
大きく吐き出した息は砂塵に混じって飛んでいく。フェデルタは、時折舞う砂ぼこりを眺めながら、ただ足を前に出し続ける。
最高の気分と最低の気分が交互にやってくるような、爽快感と不快感の境目が無いような、よくわからない感覚。
そこに、不安が付きまとってくるので基本的には気分は最悪の方が多い。
「……」
相変わらず胸の奥が痛い。フェデルタは歩きながらぎゅ、と胸を押さえた。
道路の割れ目を越える程度にはまだ、足取りはしっかりとしている。
チェックポイントから北、大きな通りから離れた道は険しい場所が多い。
「坊っちゃん、気をつけて下さい」
「うん、わかって――うわっ!」
進む道には大きな瓦礫の山。迂回する場所も見つからないそこを登っている途中で、迦楼羅は足を踏み外した。
「危ない!」
滑り落ちる寸前の迦楼羅を支えたのは従者の手ではなく、フェデルタのものだった。
「……大丈夫か?迦楼羅」
「う、うん……」
フェデルタは迦楼羅を後ろから支えながら登るのを補助しつつ、瓦礫の山を越える。
なんとかそこを越えきった所で、休憩する事となった。
「……」
折れ曲がった標識に背をあずけてぼんやりとしていたフェデルタに、迦楼羅が駆け寄ってくる。
「あの、さっきは……ありがとう」
遠慮がちに頭を下げる姿にフェデルタは、軽く笑みを浮かべてみせる。
「気にするなよ。それより怪我は?」
「……大丈夫」
フェデルタの問いに迦楼羅は首を軽く横に振ってみせる。それから、黙ってその顔をじっと見上げていた。
「……どうした?」
フェデルタが不思議そうに見上げる迦楼羅に視線を向けると、迦楼羅は何とも言えない表情で目を伏せた。
「……迦楼羅?」
「……貴方がおかしいと思っているんですよ。坊っちゃんは」
どうしたのだろう、と続けてる声をかけると主人のかわりに、と言わんばかりにグノウの姿が現れた。
迦楼羅の後ろに立てば、不安げな主人と視線を交わす。
「俺が、おかしい?」
「おや、自覚がお有りではない」
眉を寄せ、目を細める。フェデルタの表情が厳しくなる。しかし、グノウがそれを気にする様子はなく、むしろその表情こそが不快だと言わんばかりに鋭い双眸を更に細めた。
「坊っちゃんを助けてくれたお礼に教えてあげますよ。貴方が勝手に我々から離れ、戻ってきてから今まで、離れる前の面影はほぼありません」
「ッ、……」
グノウの言葉にフェデルタは自然と胸を押さえた。胸の奥がまた痛む。息が苦しい。言葉を返したいが口はただ空気を吸って吐くだけだ。
「まるで自分を捨ててイバラシティの姿にでもなろうかとしてるように見える。記憶に捕らわれていた時とは違うでしょうね。今は、自らの意思でそうしているのでしょう?」
「ちょ、ちょっと、グノウ」
「坊っちゃんも知っているでしょう?そんな事をして、救われる訳がないと」
従者の物言いに流石に不安になった迦楼羅が制しようとしたが、グノウの鋭い言葉と視線に思わずなにも言えなくなる。
フェデルタは相変わらず浅い呼吸を繰り返すばかりで、言葉を返すことができない。こいつは何を言っているんだ?という思いと、その通りだと肯定する思いが交互に浮かんで、混ざり合って、訳が分からなくなる。
「正直、そんな状態で一緒にいられては迷惑なんですよ」
「……そっちには関係無いだろ」
吐き捨てるように言われた言葉に、フェデルタは掠れた声で呟いた。その瞬間、フェデルタとグノウの間に流れる空気がぴり、と張りつめる。迦楼羅は自然と手にしていたぬいぐるみを強く抱きしめた。
「貴方たちが組むように言ってきて、勝手に分かれて、あげくこんな姿を見せられて、いつまた突然倒れるともわからないのに? これだけ人を振り回しておいておいて、無関係だと? あまりにも短慮では?」
苛立ちを隠さないグノウの言葉は、すべてがその通りだった。自分の行動は、その場その場の思い付きで、支離滅裂で、一貫した考えなどなくて、それを短慮であると言われればその通りなのだと。
『お得意の頭脳、お得意の頭脳ってさ、言うくせにさ、じゃあ“自分でなにか考えた?”』
スズヒコの言葉が頭をよぎる。あの時は、考えていると思っていたけど、本当に自分は"なにか考えていた"のか?
冷や汗が顔を伝う。心臓が握りつぶされるような錯覚。
「貴方がしていることは逃避です」
頭の上から、グノウの言葉が落ちてくる。また、逃げているのだ。今度こそ、逃げてはいけないと思っていたのに。
足が震える。立っているのがやっとといった出で立ちで、グノウを見るフェデルタの瞳はまるでおびえた子供のようなそれだった。
「せいぜいどうしたいのか、身の振り方を考えることですね……立ち止まるなら置いていきますので」
グノウはこれ以上話しても意味は無い、と言った感じで吐き捨てるように告げると、無駄の無い動きで踵を返す。
「あっ、ちょっと、グノウっ……」
迦楼羅も立ち去っていく従者に一歩遅れて、その場を歩き出す――が、数歩進んだところで立ち止まり、フェデルタの方を振り返った。
はた、と視線がぶつかれば迦楼羅はそっとうつむいた。
「……おじさんは、としひこお兄ちゃんじゃないんだよ」
ぽつり、とそうこぼすと迦楼羅はそのまま走り去っていった。
「……なんだよ、なんだっていうんだ。俺は、」
フェデルタは顔に手を当て、天を仰いだ。
グノウの言葉は冷たく鋭く怒りを含んでいる一方で、そのいっている言葉は的確だった。そして、迦楼羅もそれをとっくに見抜いていたのだ。とっくに見抜かれていたなんて、笑えるほどに滑稽だ。けれど、もうフェデルタとしている事に疲れてしまった。
何も出来ない、何も届けられない、つらいことから逃げてばかりの愚かで、どうしようもないクズなんかより、そう考えたって吉野俊彦の方がいいに決まっている。
そのくせ、胸の奥が痛むのは未だにそんな自分に未練を持っているからだ。正義感に厚い、真面目な少年の魂を歪な形で作り上げることがおかしいと思っているからだ。
空の赤さが濃くなっていく。まるで血が塗りたくられていくようなそれを、指の隙間からフェデルタは見ている。
『何も怖いことなんてない』
『俺に任せて』
『もう誰もお前を求めてない』
おおよそ記憶で見る吉野俊彦が言いそうにない言葉が、記憶にある吉野俊彦と同じ声で囁いてくる。
『あんなものを抱えているから未練があるんだろう?』
温い風が、まるで頬を包み込むように流れていく。泣いた子供をあやすような温かい両の掌のような柔らかさを感じる。
『咲良乃スズヒコの、力を』
「え……」
顔を押さえていた手がひとりでに動いていのを目の当たりにして、思わず掠れた声が漏れた。そのうち、手は胸に移動して、ずぶりと体の中に飲み込まれる。
とくに不快感どころか、感触もわからないまま、手が何かを掴む。本だ。身体の中に残る、咲良乃スズヒコの力を、形にしたそれがまるで体の中から心臓を引き抜かれるかのような生暖かさを伴いながら、引き抜かれた。
「……なにを」
『この力を燃やせば、お前(おれ)は未練を捨てられる』
本を燃やす。それは、本当の決別を意味する。フェデルタは、震える両手で本を握りしめる。そうだ、とささやく声がする。
これを燃やせばもう、全て捨てて終われるのだと。
正義感に厚い、真面目な少年のように振る舞うことになんの気持ちも抱かなくて済む。それこそが、求めていた身の振り方なのだ。
「……あ、」
ぱた、と握りしめた本に雫がひとつ落ちた。緩やかに染みをつくりながら消えていくそれは、間違いなく涙だった。
「……いやだ」
たとえ、自分を捨てることが出来ても俺があのひとを捨てられる筈がない。本当にあの人が俺の事を捨てたとしても、俺はあの人を捨てられる筈がない。
「いやだぁ……」
あのひとが求めてるのはこんな弱い自分じゃない。だけど、吉野俊彦でもない。だから俺は吉野俊彦にはなれない。あの人を捨てられない限り、俺はずっとフェデルタ・アートルムでいるしかない。
だだをこねる子供のように呟いて、折れ曲がった標識に寄りかかったままずるずると地面に座り込む。本を胸の中で抱き締めるように両手で抱えて、震える身体を縮こまらせた。
「あ……」
真っ赤な視界の中で、青い尾が揺れた。まるで霧を払うかのように大きく尾が揺れる度に、フェデルタの視界が元の色を取り戻していく。
「……」
大きな竜が、物言わぬ青い獣がフェデルタを見る。その視線は何かを見定めているかのように、感じられた。
「……スズヒコ」
この青い巨体は、もう一人のあのひとである。彼が、こうして側にいることには何らかの意味があるのだろうか。
大きな尾が、フェデルタの身体を叩く。
「……急かすなよ。わかってる」
フェデルタが抱き締めていた本を身体に押し付けると、吸い込まれるように消えていく。身体の中に柔らかな流れが染み込んでいくのを感じてから、フェデルタはゆっくりと立ち上がった。
「……」
「……」
フェデルタが戻ってくると、グノウが一度振り返って視線を交えてすぐに正面に向き直った。その一瞥で彼が何を考えているのかは全くわからなかったが、何かを言う必要もないだろう。ただ、スカした態度が気に食わなくてフェデルタは小さく舌打ちした。
グノウの隣にいる迦楼羅が少し不安げに振り替えるのをみれば、眉を寄せてながら顎をしゃくって前を見ろ、と示せば大人しく前に向き直る。
「……」
スズヒコは、先を歩いている。その背中を見ても、胸が苦しくならない。気分はといえば、最高でも最低でも無い。
その辺の石を蹴飛ばす程度に足取りもしっかりしている。
蹴飛ばした石は、アスファルトの割れ目に落ちて行った。