
『先生はね、何でも下準備する人。先のことを考えて、用意しなくていいものまで用意する人。それにはもちろん、自分の死に方も含まれてた』
『だから、ぼくは先生がなんもしてないわけがないって思うんだよね』
『ポケットとかひっくり返してみたら?』
パライバが残していった言葉には、フェデルタも思うところがある。
確かに、スズヒコがなんの考えもなしに現状に甘んじてるというのはおかしい。前兆すらなく突然であれば別として、自分達はおかしくなっていると自覚しながら過ごしていた時間があった。
(って、言ってもなあ)
ハザマの中で一人になる時間は多くない。相変わらず、休憩時間に煙草を吸おうと離れた場所で丁度いい高さの瓦礫に腰かけた。
思考を巡らせるお供に煙草を取り出そうとコートのポケットに手を入れたその時――
「っ、」
いつもの、無遠慮なイバラシティの記憶の流入。
吉野俊彦の日常は相変わらず平和だ。学年が上がってもそれは特に変わらない。あの、植物園のような出来事はイバラシティでも稀らしい。
いるはずもないプテラノドンを探して屋上に集まるだとか、そんな事で楽しめる人並みの生活。
相変わらずそれは眩しくて綺麗に見えるけれども、もうそこに強い憧れを抱くことはなかった。
「……?」
それよりも、吉野俊彦の中にフェデルタにもぼんやりとしか感知出来ない感情が渦巻いているのを感じる。
それは彼の中でも確証の無い、言い知れぬ不安感、というやつだろうか。
何についてそう思っているのか、気にはなるが今は知りようがない。
思考をめぐらせながら煙草を取り出そうとした手がひっかかって、ポケットからペンが落ちた。
「おっと」
身を屈めてペンを拾い上げてそれをまじまじとみる。グノウが寄越してくれたのは安いボールペン等ではない、上等なものだ。
(そもそも、このペン使ってねえな……)
元はといえば吉野俊彦の記憶を書き記す為のものだったのに、結局その存在に大分踊らされて本来の目的が達成されていない。
今更か、と思いつつもフェデルタは空いた手を背中に回して、何かを引き出すように手を動かす。
手の中に現れた本を開こうとして、ぴたりと手が止まった。
「……」
ぺらぺらと本を捲る。白紙のページが続く。
スズヒコは、自ら本の中に秘密を隠していた事がある。厳密には、本が彼の全てを見せるので意図的にアクセスをしにくく細工をしているのだが。
もしかしたら、自分のこの本に何か隠されてはいないかと思ったのだが、アテは外れたようだった。
「……」
流石に無茶な思い付きだったな、とため息を吐いたところでぬ、と大きな影が現れる。
「なんだ、またお前か」
青い獣がやってくると、その場に腰を降ろす。監視なのか、他に意図があるのか、スズヒコと喧嘩をしてからはよく近くにいる。
「……お前がここにいるのも、スズヒコの意思なんだよな」
スズヒコがいうには自分自身が分裂したようなもの、らしい。意識も感覚も共有出来る、大きなもう一人のスズヒコ。
「……!」
一瞬はっとしたフェデルタはそっと青い獣に手を伸ばした。そっと、その皮膚に触れ、撫でる。
身動ぎも、振り払いもせずその巨体はその場で丸まったままだ。
「……なあ、お前もスズヒコなんだろ? それなら……アンタの本……見せてくれないか、俺に」
そう告げると、青い肌を撫でていた手がず、とその中へと潜り込む。ずぶりとそのまま腕を差し込めば固い感触を見つけた。それを掴んで、一気に引き抜く。
「……っ、で、た」
本と青い背中を交互に見る。見慣れた装丁の大きな本が自分の手の中にある。
きっと、この中に何かがある。フェデルタは、震える手でページを捲った。
そうして幾つか捲った先に、探していたものを見つける。
それは、手記だった。
びっしりと、相変わらずの小難しい言い回しで、今の自分の状態と今後起こり得る――そして今起きている――可能性の話を。
いつもよりすんなりとその文章を理解できたのは、皮肉にもイバラシティで得た知識のお陰だ。
「は、はは、馬鹿だな。アンタは」
震える手で本を一度閉じた。そこにびっしりと書かれていた事をスズヒコから聞いた事は無い。もしかしたら、間接的に伝えてくれていたかもしれないが、それを自分が理解していたとは言い難い。
そして、現状はこの様だ。
「俺なんか信じて、ホントに、馬鹿だ」
体の震えがおさまらない。信頼されていた事への感動と、一歩間違えればそれすら裏切って逃げ出していたかもしれない恐怖がない交ぜになって、乾いた笑いだけが漏れる。
半ば放心状態でそうしていたが、やがて自然と震えが止まった。
「……ありがとな、スズヒコ」
礼を言いながら青い獣に本を押し付けると、溶けるように消えていった。
フェデルタは小さく息を吐くと一度空を見上げて、しばらくそのまま空を見つめる。
しばらくそうしてから、顔を戻すと踵を返して歩き始めていた。
彼が自分を頼りにしていた事は、意外だった。それだけ、自分がスズヒコを理解してなかった事にも繋がるのは、情けない話だけど。
遠目でもわかる、長く延びた髪、ゆっくりとゆれる尾。その背中が何を考えているかは、相変わらずわからないまま。
「スズヒコ」
名前を呼ぶ声は震えなかった。フェデルタは、自分が思っているより自分は落ち着いているという事にそこで気が付いた。
スズヒコが振り返る。その動きがやけにゆっくりと感じられた。
視線が合えば、身震いがした。
「……その、さっきは本当に悪かった。アンタを責めようとかそういうつもりじゃなかった。俺も、余裕がなくて、どうしていいかわからなくて、不安だった」
何を言うべきかなんて考えてなかった。そもそも、自分から何かを話すのは得意ではない。だからこそ、無言を貫くことが多くて、だからこそ上手くいかなくなっていた。
スズヒコは振り返っただけで、特に何かを言い返す様子はない。
ただ、そこに留まっているのは聞く意思があるからだ。フェデルタはそう信じて、言葉を続ける。
「どんな形でもスズヒコは、スズヒコだ。そんな当たり前の事も忘れて、焦ってた。でもきっと、今の状態に一番納得いってないのはアンタだ」
スズヒコの瞳がほんの少しだけ細められた。それが、同意の意味なのか否定の意味なのかはわからない。
けど、わかる必要はない。本当ならこの投げ掛けた言葉にだって、どれ程の意味があるかはわからない。
自分の中の問題は自分自身が解決するしかない。特に、咲良乃スズヒコという男はその傾向が強いと、そう思っている。
『あなたがやることは、自ずと分かるかと思う。』
スズヒコがフェデルタに向けて残した言葉。彼はいつだってそうだ。何をするべきかを明確にしない。
だから、正直何をするべきかなんて分からない。言われなければなにも分からない。自分はそういう者なのだと何度も伝えてきたつもりだ。
けれど、彼が問題に向き合っている時に自分が何をしてきたかはわかっている。
深呼吸を、ひとつ。
「……なら、俺が出来る事なんて無い。だから、待ってる。アンタが納得出来る形になるまで。アンタの側で」
一息に最後の言葉を告げると、スズヒコは瞬きひとつせずに背中を向けてそのまま離れていく。
離れていく背中を見つめながらフェデルタは小さく息を吐いた。
これでよかったのか、なにか意味があったのか。思うところは沢山あるけれど、こうやって吐き出した事で自分の中では覚悟と整理が少しはついた。
彼の中でも、なにかのきっかけになればいいと、願ってしまう。
「……」
彼に気持ちを伝えることに意味があると思っていたけど、この行為も結局は自分が落ち着くためだったのだろうか。
人の事を考えて、人のために何かをする。そのやり方がわからない。
やり終わって落ち着いて、自分の為になっている事に気付いて、溜め息を吐くばかりだ。
「アイツは、出来てるのにな」
動けば動くほど空回りしている気がするけど、立ち止まることだってもう出来ない。
煙草が無性に吸いたくなったけれど、小さく見える背中を確認してぐっと我慢した。
ヒノデコーポレーション。
ここでゾンビが出たとかなんとかで、定時通信の案内人達が喧しくわめいていたのを思い出す。
「……ゾンビねえ」
フェデルタは朽ちた建物を眺めながら溜め息を吐く。丁度進む道にあった建物に、なんらかの手掛かりを求めて立ち寄ったのはごく自然なことだ。
ゾンビが恐ろしいとは思わないし、広義の意味でなら自分も立派な動死体だ。
ただ、出会えば厄介だろうとも思う。
「……なあ、そろそろ」
めぼしいものは見当たらない。大きな建物をくまなく探す程の時間はない。見切りをつけるべきだと声をかけて振り向いた。
「……あん?」
視線の先にいたのは同行者ではなく、ふらふらと歩く広義の同胞の姿だ。
「……チッ」
ここはいつもの開けた場所ではない。無闇に炎を使うには不向きだ。舌打ちひとつすると、コートの内側に手を入れて、銃を掴む。
パァンッ
乾いた音がひとつ。
抜き様に、ゾンビ一体の脳天に向けて銃弾をくれてやる。
もんどりうって倒れる姿を一瞥しながら辺りを確認した。
周辺で湧き出たかの如く、ゾンビの群れが辺りを囲んでいた。
グノウと迦楼羅の姿は自分を囲んでいるゾンビの向こう側にある。
連携が取れそうなのはスズヒコだけか、と視線をさらに動かす。
「……」
スズヒコの姿を見て一度瞬きをした。
どうやら彼も同じ心境らしい。
ふ、と思わず笑いがこぼれた。何がおかしいのかと言われると自分でもわからないが。
ゾンビの唸り声が近付いてくる。フェデルタは笑うのを止めると銃を構えた。