
感情を殺した目で見つめていた。
できることなら三十六時間、そのままでいたかった。それを許さない、一時間ごとの記憶の流入。切り離して記録として処理しても、ここにいる間は残り続けるだろう。三十六時間に対して、“楽しげな姿が多すぎる”。
『……その、さっきは本当に悪かった。アンタを責めようとかそういうつもりじゃなかった。俺も、余裕がなくて、どうしていいかわからなくて、不安だった』
だから興味のない体を装っている。聞き流しているように見えているだろう、きっと。
改善の余地。最善の選択。――歩き続けるしかないということ。歩き続けて、辿り着かねばならないということ。歩き続けて、歩き続けて、どこかにあるはずの出口を見つけなければならない。
『どんな形でもスズヒコは、スズヒコだ。そんな当たり前の事も忘れて、焦ってた。でもきっと、今の状態に一番納得いってないのはアンタだ』
その通りだ。
自分には、お得意の頭脳しかないのだ。三十六時間は、そういう意味でも短すぎる。水の残渣をようやく掴んで、飛び交う火の粉から不滅の火を得る。それだけでは足りないだろう。
短すぎた。けれども、そこに飛び込んでくるあらゆる情報が、己を狂わせる。ごくごく平和に暮らしているだけの人間に、こんなに心乱されることがあっただろうか。
『……なら、俺が出来る事なんて無い。だから、待ってる。アンタが納得出来る形になるまで。アンタの側で』
彼は何かを掴んだのだろうか。
けれど、ああして掴みかかったあとで、それについて聞けるような精神と、覚悟は持ち合わせていなかった。
――ぼくと先生の話をしようと思う。
知っている、あるいは覚えている人はもう誰もいないだろう、秘密の話だ。ぼくはパライバトルマリン、不出来な神の御使いの成れの果て。神のおわす世界から見放され、あとは死ぬだけだったはずの成れの果て。捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもので、けれどぼくは最低でも二度は捨てられた
ひとつ。生まれ損なったぼくを捨てた“世界”。黎明の世界樹エーオシャフト。世界樹の下に神がおわし、そして枝葉末節それぞれがひとつの世界を構築する大きな世界。
ひとつ。ぼくを外界適応させようと、あらゆる改造を施した人たち。手足どころか目すらない生き物に、彼らは装甲としての被嚢と、腕としての触手を与えた。それまではよかったかもしれない。そこから先に進みすぎ、ぼくの身体はその気になれば人を殺せるようになった。人を殺したくないというぼくを、もう覚えていない誰かが黒いビニール袋に入れて捨ててくれた。名前すらなかった生き物は、そこで一度死を迎えた。ぼくから生み出された他のあまたの“きょうだい”たちが、どうなったのか。御使いの理から弾かれている以上、ぼくに知り用はなかった。
ひとつ。同じ研究所の“変わりものの集まり”。偶然にも誰よりも遅くゴミを捨てに行く彼らは、ぼくの入ったゴミ袋に興味を示した。中を暴き、ぼくを見た彼らは、ぼくに向かって“おもしろいね”と言った。
ぼくの見た目は、どうやったって取り繕えるものではなく、気持ち悪いという分類にカテゴライズされるのが普通だろう。けれど彼らの好奇心の方が上回り、そうしてぼくは“ペット”になった。捨てられていたものをどうしたっていいだろう、という持論の下、彼らはぼくに優しくしてくれた……というより、ぼくの存在を許した。
ぼくはそれだけで優しくされた気になって、元気良く飛び回っていた。
ぼくたちと先生の関係が変わったころ、世界の間の情勢が悪化していた。
黎明の世界樹エーオシャフトの葉の一枚、双極世界バイポーリス。科学の世界シエンティカと自然の世界ネイトリエが融合し、それが混ざり合わないまま存在している世界。それが、ぼくたちと先生のいた世界の名前。バイポーリスという名前はぼくらのような御使いしか知らないし、シエンティカとネイトリエはあくまで二つの国名として扱われていた。――要するに、国と国の間で、一触即発の状態が続いていたころ。先生だけが、別の研究室に異動になった。
先生は自然の世界の出身だった。そして、ぼくたちの研究所は、科学の世界にあった。
先生が来たときは何ともなくて、それでも“変わりものの集まり”に入れられて……要するに、差別だ。けれど“変わりものの集まり”の構成人員は、それを欠片も気にしなかった。先生はむしろあの中ではよっぽど常識があって、絶対午後から出勤してくる人、机の下に強引にマットレスを敷き詰めて眠っている人、その他なんか……とんでもない人々、それらに比べたら本当にマシだった。先生は要するに、別の国の人間だからという理由でここに入れられていた、ということにぼくが気づいたのは、この研究所が跡形もなく燃え尽きてからだった。
大人のやることの方が陰湿だ、と言っていたのは、確か机の下で寝ていた人だったと思う。先生はいじめられている。先生は干されようとしている。その言葉の意味は、今になってようやく分かった。異物を排除しようとしている。そう言えば聞こえは良い。けれど、やっていることはどうしようもなく、個人に負担をかけ、破壊しようとする行為だった。
ぼくたちはどうにか先生を助けられないかと思って(――先生は優秀な人だったので)、いろいろな案を出し合ったりもした。けれど、ぼくたちが“変わりものの集まり”だというのが足を引っ張ってしまって、結局何も出来ないまま、その日を迎えてしまった。
『先生はね、何でも下準備する人。先のことを考えて、用意しなくていいものまで用意する人』
言葉の通り。
学会というものがある。大抵の場合、その研究室での研究課題はひとつの方向を向いていて、同じ学会に皆が出向くことは当たり前といえば、そうだった。出向かなくても、それを理由にして休んだり、早引きをしたり……先生はその日をずっと待っていた。何も信じられなくなりながら。
無敵の人、という言葉がある。これも後から知った言葉だけれど、先生のことをよく表していたと思う。家をもぬけの殻にし、結婚指輪もどこかに隠し、こちらに連れてきていた娘さんは、確か親戚のところに預けていたと思う。全てを断ち切り、一直線にこちら――研究所だけを見つめていた。
そして、研究所には。可燃物が、大量に転がっている。ふつう、そういう火災が起こったときは防火設備が作動するものだ、と、大日向深知……今の持ち主には教わった。たぶん、世界が変わればその基準も変わって、そして今よりは昔のことだったから、そういうものなんじゃないかなあ、と、ぼくは曖昧に答えている。実際どうして、あれだけ火の手が上がったのか、ぼくには分からないでいた。
ぼくには呼吸が必要なかった。だから“嫌な予感がして”飛んでいった。逃げ損なった人が一酸化炭素中毒で倒れている上を乗り越えて、焼け落ちて崩れたドアの向こう側から聞こえる『助けて』という声を無視して、一人の人間だけを助けに行った。
結論から言うと、ぼくは拒絶された。
もっと正確に言えば、先生がぼくの飼い主になっていたことを利用され、娘たちのために働いてくれと頼まれた。そう言われてしまえば、ぼくには抵抗する力はなかった。ただ、その通りに動くしかなかった。
結果的にそれは最善になり、先生と娘さんたちはとある本の世界で再会して――そこでも、いろいろあったのだけれど。先生が今の先生のような状態に限りなく近い、人間ではない何かになったのは、その本の世界だ。だから先生の本体は、本そのもので、そして、燃えることがない。
だからぼくは、先生と何のしがらみもない状態で向き合うのが、初めてだ。
この髪は持ち主の鏡。今はユッカ・ハリカリ――から、間接的に譲渡された大日向深知。彼らは先生のことを“どうでもいいもの”か“利用するもの”としてしか見ていなくて、その認識はぼくにも反映される。
情も何も全てを抜かれたフラットな形で向き合うのは、初めてだった。
「……先生、覚えてる?」
口から発されたのは、女とも男ともつかない声だった。
「……」
「……先生、」
「邪魔をしに来たのか?」
致命的に変わってしまっているなあ、というのを、肌で感じている。何かを見失っていて、それを探すのに必死になっている、そんな声。
見下ろす視線は氷のようだった。それを是としてしまうのは、あまり良くないことのように感じられた。
「……時と場合によるかも。基本的には協力の要請だけど」
「誰から……」
「吉野暁海から。」
見開かれる目。その一言だけで理解されたのだろう、羽織の袖から鋭い爪が伸びてくる。外套は分厚く、セルロース繊維で構成されているからそうやすやすとは切り裂けない。
しばらく爪を引っ掛けていて、どうにもならないことに気づいたのか、“先生”――スズヒコは手を離した。
「何故あんたがその名前を……」
「今の飼い主が大日向深知だからさ。覚えてるよね?」
「……思い出したよ。そういうやつだった」
一歩前に進む。スズヒコの足は動かない。
「ぼくは、大日向深知から……“あなたの力を借りたい”という言伝てを持ってやってきた。けど」
「けど、何」
「今の先生には具体的に何をどうするかについては伝えられない。だって、そういう状態ではないから」
駆け引きだ。それか、爆弾処理だ。
本当に少しだけ冷静になってもらって、他人のことについて考慮できるほどの余裕が生まれたとき、パライバトルマリンは大日向から託されたジョーカーを切ることができる。
そのことについては、もうきっかけは生まれているはずなのだ。
「けれど、ひとつだけ言えることがある」
「……何の取引?」
「ああ、聡い。そうだよね、知ってたよ」
ぼくはもう少し、先生に寄り添うことができたはずだけれど、今の先生はきっとそれを求めていなかった。自分で辿り着いて結果を手繰り寄せたとき、ようやく視界が拓けることを知っているひとだから――先生も、大日向も。
ずっと難しい顔をしていたのを知っている。知っていた。今の顔も、なんとなくそんな気がしていた。記憶としては朧気な眼鏡を掛けた横顔は、今には似ても似つかない。けれど、根本的なものはきっと同じだ。探している人間の目。糸口を求めている目。
「……無駄な時間は使いたくないんだ、できるだけ。話してくれ」
「それは無理だ。ぼくらが求めている状態ではないから。……そうなんでしょう、先生。納得行ってないんでしょう」
見つめる目の色の片方は、知らない色だ。そして、共に歩いている人も、知らない人が二人いる。それがどのような導きなのか、ぼくには推し量ることはできない。できなくなった。
でも、覚えていることはある。あなたがきっと、何の準備もしていないなんてことはありえないということ。死ぬために執拗な準備をするんだから、こうなることも予期しているはずだ。
「……それで」
「分かった。……“こちらには世界転移の技術がある”」
「……!」
果たして大日向深知は、それを知っていたのだろうか。ぼくですら知らなかったようなことを、把握していたのだろうか。ぼくは確かに見た。先生の冷たい顔が鮮やかな驚きに染まるさまを見た。
――否定の世界。罪人の掃き溜め。どうして先生は、こんなところにいるんだろう。