大日向研のすぐ向かいの学生室で、クレールたちはパライバ――いや、ライバ・カイネウスに対して、様々な指導を行っていた。人間としての振る舞い方に始まり、大学生として違和感のない状態にするための知識、――そしてかの世界の狭間における戦闘用の技能。
それら全てを、ライバはなんてことのないように飲み込む。容れ物に好きなものを注げ、と言われた時、それが得体のしれないものに変質しないか、それを真っ先に心配するだろう。けれど、パライバトルマリンにはそれがない。いつの間にか区切りが設置されていて、そしてなみなみと、それ以上に注いでいるはずなのに、底が知れない。
「……ほんと飲み込み早いな……ドン引きするほど早い」
「そう?ありがとう」
「別に。仕事だ」
ライバ・カイネウスを大学三年次相当に持ち上げるまで、一ヶ月も掛からなかった。
スポンジのように知識を吸い込み、それを決して溢れさせることがない。過剰にも思える知識を全て受け入れ、当然のように行使している。ごく短い間につくられた大学生だとは、誰も思いはしないだろう。
「ぼくは使われる生き物だから。使ってもらえるのなら、それに越したことはない」
「……それが、得体のしれない場所へ向かわされることでも?」
使われる生き物。ライバは常に自分のことをそう呼称していた。
それは、クレールたちの中でも共有されている理念だった。物以上として扱うな。それは高級な実験器具以外の何物でもない。必然的にその思考が根付いていない紀野が様々な担当から外され、同様に優しすぎるきらいのある二ノ平も外された。
最も“割り切れている”クレール、異能で“割り切ることのできる”西村、そもそもあまり他人に興味を持たない宮城野の三人で回しているが、学内での振る舞いを担当していた宮城野の出る幕はもうほぼなくなった。
戦い方を教えるクレールと、誤魔化し方を教える西村だけがいればいい。そして、一度教えたことを教え直す必要はなく、一度撃たせれば習熟度合いは判別できた。
これほどまでに無駄のない生き物がいる、という事実に、静かに目を背けたくなる。人間には無駄が多すぎると思い始めると、キリがないのは事実だ。
「抵抗はないな。だって、ぼくはそもそも、生み出されなければ生まれることもなかった。そういう点では、実験動物と変わりないと思うんだけど……」
「あー、モデル生物の変異体とかか。あれはまあ……知りたいが故のエゴ、みたいなところあるからな。動物愛護法もめんどくせえし」
傲慢で、貪欲な生き物だ。知りたいものに手を伸ばし、そのためなら他種の犠牲は厭わない。生存、快適さ、あるいは病気の駆逐のために、数多の哺乳類を犠牲にし、“そのためなら生命の枠組みすら組み替える”。繰り返すが、人間は傲慢な生き物だ。彼らが痛みを、苦痛を感じるのならそれを尊べ――それすらも、人のエゴ。少なくともクレールはそう思っているし、恐らく大日向も同じことを言うだろう。
「そうだね。ぼくは……もうちょっと尊ばれていた、というのも変だけど。それは材料が貴重だからだと思う」
「自己分析が出来ているやつを相手にするときほど楽なことはない」
大日向が持ち帰ってきたかの世界の記録は、ごく狭い範囲でとどまっている。
“彼ら”は、もっと先に進んでいるはずだ。その先にこの生き物を解き放つためには、もう少し鍛えてやる必要があると思っていた。
「お前は戦うのか?」
「えー……やだな。ぼくはそういうの向いてない」
「だろうな。あの店で店主から何か教わらなかったのか」
「軽い迷彩くらい……?」
「……チッ。これだから絶対中立主義は……」
異能登録データベースから、自分たち、あるいは創峰――紫筑大学の学生の中で、比較的汎用性が高く、逃げの一手・あるいはいざという時の防御として使えそうな異能を検索する。
データダウンロードに時間がかかることさえ除けば、それが最前の択だった。教えることはではなくても、パライバトルマリンはデータから使い方を構築し、その通りに使用する。
「もっとなにか教えてくれるのかい」
「当たり前だ。大日向の観測結果が確かなら、狭間は厳しい場所だ。戦闘を避ける手段は多いほうがいい」
キャスターつきの椅子に座って、転がって移動することを教えたのは大日向だ。
そういうどうでもいいことは切り捨てるべきでは、と上申したが、どうでもいいことが人間らしさを生む、の一言で全てが終わった。彼はこれからかの世界に送り込まれるだけではなく、一般大学生として生活をすることになる。
そういう無駄を教えるのは、紀野や宮城野の担当になるんだろう。大日向たちの理念さえ教え込めば、それはその理念のとおりに動き、余計なものを排除する。必要な時にだけものを取り出して利用する。そのようにできていることを、悲しむ人は今の段階に向いていない。
「優しいんだね」
「勘違いするな。俺たちにとってお前は、作戦遂行の駒に過ぎない。それも高い買い物をしているんだから、大切にして当然だ。……それ以上でも以下でもない、俺にとっては」
「うん。それはそれで正しいと思う」
何故だろう。割り切っているはずなのに、この生き物と話すとイライラした。
それがどこに起因するものかどうかは、きちんと調べてみないとわからないだろう。その機会も、資源も、技術も、場所も、この世界にはない。
だから今は、割り切るしかない。
「他がどう思っているかは知らん。俺がそう思っているだけだ」
「……そう。君、結構ツンデレだよね」
「奇遇だな。俺はどうしてお前の相手をしているとイライラするのか知りたかったところだ」
次はこれだ、と差し出したプリントが受け取られ、クレールは瞑目した。
そのうち、もう大丈夫、とプリントが突き返されてくるのだ。それはこういう生き物だと学習した。
なのに何故。
(こいつはこんなにムカつくんだ)
それを表に出すことはない。
ライバ・カイネウスには不要な情報だった。
付与されたナンバーはbc121。
それを受け取った順番――男の声を聞いた順番は、時に重要な意味を持つ。今回121番目に声を聞いた人はもう別にいるはずで、それを利用する。そして、未だに後からこの世界に訪れる人は存在する。
早い話が後付けのバグにしてチート行為だ。狭間への門戸は決して広いとは言えず、故にうまく、“誤魔化して声を聞く必要があった”。
『空き番号を探そうとも思ったが、どうにも面倒でな』
「いいよ。面倒でない方で」
『断じてお前のためではない。ボクたちのリスクを減らすためだ』
パライバトルマリンに課された任務は二つ。
ひとつ、怪異『鈴のなる夢』と接触すること。
ひとつ、怪異『鈴のなる夢』と交渉を行うこと。
“前の持ち主”のものが少しばかり残っていて、舌戦についてはあまり鍛える必要がなかった。それが残っているということは、パライバトルマリンは道に迷わないということも意味した。
そして、この過程を行う中で、接触するひとは最低限にすること。それもまた、可能ならと示された条件だった。
要するに、バグ技で立ち入っているのだから、極力姿を現すな、ひとりでやれ、ということだ。いくら素にされた生き物が世界の因果を無視するものだったとしても、全てがパライバトルマリンに残っているかは分からない。残っていたらそもそも捕まることもなかったはずだし、ないと思っておいたほうがいい。
『因果干渉は基本的に紫筑では禁忌だ。――創峰では知らんがな』
「なんだかあれだよな。口プロレスっていうか、重箱の隅をつつくっていうかだ」
『教授なんてそんなものよ。ましてや学生相手にはな』
声だけでも分かる。大日向というひとは、この世界を楽しみ尽くす気満々で、そのためなら手段を選ばない。
中立主義を謳う男よりずっと楽しいのは事実だったが、底が知れない人間の相手が疲れることに変わりはなかった。それでも待遇はずっといい。捕まえるだけ捕まえて、軟禁状態にしていたあの男よりは。
『データを送る。これが吉野暁海から計測した最後だ。結論から言うと、全くよくはない』
「……奇遇だね。受け取る前からそんな気がしてたよ」
与えられた異能は、記憶の送信と変化、そして高速起動。
そんなにもらっていいのか、と思うほど受け取った。逆に言えば、それだけ過酷な場所なのかもしれない。それ以上に、感情を感じ取る、元から備わっている器官が激しく動く。
怒り。悲しみ。無力感。怒り。罪悪感。怒り。怒り。拒絶。強い拒絶。凍てつくような拒絶。触れるもの皆凍らせるような拒絶。絶望。怒り。二人分の行き場のない感情の嵐。
(……そうだね、これを最悪と呼ばずして何と呼ぶんだろう)
理解不能。あるいは何らかの事案。本の世界での再会ですら奇跡だったのに、一体何があったのだろう。
『基本的にベースキャンプでしか様々なことは行えん。今何か感じているならフィードバックをしろ』
「オーケー。あなたの言う通り、全くよくないね」
あの人は、こんなに荒れ狂うような人だったろうか?
それとも、この狭間では異能が強化されるから、その影響だろうか?
――少なくとも後者は違う。違うことが分かってしまう。あの先生は、元の世界、生きていた時ですら、ほとんど力を持たなかった。死んでからだって、本の装丁でようやく力を得るような、そういう――ただの、人だった。
『受領した。……タイミングがよかったようだな、人に紛れてタクシーに乗れ。同じものには乗るなよ、さすがに感づかれん自信はない』
「ぼくもそれはさすがにないな……うん、分かってるとも。次戻ってくるまでに、その“感情”を解析してほしい。」
『ふむ。いいだろう……感情の解析か。興味深い』
「そこに、異能が絡んでいるかどうかが知りたいんだ。別に急ぎのことじゃないから、結果は戻ってきたときでいいよ」
この場所特有のことであることを祈りたかった。けれど、答えはずっと後にならないと出ない。はじめから分かっていて、それでもそれを頼む。人間のすることによく似ていた。
答えは恐らく、会ったそのときにもう分かる。今意図的にベースキャンプで身を隠していて、――タイミングが良くて。運も良くて。今からでも話しに行ける。それをしない理由は、ただひとつだった。
『なるほどな。お前は何らかの変化を受け取っているということか』
「……うん」
人間は変質する。それが死後にまで及ぶかどうかは分からない。基本的に人間にとって、死後の領域は専門ではない。形骸的な宗教、祈り、それらが死者と生者をゆるく繋ぐのみだ。
真にパライバトルマリンが神の御使いであったなら、それをよく知っていたはずだった。けれども、自分は死にかけた御使いを細切れにした上で、魔改造を施された、それ以下のものに過ぎない。
だから分からなかった。だから問いかけてみるしかなかった。
『ではそろそろ切る。ボクはそもそも狭間など知らないからな』
「了解。ミッションスタートします」
素知らぬ顔で、次元タクシーとやらに相乗りをする。良さげな集団が来るのを身を隠して待つ間、せわしなく動いていた触角が垂れた。
(……先生、何に怒っているの?)