
やってしまった。こんなはずじゃなかったのに。否定して、否定されて、残ったのはぼろぼろの体と心だけだ――
フェデルタは、足取り重く荒廃した街を歩く。アスファルトの割れ目に足をとられ、ふらつきながら歩き進めると、何処からともなく現れたタクシーが視界に入る。
タクシーのドアが、迎えるようにひとりでに開けばフェデルタは倒れ混むように車内のシートに座り込んだ。
「……ベースキャンプ」
掠れた声で呟けば運転手は返事をひとつしてサイドブレーキをおろすと、アクセルを踏む。僅かに車体を揺らしながら走り出すタクシー、動き出す景色を見るフェデルタの瞳は曇っていた。
『近寄らないで――!』
黙っていると、先程のスズヒコの声が頭の中でずっと響いている。聞きたくなかったのに、それを引き出したのは間違いなく自分だ。
叫びだしそうになるのを堪えて、目を閉じる。体はひどく疲れていたのだろう、すぐに意識が落ちていった。
『……情けない』
突如響いてきた声にフェデルタは目を開けた。眼前に広がるのは、座っていたはずのタクシーの中ではなく、真っ赤な空の下荒廃しきった街の姿。そして、その荒れ果てた瓦礫の先に人影がひとつ。
『いつもそうだ。自分の事ばかりで、人の事など見やしない聞きやしない』
人影が、ゆらりと動き出す。乾いたアスファルトを踏みしめる音が嫌にフェデルタの耳にまとわりつく。
『そんな醜い人を、俺は……俺を、認めない』
「……吉野、俊彦」
ざあ、と突風が砂埃をあげる。一瞬視界が隠され、そして開けた時にはすでに目の前にその姿があった。背丈と、瞳の色だけが同じな、フェデルタとは似ても似つかない少年の姿が。
『……もう疲れたんでしょう? 俺の大切な家族も、友人も、貴方には任せられない』
「……」
視線が交わればフェデルタは耐え切れずに目を逸らした。逸らした視界の端で、ふ、と笑う気配がする。
『ほら、そうやって目を逸らす。都合が悪ければ、見ないフリをする』
わかってる、そんな事は。誰よりも、自分が。
フェデルタは心の中でつぶやく。口は、空気を吸って吐く事以上の事は出来そうもなかった。この吉野俊彦は、自分の心の弱さが生んだ存在だろうと何となく理解はしているが、それに抗う気力はもうすでに残っていない。
だって、彼の言う事は事実で、それ故に今自分は誰よりも守りたかった大切な人を否定して、否定された。
『……だから』
吉野俊彦の影は、フェデルタの頬に手を伸ばし優しく触れる。まるで、今までの労をねぎらうかのように。
『あとは俺がやりますよ』
頬に触れる手がす、と頭の後ろまで延ばされてもう片方の手がフェデルタの腰を掴み、そして優しく抱きしめた。
(ああ……、もう、いいんだ)
フェデルタは吉野俊彦に抱きしめられたまま、目を閉じた。
(だって、この世界でも俺じゃなくて、こいつが求められる)
この世界に来て初めて通信から聞こえてきたのは吉野俊彦を探す声だった。
親友と呼ぶ少年は、吉野俊彦がいない事にひどく寂しさを覚えていた。
幼馴染の少女は、歪な笑みでそう呟いていた。
(俺は、いらないんだ)
もういいんだと思えば、なんだかとても、穏やかな気持ちになった。
「お客さん、つきましたよ」
タクシーはいつのまにかベースキャンプの近くに着いていたらしく、運転手の呼びかけでフェデルタは目を覚ました。あんな仮眠でも、少しは疲れが取れるようで身体は軽い。
「ありがとうございました」
運転手に感謝の言葉を告げてタクシーを降りると、大きく伸びをする。ハザマの空気は気持ちのいいものではないが、それでも大きく吸うと少しだけさっぱりした気になる。
アスファルトの割れ目をまたいでベースキャンプに向かって歩く足取りは、随分と軽かった。
「……」
まずは、勝手に分かれてしまった迦楼羅やグノウと合流しなければいけない。ベースキャンプに向かいながら姿が無いかとあたりを確認する。近付くにつれ、少し形が保たれた廃墟が増え、人の姿が多くなる。人が集まっているところで探すのは少し難しくなるだろうか……そんな事を考えていると、人と人の間に、見覚えのある姿を見つけた。
「迦楼羅!」
大きく声をかけて、駆け寄ると桃色髪の小さな少年――迦楼羅は少し驚いたような顔をしてフェデルタを見上げた。
「おじさん……」
抱えていたぬいぐるみをぎゅ、と抱きしめる姿は警戒しているようにも見えて、フェデルタは困ったように眉を寄せた。
「……勝手にわがまま言ったのは悪かったよ。……でも、もう大丈夫だ」
「……、うん」
安心させるように言ったつもりだったが、迦楼羅の様子が変わる事は無い。それも仕方の無い事なのだろう、いつ裏切ってもおかしくないと思われているのが前提な状態で、十分に信頼などしてもらえる筈もない。そればかりは、今後の行動で少しでも改めてもらおう。
とりあえず、迦楼羅が見つかった事で合流についても問題はなくなった。スズヒコも、きっと勝手に合流しているだろう。
そう、スズヒコも――スズヒコ……否定した、人。
『近寄らないで――!』
否定の言葉が身体をまっすぐに駆け巡り、フェデルタは思わず歩みを止めて頭を押さえた。もういいだろう、もういいのに、彼とはもう終わったんだ。きっともう求められていない。だから、だから俺は俺を。
「どうした、の?」
「……あ、いや、大丈夫、大丈夫だから」
迦楼羅がほんの少し不安げに声をかけくるのに、心配をかけまいと軽く笑みを向けようとしたが不格好な苦笑にしかならなかった。とっくに止まった、本物ではない心臓が強く早く脈を打つ。その度に、身体全身が痛みを訴えた。
足元のバランスが崩れる。どうにか倒れるのを堪えて、ふらつく足取りで廃墟の影まで移動すると、崩れた建物に寄り掛かるようにしてずるずると地面に座り込んだ。動機、息切れ、全身を刺す痛み。目の前がチカチカする。
「もういい、もういいのに、俺は……いいだろう、だって」
うわごとのようにつぶやきながら、服の上から心臓を掴む。迦楼羅はどうしていいかわからずに、おろおろした様子でフェデルタを見るばかりだ。大丈夫、と言った声はずいぶんと掠れていたし、あれだけ軽かった身体は鉛のように重くなっていた。
心配させてしまった。もっと強くならなきゃ。みんなを守る為にも。
心配なんてされる筈無い。もう、何もしなくていい。誰も、俺の声なんて聞いてない。
相反するような二つの声が頭の中で響いて響いてしょうがない。息が苦しい。記憶が流れこんでくるときよりもずっと、ずっと苦しかった。
「……ごめん、迦楼羅……先に、いってて」
「っ、え、おじさん、おじさん!?」
全てを言い切る前にフェデルタの意識は再び途切れた。
ざらりとした地面の感触を頬に感じて自分が地面に倒れていることを自覚する。手に力を込めて、上半身を起こす。
人の足と、青い尾が見えた所でフェデルタは息を呑んだ。
「……あ、」
視線を感じる。顔をあげればあの人がいる。そうわかった瞬間に体が硬直した。
瞬きすらできず、眼を見開いたまま地面を見ていた。尾がゆらゆらと揺れる度、地面の影が揺れる。
まだ視線はある。その表情がどんなものか見る勇気はなかった。
『フェデルタ』
名前を呼ばれる事がこんなに恐ろしく感じるなんて知りたくなかった。
浅い呼吸を繰り返すフェデルタの視界には揺れる尾の影だけが映っていた。
「……」
次に目が覚めた時にいたのは、廃材を集めて出来たベッド――というにはあまりにも不格好だが――だった。
フェデルタは、震える手で頬に触れて、軽く何度か叩いてみた。
短時間で何度も夢を見たせいか、今自分が見てるのも夢なのでは無いかと思える。
(……ああ、そうだ、俺、迦楼羅を見つけて、気を失って)
くらくらする頭でそこまで思い出して、自分が気を失った時とは違う場所にいることに気が付いた。
(……誰が)
辺りを見渡せば少し離れた所に迦楼羅らしき人影が見える。彼が誰か呼んだのだろうか。
「……っ!」
視界の端に大きな青い影が揺れて、思わずびくりと肩を揺らす。おそるおそる視線を向けると、大きな青い背中が見えた。
「……お前、が?」
大きな竜は返事の代わりにただ尾を揺らすだけだった。