い方だ。
上に行けば行くほど高次世界となり、下に落ちれば落ちるほど低俗で劣悪な世界になるとされているが、その証明方法は立証されていない。そもそも自分の住んでいる世界以外の“世界”を知ろうとする人間が少ないからだ。大多数の人間は、自分が生きている世界だけが唯一だと思ったまま生まれ、生き、そして死ぬ。
「けど……」
「いいと言ったらいいんです。どうせ何が起こるか分かっているので」
積層構造世界論における世界と世界の狭間は、基本的に何もない。
星の輝きも空の色もない宇宙だと、一般の人間には説明する。宇宙の極点とも違う、無。どこの法則にも属さない無。そこに飛び込むことは、一般的に死を意味した。無から何かを探し当てることは、砂浜に落とした砂礫を探すこととほぼ同義だ。専門的な知識がなければ。
宮城野曰く、無の中にも地形や光源は存在し、それを知覚できればできるほど、世界の狭間において有利になる。そして彼女はその能力者で、紫筑で誰よりも無の中を見ることに長けていた。
だから、必然なのだ。
現実から転移した瞬間に、手が伸びてきていることは。
すぐに跳ね除けていた。予想できていたから、そうした。それ以上に、西村の心は揺れ動く。
(……どうして)
「……先輩……?」
「何でもない。……」
それは兄によく似ていた。無の中に佇む、辛うじて人型の男と分かる造形。特徴が、聞いていた【透翅流星飛行】と一致する。全てを閉ざし、凍てつく氷の中に閉じ込め、“西村一騎”はそれを見た。
「……お前は……」
「来るとは思っていましたけど、ドンピシャで合わせてくるとは思いませんでしたね。何の用ですか?」
「……」
耳に痛いほどの静謐の中、二人分だけの呼吸音がする。心臓が脈打つ音、血が流れる音すら聞こえてくるようだった。どちらが口を開くでもなく、ただ見つめ合っていた。
合図はごく一瞬。鮮やかな空色が細められた瞬間だった。
「お前は違う。俺の知っているユーインじゃない」
「ではお引取りいただけますか。邪魔なんですよ」
「邪魔なのはそちらじゃないか?どうして誰もが俺の運命を邪魔するんだ、悪いことではないはずなのに」
「――先輩!危ない!」
無の中で、確かに空を切る音がした。羽撃きの音がした。
かき消えるだとか、そういう次元のものではなかった。もっと別の力で、【透翅流星飛行】は、何かを仕掛けてきたようだった。それが何かすら、西村には知覚できないまま守られる。
飛び退った先で宮城野と同じ方向を見て、西村は目を瞬いた。何かが――無が砕かれている。それを煌々と蒼い炎の明かりが照らし、影を落としていた。
「ねえ、あなた……本意ではないことをさせないで。私は気まぐれだから、手が滑ってあなたを焼いてしまう」
神々しい獣が――上半身が鳥で、下半身が獅子の獣が、そこにいる。