天を仰いでいる姿があった。赤いコートはいつかと変わらず、相変わらず独特のにおいがする。燃えるにおいと、不快なにおいだ。不快なにおいの出元が『タバコ』という嗜好品からするのも知っていた。
追跡するのは簡単なことだった。力の残渣を追う、たったそれだけでよかった。このハザマという空間では、僅かな力であっても増幅される――そう聞いていた説明は正しかった。
人の少ない方向に向かっているのは、恐らく作戦の一つだろう。研究者はそうするからだ。先駆者のいる分野に立ち入っても意味がないことを知っている。その傘の下に入らない限りは。
その男――フェデルタ・アートルムは、パライバトルマリンも知っていた。先生が懇意にしていた人。それが友情なのか、愛情なのか、それとも別のものなのか、パライバにはあまり分からない。けれども、そうである、という事実のほうが重要だった。
そうであるのなら、接触することでアドバンテージが生まれるのだ。ステルス状態で見上げた顔は、あまりにも辛気臭い。
しばらく観察を続けていた。何本か目のタバコに火をつけ、ふと零すように言った言葉に、返事を返さないという選択肢はなかった。これは確実にチャンスだと思ったのだ。自分の主は今、咲良乃スズヒコではない。利用できるものは全てを利用する、大日向深知という女だ。
「……どの面下げりゃいいんだろうな」
「ほんとだよ。まーそのツラしかないと思うんだけど……」
「!!」
独り言に唐突に返事が来たのだから、それは当たり前の反応だった。吐き捨てられたタバコが狭間の大地でぶすぶすと燃え尽き、代わりに声をかけられた男の警戒心に火が点いている。
少しフランクにしすぎたか、とか、それもどうでもいい。分析するに、咲良乃スズヒコの名前を出すだけでどうにかできそうだったからだ。飼われていた実績がある。
「……誰だ」
「やっほー。ぼくだよ。覚えてる?」
ステルスを解く。ついさっきまでフェデルタが寄りかかっていた瓦礫の影から這い出て、“あのとき”とは毛の色が違うことに気づいた。こればかりは飼い主依存なので仕方ない。
「……覚えてる?」
問いかけた。その方が手っ取り早いと判断した。警戒されている気配を感じながら、どう言ったものか思慮する。覚えてる?と問いかけたからには、その外堀を埋めていくほうがいい。
今の飼い主と、かつての飼い主の思考回路は、比較的似通っている。故に、パライバは考えるのが楽だった。同じことをすればいい。覚えていることの大半が通用する。
「あそこだよほら、本の世界!おじさんもいたでしょ?」
「……、あ、」
具体的な名前まで必要かと思ってライブラリーを漁っていたが、それも不要そうだった。であれば、もう少しで納得してもらえるはずだ。思い出すのを待つ。
「……お前、たしか……なんだっけ、パラ、なんとか」
「ウワッ記憶ガバガバじゃん。パライバだよ!パライバトルマリン!」
「ああ、ああ、そうだ、パライバ」
覚えてくれている、ということを確認したら、そのとき名前を出せばいい。そう言っていたのは大日向も、“先生”も一緒だった。
見つめる先の男――フェデルタのことは、よく聞いていたはずだ。けれど、それはもうほとんどが抜け落ちている。持ち主が変わったとき、残っている力を残すか、それともきれいに洗うか、それは新しい持ち主に全てが託される。パライバトルマリンを捕まえたユッカ・ハリカリという男は、力は抜き出すだけ抜き出して、きれいに洗いはしなかった。その方が有用かもしれないから、どうするかは次の持ち主――大日向深知に一任すると。
結果として、存在と、“先生にとって大事な人であること”ということだけ、覚えている。
「……なんでここに――あ、」
忘れているのなら、疑問は当たり前だろう。“ぼく”をきちんと認識している人は、基本的にそのときの飼い主に限られる。そうでなければ、ゆっくりと記憶から欠けていく。人間の記憶は欠けるもの。それに乗じて神の御使いもまた、存在を消す。
忘れることは、必然だ。そして、忘れていたものを呼び起こすこともまた、同様に。この触角は、そういうことに長けていた。
「……色々思い出せた?」
「ああ」
素直に相対する。あとは、面白おかしく話をしてやるだけだった。
「あーよかった! いや、だって、さっきまであんなよぼよぼふらふらで、ぴえんぴえんしてる感じだったからさあ。お話になるのかなって心配したよね、元気になってよかったよかった!」
「おま、え……いつから?」
「えー……ここにきてから二、三時間くらい?」
正確に数えてはいない。そんな機能は備えられていない。けれども、人々の行動でおおよその予測は立っていた。
フェデルタは片手で顔を覆っている。よっぽど先程の状態が堪えた――あるいは、他人に見られることを想定していない。まあ、それもそうだろう。
「……あー、あ、そう……うん、元気……いや、元気ではねえ」
「で、どうしてあんなにぐだってたわけ?」
元気ではない、ということを明かせるくらいには、こちらには“先生”といたという信用があるのだろう。そっと傍らに寄っていく。
「……スズヒコと、ちょっとな」
「……先生と?」
遊んでいる時間は終わりになった。こちらとしても、情報を聞き出さなければならなかった。
逡巡する様子が見られたが、何もせずとも素直に口を開いてくれる。
「……あの人は、ここに来て少し……いや、大分取り乱してる……それを自分で気付いてないのか、認めたくないのかわかんねえけど、全く直そうとしない。俺は、あれがスズヒコだとは認めたくなかったし、だからこそ目を覚まして欲しくて、色々やろうとした。結果として、ろくな事は出来ずに、お互いがバカみたいに傷ついた」
「……ふうん」
分析。それは恐らく、極限環境下の限界。
分析。それは恐らく、譲れないが故の拒絶。
分析。それは恐らく、とっくに考慮されている。
「俺は、そんな自分に嫌気がさして、あとはご覧の通り――結局、俺はこうして生き続けて……自分でケジメをつける以外はねえって、ようやくわかったけどな」
フェデルタはひとしきりいい終えると、横目でパライバを見る。果たして話してよかったのか、と思わなくはないが、吐き出せた事で少しスッキリしたのも事実だ。
パライバの方が何を考えているかは、その態度や表情――そもそも表情が無いのだが――から読み取る事は出来そうもない。
「先生はね、何でも下準備する人。先のことを考えて、用意しなくていいものまで用意する人。それにはもちろん、自分の死に方も含まれてた」
「……」
それは過去の記録。
忌々しくもなければ、後悔もしていない、ただの事実。咲良乃スズヒコが死ぬ直前、助けようとして火の手の中に飛び込んだ時の記録。――そして、拒否され、別の命令を与えられたときの記録。
「だから、ぼくは先生がなんもしてないわけがないって思うんだよね」
「……準備」
「うん。ポケットとかひっくり返してみたら?」
結果的にそれはより良い結果を生んだ。あれがなければこのような事象はまず間違いなく発生していなかっただろうし、奇跡は奇跡を引き寄せる。
だから、あの人はその時考えられうる最善を常に取ろうとしているはずなのだ。
「じゃ、ぼくそろそろ行くね」
「……ちょっと待て」
「……なに?」
目的はあくまでスズヒコ――先生。それはずっと言われていた。近くにいるものはどうにかしてやる必要はない、恐らく関係があって関わろうとしてくるのはお前の知っている一人だけだ、と。それも大日向は分かっていた。
彼女が一体何なのか、ともすれば彼女のことを何か話す必要があるのか――それについては、本人が“好きにしろ”と言い切っている。
生き物の使い方をよく分かっている人間のやることだ。
「もし、もし万が一お前が――いや、お前をここに寄越した何かが、スズヒコに何かしようと思ってんなら――俺がどうするか、わかるよな?」
風が吹き付けてくる。砂塵と共に火の粉が舞い、その向こうから見える瞳は炎の色。ようやくそう思ったのか、それとも始めから燃えていたのか、それは別にどうでもいい。
持っていけと渡された水の力を握りしめ、高らかに宣言した。
「わかるとも。だから敢えて言うね、“そんな状況でボクたちに勝てると思わないことだ”」
ぼくらが対立するかは、大日向でもまだ分からないという。
であれば、ぼくは今課せられていることを粛々とこなし、それに楯突いてくるようであれば、歯向かうしかない。歯向かうと言っても本当に付け焼き刃のことしかできないというのに、無茶を言ってくれるものだ、と思った。
数値計算用のサーバーがひっきりなしに動いている。
バグ技で彼の世界に送り込まれたパライバトルマリンからの情報は、彼がそれなりの安息の地に辿り着かなければ、再び送信されることはない。要するに、今できることは、あまり多くなかった。
「……そういえば、【哀歌の行進】はともかく、残りのふたつ……」
「【望遠水槽の終点】は彼の世界だ。それは割り出した……いや、関係があるからこそそちらにいる。分からないのは【透翅流星飛行】だ」
三つだ。そのうちひとつは【哀歌の行進】。大日向研が総出でかからなくてはならないもの。そのうちのひとつ、【望遠水槽の終点】は我々の敵にはならないだろうと、大日向は言い切った。
「何か関係があるものがいるはずなんですよね」
「そのはずだ。【望遠水槽の終点】については、今はパライバトルマリンを頼りにする以外にない」
ひとつだけ、まるでイレギュラーのように存在している。
どこからやってきたのかわからない、何とも関連が見られない、イレギュラー存在。研究室の人員を漁ってもなお、まだわからないもの。まだ時間は存在していると言っても、嫌なものは嫌だった。無知な時間が存在しているということが嫌なのだ。痕跡のひとつくらいをもぎ取り、そこから追い立てる時間が欲しい。
「……マジで今更なこと聞いてもいいっすか?センセー」
「いいぞ紀野。ボクはまだ比較的気分がいい」
「はーい。そもそも、自分たちが追っかけてる怪異みたいなのってなんなんスか?」
「ほんとに今更なことが出てきましたね」
「まあ一年生ですから……」
眼鏡の鼻当てを中指で押し、大日向は椅子ごと振り向く。純粋な質問は時に突破口になるのを知っていた。
「そう茶化すな。初心に戻るのは良いことだ……簡単に言えば“ヒトではないもの”だ」
「人魚とか夢喰いとか、そういうのっスよね」
「よろしい。授業の成果があるようだな」
神秘研究科怪異対策類、という名前には意味がある。
まず“ヒトではないもの”は全て『神秘』として扱われるのだ。その中で、様々な頂点に立っているヒトを脅かすようなものがあれば、それを『怪異』として取り扱う。神秘の中に怪異は包含され、神秘研究科には純粋に神秘そのものを研究する類も存在している。
「ボクたちの仕事は要するに狩りだ。神秘の力を適切に扱えぬものも対象となり、あらゆるヒトの害を叩きのめし、狩る。必要があれば殺す。まあ……最低限力を削ぐことができれば数十年安泰という例も――」
「――すいません。ちょっと電話に出ます」
西村がスマートフォンを取り出した。着信を受け、そのまま流れるようにスピーカーモードに切り替え、床に固いものが落ちる音。
『……お前は違ったか。【右手の幸運】はどこにいる?』
『お答えしかねます……!』
息を呑む音。それより早く、大日向が人差し指を立てて口に当てていた。