
許せなかった。何もかも許せなかった。自分も、彼も、誰もかも許せなかった。
俺はどうやったって獣以下の何かでしかないのか?それ以下の何かで、それ未満の何かで、ではどうすればいいのか?わからない。わからない。どうして俺は、どうしてあんなことしかできなかったのか、どうして、ここには後悔しかないのか。
例えば心の在処がどこかにあるとして、それはどこになるのか。心の比喩表現として、胸を押さえたり、手を当てたりすることはよくあることだ。
答えは簡単かもしれない。少なくとも胸部にはそんなものはない。ヒトの心の在処を定めるのなら、それは脳だ。思考し、行動指針を定めるのは脳の役目だ。故に心があるとするのなら脳で、心を精神だとするなら、神経系がその一端を担っているということになる。
ヒトの神経は集中神経系であり、そして記憶の集積もまた脳がその役目を担っている。これはあくまでもただの人間の話で、そうではない自分はどうなるのだろう。この頭蓋の中には何が詰まっていて、何があの発言と、動作を齎したのだろう。それについてずっと考えていた。
そもそも俺は本で、本は記述こそあれど思考しない。俺を、俺として思考させているものは、一体何なのだろう。理論上俺に脳はなく、であれば何も言わない獣以下の存在になっているはずだ。けれども、そうではなく、今までもずっとそうではなかった。
俺は何を基準にして、そうではないことを知っているのだろう。俺がヒトだったという確信は、一体どこからやってきているのだろう。
俺はその答えを、きちんと把握している。
俺の表紙を開くと、そこに封筒が貼ってある。その中身が、俺が最後に、まだヒトとして定義されていたころに、印刷されたものだ。俺はそれを識っているのに、それを開ける勇気がないままでいる。なのに、ずっと確信だけは抱いている。不思議なものだと思う。俺の記録は確かにそのように告げてくる。けれど、俺の記憶はそれを拒絶しようとしている。
どうして拒絶しようとしているのかすら分からない。それが罪を重ねた末路だというのなら、甘んじて受け入れる。けれども、分からないのだ。そして、理解するためには己を開かなければならないことすら分かっていて、なお恐れていた。
何を恐れているのだろう。今更恐れるようなことなんて、どこにもありやしないはずなのに。それとも、俺が俺でなくなるということを恐れでもしているのだろうか。俺は、絶対的に、外部記述によって定められている。
だから今まで戦えてきて、だから今まで引き下がることもなく、だから今まで、後ろを振り向かなかった。
――後ろを振り向くことが怖い。
それに気づいてしまったとき、俺はすべてが終わるかと思った。後ろに俺の歩いてきた道は残っているのだろうか。意味は存在しているのだろうか。冷や汗ばかりが顔を伝った。必要のない機能だけ残しやがって、と思った。きっと体温が存在していたら、それどころではなくなっていた。俺に最後まで与えられることがなかったのは熱で、だからこそ冷静でいられるものだと思っていた。そんなことはない、そんなわけはない。今俺を焦らせているのは、もっともっと別のなにかだ。
回顧。追憶。追想。回想。自分の“ひとではない”部分に手を伸ばそうとするたび、手が止まる。そんなことではいけないと分かっていても。
俺はヒトだったもので、今はヒトではない。ヒトを模倣しているだけの怪物で、だからこそヒトのような挙動をするのかもしれない。だから俺の心らしきものは脳に存在していて、恐れる。後悔する。許せなくなる。そうであれば納得はできたし、それが正しいという直感もまたあった。一度足を止めて、顧みなければならないときが来ている。
けれど、後ろを振り向く前にやらなければいけないことがあった。きっと先にそれを済ませてしまわないと、先延ばしにしてしまうと、自分で嫌というほど知っていた。
グノウ・スワロルドという男は、一言で言えばスキのない男だった。ただの従者?そんなわけがない。ただの主従?そんなわけもない。
ただ幸いにして、あの男が主と仰ぐ者がいることだけは、よかったと思う。理由は簡単だ。主の方を人質に取ってしまえば御しやすい。それだけのことだ。
――あくまでそれは最終手段として置いておくとして、グノウ・スワロルドという男には、不可解な点がいくつかあった。ひとつ、イバラシティの土着の人間ではなさそうだと言うこと。それはもうどこででも有り得る話で、別段不可解でもなくなりつつあった。ひとつ。“嗅ぎ慣れたにおいがする”こと。どこで嗅いだものだったろう。けれどそれは、間違いなく同じ世界のにおいで、そしてここではなかった。記録を辿る必要があるだろうか。――できれば開きたくない。
それ以上に、そのにおいは、“腐っている”。良くもならなければあとは悪くなる一方で、どうやっても破滅が待っている。むしろ今まで、どうして開いた傷口で生きていくことができていたのか。そればかりが気になっている。閉じない傷口に起こることがどんなことかくらい、医学を専門にしていなくても知っていた。ずっと負担になり続ける。死んだ細胞が腐り、新たな腐敗を生む。この表記は厳密ではないかもしれないが、とにかく死んだ細胞が溶け出てくることは経験しているはずだ。そんなにおいがした。
「……グノウさん。少しばかりいいですか?」
薄ら笑い。取り繕った笑み。表面だけの付き合い。それらには慣れていた。生前から染み付いていた。どこまで行っても切り離せないということに辟易していたが、使えるものは使うしかなかった。
この男に向かって使うたび、気が気でない。ずっと取り繕っていられるわけでもない。それはきっと、この男のほうが上手だ。
「……何でしょうか」
「端的に言えば、謝罪です」
一日とちょっとだ。それだけで、信用できるような関係にはなりえない。それは確信していた。彼以前に、自分がそうだったからだ。だからこそ、今できることをする。――形ばかりの謝罪。そして開示。それが最善だと、今は言うしかなかった。ベースキャンプに戻らなければ自分たちで何もかもを賄うしかない旅路を、わざわざ人の少ない方に向かって歩いている。
「こちらの都合で……、二人きりにしてしまい、申し訳ない」
「……」
思っていたよりずっと、大人数で歩いている“相手”は少ないらしい。しばらくどころか、一度だけ当てられて、それっきりが続いている。
自分たちが“喧嘩”をしている間に、彼らは目をつけられて、そして襲われた。知っていた襲うものと違って、彼らは何も奪っていかなかったらしい。それはそれでという気持ち。何もなければよかったのではないかという気持ち。それに対抗するように沸いてくる申し訳なさは、どこから来るのか。
「今後、このようなことがないようにお願いします」
冷ややかな視線が浴びせられている。前髪越しでもよく分かった。あれはこちらを信用していない目だ。子供の方から攻めようとして、かなり無理を感じているくらいには――思っている。この二人は純然たるヒトで、その片方を何かが蝕んでいる。
覚えがあるような、ないような、そんな力だった。それはどうしてか、この人間に深く穴を開けている。――血の臭い。嗅ぎつければ盛ろうとするだろう獣は置いてきた。
「……謝罪だけだと、納得いただけないでしょうから。……俺たちのことを、話します。何も包み隠すことなく、今言えるかぎりを」
懐に手を入れる。固い背表紙に指先が当たるまで一秒、それを引きずり出すのにもう数秒。
とても懐から出てくると思えない大きい本に、グノウの眉根がかすかに動く。
「……これは?」
「俺の“本体”です」
手袋を外したのが見える。抵抗する理由は今のところない。
失態の埋め合わせは実利である必要がある。何も生み出せないものに、居場所はない。なかった。だからこうして見せている。
「心臓のようなものですか?あるいは、もっと別の?」
「心臓……とは言い難いですが、限りなく近いものではあります。外付けの脳、それがもっとも正確かもしれません」
触れた手から、邪悪を感じた。邪悪としか呼びようのない何かがいる。思わず視線を向けた。――腹部。人間の柔らかな部分。臓腑を包んでいる部分。
触れられる感触があった。力で干渉される感覚があった。それも一瞬だった。それもそうだ、この本は……、……この本は、何?
疑問は遙か後に置いていかれる。
「俺たちは死人です。広義のアンデッドで、まかり間違えて死を超越してしまった」
「アンデッド……生の理から、外れたのですね」
「理どころではなく。円環から外れてしまった……命は巡るもの。そこで足を止め続けてしまったどころか――」
もう何人殺したか覚えていません、という。事実だ。
罪人の世界なのだからそれくらい許されると思っていた、という。事実だ。
それは本当だったのだろうか。いたずらに罪を重ね、己を縛り付けている要因を作っていただけなのではないか?
「けど、それを終わらせる。……それが、俺の行動理念で、それはあなたたちの行動理念とぶつかることはないはずです」
そう。終わらせるために来た。終わらせるためにやってきた。
終わらせるために。終わらせるためだけに旅をしている。それは何に対してだろうか。思い出せない。何か大切なことを思い出せない。
「俺たちは、何としてでもあのアンジニティという世界を出なければならない。」
「……死人がアンジニティにいることは何の不思議でもなかった。今更疑うことでもないのでは」
「……俺たちは、何としてでも、アンジニティ以外で死ななければならない。」
死ななければならない。それがきっと大切なことだった。
それは正しいと、何も参照しなくても確信が持てた。だからきっと、もっとも大事な部分に刻まれている。自分が自分足り得る部分に深く刻み込んである。
……他人と話しているときは冷静だ。ではどうして、彼にあんなに牙を剥いたのだろう。分からなかった。
「……あなたたちは、何故旅をしていますか?」
ただ、虚空へ向かって指を向けただけに見えただろう。
けれどその先は、腐敗の臭いの元に向いている。指先の示す場所に視線が落ちる。
「俺たちは、終わらせるために旅をしています」
「……事情は分かりました、協力はします」
それは弱点だったのかもしれないし、懸念事項だったのかもしれない。
どちらでもよかった。次の言葉を聞くまでは。
「出来うる限り手を貸しましょう。その代わり貴方たちの手も借ります」
手を貸す、であれば、それは、あまりにも簡単なことだった。続いた言葉は、そうではなかった。
「もし、――」
貼り付けていた微笑みが崩れるような、重く、重く――要石を握らされるような。
けれど、今まで背負ってきたものの数に比べれば、あまりにも軽かったはずなのに、何故だろう。まじまじと見て、ひとつだけ頷いた。
責任を背負うことには慣れていた。責任を背負うのなら他人がいい。責任を放棄するのなら、バケモノの方がもっといい。食い殺してしまえばいいだけだ。
躊躇いはどこからやってくるのだろう。