俺たちはきっといつか、やんごとなき理由でぶつかり合うだろう。そう思っている。
俺の些細なことを気に留める性格が、あなたのことを許さない。それを知っているからだ。こうして理性があるうちは、いくらでも解決しようがある。けれど、きっといつか――
俺たちは、対話以外の方法で、物事を解決しようとする。
これは予言とかそういったものではなく、ただの自己分析だ。
俺は何も言わないし、彼もまた何も言わない。俺たちはいつだって、危ない綱渡りを続けている。
どうして俺たちが何も言わないか、それは単純なことで、『言って割を食いすぎた』か、『言っても無駄だと思っている』からだ。組み合わせで言えば最悪だ。
俺はできることなら本当に何も言いたくないし、そのためなら何でもしようと思っている。そう、例えば、こうやって記すとか。
俺たちはお互いに人間が下手くそで、それは人間でなくなっても何も変わりはしなかった。本質として根付いているものが、何度死んでも己の肉体を苛むのはよく分かった。癖は治らない。ましてや死後矯正しようというのなら、だ。
俺はあなたが思っているよりずっと弱い人間で、それを隠そうとする人間で、それは――いつか考えうる最悪の事象を引き起こすはずだ。俺は追い詰められれば追い詰められるほど、周りを見ようとしなくなる。そうやって死んでいった。そうやって全てを灰燼に帰し、どのような因果か、ろくに顔を見せたことのない娘に呼び戻されてしまった。
下の娘は、ある意味で俺によく似ていた。お世辞などを被せるまでもなく、彼女は俺にそっくりだった。いつ死んでもいいように心を閉ざして、そして危険な場所に出向く。望んで狩人になったわけではないだろうけれど、そこに至るまでのことは俺によく似ていた。
彼女は運が良かった。そして俺はどちらかと言えば運が悪かった。僅かな偶然が本の世界へと彼女を導き、そして俺を呼んでしまった。俺は本の中で少しずつ“人間”としての姿を取り戻していった。物語にそう願われていたからだ。けれども、ある別離に耐えかねた彼女の弱みに付け込むような異教の本の呪いを、少しずつ人としての感覚を取り戻していた俺が、一手に引き受ける覚悟をした。そこで“人間”としての俺は完全に終了し、冷たい手だけが残った。
冷たい手のまま、かつての家族に背中を押され、俺は旅をする決意をした。探究心を認めてくれる家族は、とうの昔にバラバラになっていた。後ろめたさや名残惜しさがない、と言えば嘘になる。だが、彼女らは自分の背中を押してくれた。妻はとうに死んでいて、娘たちはとうに大人になっていた。俺の後ろめたさは全て家族を崩してしまったというところにあったが。彼女たちは口を揃えて『仕方ない』と言った。
だから俺は、異形と炎を抱えて、飛び回る旅人になった。根無し草もいいところだった。
ヒトはみな、防衛機制という精神を守る機序を持っている。それは、ヒトであった俺にも等しく適用され、俺はひたすら合理化と抑圧を振りかざして生き延びてきた。
要するに、俺は悪くない。要するに、全てを忘れようとする。
この二つを駆使するのが最も自分の中では楽で、誰もが愛他主義や受容行動を取れるわけではない。口は閉じていたほうが楽で、他人のせいにする方が楽なのだ。他にもその方がいいと思えば知性化も、解離もした。どうやっても成熟した防衛までには至れなかった。
所詮この程度の人間である、人間であった、と言ってしまえば、それで全てがおしまいだ。しかし、そういう人間である、という記述には、いつか意味が生じると考える。それが俺の最も恐れている、俺たちが対話以外でぶつかりあったとき、――その後に、役に立つはずなのだ。
なら初めから話し合っておけばいいのではないか、と思うだろう。
人間は忘れるようにできていて、俺にすべてが記載されていたとしても、記憶としては簡単に消え失せてしまう。ヒトの身では、あらゆる情報をその身に刻むことが難しい。ヒトの記憶領域は有限で、故に記録媒体が存在する。ヒトの身の中にすらだ。
DNAの使用されない領域に情報を入れ込もうという試みは、常に誤翻訳との戦いだ。故にまだ実用化には至らず、そしてこれからも恐らくはそうだろう。己は偶然にも外付けの力として記録する領域を得た、ただのヒトなのだ。
だから俺は忘れる。だから俺は覚えきれない。だけど俺には消えない記録媒体が外付けで存在し、それが人間と確かに袂を分かつ。
それを利用しない、という選択肢は、俺の中にはないのだ。
不出来だから手を伸ばすのではない。不出来だからこそ利用するのだ。それは、棚の上の物を取るために、踏み台を利用するくらい、自然なことだ。
それを思い出すのにだって、きっと時間がかかる。俺たちはそれくらい疲弊している。これを見て、何だそんなことだったのか、と呆気にとられるくらいには、きっと。
吉野暁海は、確かに火を見ていた。
その言葉も、その見たものも、全て己が知っていた。吉野暁海には参照する場所がない。恵まれた家庭で育ち、何の心配もすることなく進学し、守るべきものも背負わないま学んでいる。
それが確かに火の記憶を持って帰ってきて、咲良乃スズヒコは狼狽していた。
あの獣のような何かは、何をした?参照されないはずのものを映し出し、そして確かに干渉した。あの火の記憶は、吉野暁海のものではない。吉野暁海なんて人間はいないのだ。あれは間違いなく咲良乃スズヒコ、すなわち自分自身の記憶から参照され、そして引き出され、心的外傷として利用された。自分がそう思っている、自覚しているのだと言うことをたいへん忌々しく思った。いつまで経っても炎から逃れることが出来ない。
集団行動に支障のない範囲で、少し離れて歩くようになった。自分の能力があれば、多少離れたところであっても目も鼻も耳も利き、そこで何があったかくらいは察することが出来た。その方がほんの少しだけ気楽だった。獣は自分のところに寄ってくることもなく、時折思い出したように、視界を共有する。予定通りの歩みができていれば、それで全てが終わる。何を作って欲しいという話も、共有された聴覚で一瞬で伝わってくる。離れていても、というのが重要で、自分が時折木陰で蹲っても、引きずるほどの長い髪を結っている紐を解いて編み直しを始めても、それは彼らには伝わらない。あれは結局俺の一部だから、俺が伝えたくないものは伝えないのだ。
主従関係というには、歪で異質な関係だった。そもそも自分は、あのような獣を引き連れることはなく、あれは己の変身した姿だったはずだ。アンジニティに落ちて否定されてから、青かった手は少しずつ黒く染まった。さながら灰のようだった。もともとそれらしい爪なんて生えていなかったはずの前脚にそれが揃い、ラプトル系の前傾姿勢だった肉体は、前脚が発達するとともに四足歩行を主とするようになった。荒れ果てた地を踏み、そして荒れ果てた地に存在する生物を、罪人を、切り裂き、喰らい続けた。始めは確かに生き延びるためのことだったのをよく覚えていて、どんなに理屈をつけても、こんなことはしたくはない、こんなことをして生き延びるくらいなら、――そう思っていたはずだった。
人は慣れる。思っている以上に、ずっと早く。
“罪人”の首を刎ね、臓腑を喰らい、肉を裂いて骨を齧る。獣と何も変わらないようなことを始めるまで、そう時間は掛からなかった。そう記憶している。
『アンジニティの方々は暫くの間イバラシティの『仮の住人』となり、一時的に記憶・姿が『イバラシティに適応したもの』に置換されます。ひとまず与えられた記憶・姿に従ってイバラシティの住人として楽しんでください。』
何を勝手なことを言うのだろう、と初めは思っていた。
否定。侵略。全てが烏滸がましく、否定をしておいて利用しようというのか、と強く思った。何より一緒にされたくなかった。罪人たちが群れを成してどこかに向かっていく?
考えるだけで反吐が出る。ここには悪しかいないのだ。どうあれ結果に破滅しかない。それだけは嫌だった。それだけは絶対に嫌だった。自分を罪人どもと一緒にしないでほしかった。望みはただひとつで、そのためなら何でもしよう。何でもしなければならない。この爪もこの牙もこの体躯も、全てを賭けて、否定を否定しなければならない。
『イバラシティのために、ブチのめしちゃってください。』
気づいたら、そこは響奏の世界の陣営で、気づいたら、いつも通りにそこにフェデルタもいたのだ。否定を否定するためには、この機会を利用し尽くしてやるしかなかった。
全て。全てを。共に歩くひとも。手を組む人も。何もかもを。
こんなふざけた世界のためになんて、何一つしてやるものかと思う。
こんな世界に向かって奉仕をする必要があるなら、今すぐここで喉を掻き切って死ぬ。――死ぬことがなくても。
これは世界のためじゃない。自分のためだ。自分のため、前に進み続けなければならないのだ。わずか一時間、分にして六十分、秒にして三千六百秒で区切られ続け、そのたび押し潰すような幸せな記憶を押し付け、素知らぬ顔で幸せを享受する吉野暁海を殺すため、前に進まなければならないと、ここまでずっと思っていた。
火の記憶が参照されるまで、確かに。
自分は一体何のためにここまでの時間を過ごしてきたんだ?
従者と表面だけの付き合いを済ませ、その主人を料理で懐柔しようとし、――ずっと隣を歩いていたはずの、彼に。何もしていない。そこにいるのが当たり前だと思って。
全身が総毛立つような感覚があって、けれどすぐに消えていった。いつもそうだ。心配は必要ない。するだけ無駄だ。何故なら彼は“何も言わない”。
そして自分は“何も言いたくない”。失敗したくない。致命的な破滅への引き金を引きたくない。それはできれば他人のせいであってほしい。であれば、他人のせいにできるから。
――ああ、誰も味方だと思っていやしないのだ。全てがそこに収束し、血に濡れた手だけが語る。今の自分の味方であってほしくない。躊躇いなく喰い、殺し、引き裂く単なる獣の姿を、咲良乃スズヒコであると認めてほしくない。だから、だから、距離を置いて、突き放して、表面だけをなぞって。
そのままでいさせてほしかったのに。
「俺の言ってる事がお前にとって的外れならそれでいいよ。だけどよ、お前は何か考えたか?」
やめてほしい。その先の言葉を言うのはやめてほしかった。あなたはこれから俺の地雷を間違いなく踏むということすら言えない、ただ愚かに凍りついただけの怪物だ。
「――お得意の頭脳とやらはどうしたんだよ」
お前は知らない。頭脳の戦いを知らない。どれだけ俺がそれで苦しんだかも、知らない。
都合のいいところだけを拾う聴覚。解釈、そして防衛機制。それ以上続けるな、という衝動が、行動になってそのまま現れる。
知らない。知らない。知らないはずだ。知らないはずなのに、どうしてそんなことを言われなければならないのか。リジェクトされるたびの囁き声、査読にすら回してもらえない存在意義の欠如、――生前の怒りが燃え上がって貫通する。
「ねえ」
止められはしなかった。止めようともしなかった。