報せはいつだって突然で、そして予想外なものである。そうとは知っていても、大日向は足を進めざるを得なかった。
植物園の入場無料の報も確かに届いていたし、無料なら行ってみてもいいかな、と言っていた声はもまた、確かに聞いた。監督不行き届きと言えばそうだが、大学生に対してそこまでの責任を負う義務はない。早い話が自己責任だが、同時に好機も意味した。
未だ解明されていない、吉野暁海の異能に対して。未だわからないままでいるそれに傷をつけ、抉りこみ、引きずり出すための手段だ。
この“切り札”の存在は、大日向と、学生たちを取りまとめる長であるクレールしか知らない。
後手にドアを閉め、興奮を押さえきれない声で言った。
「パライバトルマリン!」
それは電気石。
それは切り札。
それは等価交換で手に入れた最終兵器。
「お呼ばれトルマリン!ようやくぼくの出番?だいぶ寝てるの飽きちゃったぜ」
道具店の店主が示してきた対価は“情報”で、それは大日向深知にとっては特に恐れるようなものではなかった。己の知見が対価になるというのなら、取りまとめて出してやってもいい。
それ――パライバトルマリンと呼ばれた生き物――は大日向たちの理解を超える存在で、そしてあまりにも強固に、“吉野暁海”とのコネクトがある。正確に言えば、吉野暁海の向こう側の存在にコネクトがある。
竜と呼ぶにはあまりに頼りなく、蛇と呼ぶには余計なものが付きすぎている。本来手がある場所からは毒々しい色の触手が生え、その足は未発達の胎児のような様態を留めている。その身体の一部ををユウレイボヤに似た被嚢が覆っており、――まあつまり、とにかく大日向たちの世界の範疇では到底ありえない生き物。それがこれだった。
「何、これでも想定よりは大分早い」
「マジ?じゃあぼくもちょっとはこの街満喫しようかな」
「一向に構わん。貴様に我々が求めていることはただひとつだ」
不格好な手足(と呼んでいいのかもわからない)が、寄り集まり、あるいは伸び、ゆっくりと人の形を取っていく。この世界に適応しつつあるのだ。
一メートルほどしかなかった生き物が、自分より背の高い青年になったのを見た大日向は、吐き捨てるように言った。
「なぜボクよりデカいんだ?頭が高いぞ」
「ハリカリさんにチクりますよ」
「この程度、チクられたところでなんとも思わん。何ならボクがこういうやつだと言うのは、アイツのほうがよく知っている」
薄い色の虹彩。
サングラスがいるな、と思いながら、キーボードを叩き指示を打つ。
「……で、ぼくは何をすれば?」
「来るときが来れば分かる……と言って放り出されるのも癪だろう。貴様には“先生”を探してもらう」
「……先生」
事前に手に入れていた情報から読み取れることがいくつかある。
この生き物は、かつて【鈴のなる夢】に飼われていたこと。この生き物そのものが越界能力を持ち、故に罠にはかかりやすいこと。戦闘能力はあの絶対中立主義者が素手で捕まえられる程度で、要はほぼないに等しいこと。触手には毒があるが、素手で捕まえられる時点で役に立っているかはまるで分からないこと。――そしてあの絶対中立主義者の店主を以てなお、『出自は謎』と言い切らせる生き物だということ。
「もう分かるな。お前の言う先生が誰か、というのは」
「……うん、分かる。分かるよ。けど、先生はもうあれで最後だと言った……と、思ってた」
鮮やかな髪の色を見、少しばかり染髪を勧めるか迷ったが、やめた。
この世界では、髪の色などほぼ無意味な記号である。もちろん個人特定にプラスに働く場合はあろうが、前情報の通りであれば、パライバトルマリンは変化し続ける。
「パライバトルマリン。ボクはお前を運用するに当たって、黎明の世界樹エーオシャフトの情報を可能な限り聞き出せ、と言われている。それはお前が解放されるのと同条件なはずだ」
普段自力で戦うことがほとんどない“あの”絶対中立主義者が素手で捕まえられるほど、この生き物はか弱い。しかしこうして生き延びているのだから、これは間違いなく“本物”だ。
とある世界で、世界全ての軸となる大いなる世界樹。一葉一葉が世界であり、その性質から、別の世界に“滑り落ちる”人間の多い世界。その滑り落ちたものに手を差し伸べたり差し伸べなかったりする神の御使い、あるいは天使。ありとあらゆる世界の因果に強力に働きかけ、どれだけ木っ端微塵になろうと、与えられた任務を遂行する御使い、その紛い物のような生き物が、今目の前にいる、何とも形容できない生き物だ。
「……なんだよ、ちゃっかりしてんなあの道具屋……」
「あいにくボクも“無知ではいられない”性質でな」
「先生みたいなタイプを期待したけど、そうじゃなさそうで残念だ」
伏せた虹彩の色が、見る間に青く変わっていく。
パライバは容れ物だ。ありとあらゆる力を注がれ、それを蓄積し、時には変化させて放出する。何を目的として彼が産み出されたのかまでは、過去に遡ることを嫌う絶対中立主義者の知るところではなかった。けれどおおよそ、軍事利用か破壊行為のためだろう。それくらいの想像はできた。あらゆることが、ヒトに対して都合が良すぎるのだ。
飼い主と認められた者の言葉には決して逆らえない。過剰な力を加えると爆発にも似た強烈な破壊現象を引き起こす。多くの種類の毒素を生産する部位があり、それは基本的に触手に蓄積される。手も脚も不自由だが、浮遊して移動ができる。
こんな都合のいい生き物は、よほどでなければ作られない。自然界の生物は生きるための本能があり、それに従って動くことができるが、パライバにはそれがない。故に、今は捕まえた男を主として行動する。それを自由に動かす権利を買い取ったのが、大日向だ。
「先生とやら、研究者に向いていなかったんじゃないか?ボクらは知識に貪欲だ。無知は機会だ。そしてあいつも、お前のことを知りたがっている。実にWin-Winな関係だろうよ」
「そこにぼくが全然入ってないじゃんかよ」
「なに、お前ももう分かっているだろう。人型で過ごすお前というだけで、そこに価値が生まれる」
指を細かに動かしている手に向かって、一枚のカードが差し出された。
いつの間に撮ったのか、正面からの写真と、知らぬ名前、そして2020から始まる番号の印字されたカード。創峰大学、という文字を読み取るより早く、手渡してきた本人が口を開く。
「これはお前の学生証だ。第二学群生物学科の三年次として、高専から編入してきたことになっている」
「……それで、ぼくに何を?」
「吉野暁海と接触しろ。それは、咲良乃スズヒコの写しだ」
ライバ・カイネウスと印字されているそれを眺めていた視線が明確に、こちらを向いた。
道具店の店主の言を信じるのなら、前飼い主。それをこちら側に何としてでも引き込むための布石として、決して安くはない買い物をした。とはいえ、実質的な学長の立場にいる以上、いくらでもやりようはあった。
「……先生と」
「然り。接触しろ。そして、かの狭間に記憶を刻め」
「……何言ってるかさっぱりわかんないけど、まあ分かった」
パライバトルマリンは、よくも悪くも邪魔をされない。
黎明の世界樹の神の御使いは強力な認識阻害能力を持っており、本来であれば対面どころか目視、気配の察知、その類のことを一切許さない。なりそこない、あるいは紛い物であるパライバには、世界の因果に邪魔されない、ということだけが残っている。
つまりこの生き物は、侵略の時間に事も無げに邪魔をして、そして干渉されることなく帰還する。理論上は。
帰還まで果たせれば御の字だ。目的は、パライバトルマリンの存在と、その後ろの存在を知らしめることにある。親しい存在を味方につけている人間に、“自殺を選んだ人間が靡かない可能性を考慮していない”。そもそも、考慮する必要がないのだ。必要なことは、コンタクトを取ることのみである。
「知識面はこれからサポートする。お前、注げば注ぐだけそれらしくなるんだろう。あいつが言っていた」
「らしいね。けどあんた、随分優しいな。ハリカリさんなんかさっぱりだよ」
「我々からすれば、お前は高い買い物でもあるが、同時に客人でもある。あのクソ道具店と一緒にされちゃあ困る」
ふと、何もない方向にパライバが振り返った。
きれいに一本線が引かれた空間を、押し開けるようにして男が一人、顔を出す。その向こう側は、どこかの店の中につながっていた。
「話聞いてたけど、クソ道具店呼ばわりはひどくない?大分頑張ってるんですよ、自分」
「お前の手は常に逃げだ。識ろうという意思はないのか?絶対中立主義者〈ユッカ・ハリカリ〉」
「うーん、もうだいたい識ってるし、あんまり」
「……マジでどこにでも出てくるんだな……この人」
それは興味があるようにも見えたし、ないようにも見えた。ユッカ・ハリカリと呼ばれた男は、そのまま空間の縁を肘置きのように使い始める。
空間の向こうから、ひっきりなしに紙を破る音が聞こえていた。パライバだけがその音を気にしていた。
「つい顔出しちゃったからサービスをしておこう。次の一時間より早く、吉野暁海に接触したほうがスムーズだ。これはもう、未来をチラ見したから確定だよ」
「過去は触れないのに未来は積極的に見るんだな、お前」
「未来予知、便利だからねー。例えば攻撃の回避とかさ。自分は戦いたくないから」
道具屋。あるいは絶対中立主義者。ありとあらゆる世界の交差点に居を構え、隠れ住みながら様々なものを売り捌き、手に入れる。しょうもない情報から人の命まで、望みのものはほとんどがある。あるいは、仕入れてくる。そこにどんな犠牲が伴おうとも。
彼の特性を理解している人間ほど、彼に対して慎重だ。それは大日向も例外ではない。自分の身に不相応でなく、そして達成できるものだけを買うのだ。それができないものは、こいつにもれなくいいようにされて殺される。
「過去の参照も時には糧となる。いいか、」
「うん、その話めちゃくちゃ聞いたから大丈夫。僕が過去を参照しに行かないのは干渉と編纂が怖いだけだよ」
「素直じゃないやつだな。本当にさっきのはサービスなんだろうな?」
故に厳密に問わねばならない。後で難癖をつけられたとき、困るのはこちら側だからだ。
さもなくば今から攻撃をする、という意思表示を見せながら、大日向は詰め寄る。
「ほんとにサービスだって。【哀歌の行進】は一度ちゃんと分からせておきたいからね、自分としても。悪意は等しくお返しすることにしてるんだ」
ウインクひとつ。
大日向がラボにあったティッシュの箱を掴んで投げようと振りかぶったところで、ハリカリは空間をさっと閉じてしまった。もう、そこに誰かがいたような形跡はない。はじめから何もなかったかのように。
「チッ。ボクの出血大サービスは受け取ってもらえんか」
「……そりゃ、物理が分かってたらしないんじゃないですか……?」
「ド正論だ」
早速だがお前を“大学生”にする、と言った瞬間、待ってましたと言わんばかりにドアが開く。そこに待っていたのは、大日向研の院生たちだった。