
暗がりから近づいてくる人間はどうやら女らしい。
錆びた円匙を引き摺り 近づいてくる。痩せていて 大人にしては小柄で、『黒』と同じ格好をした、―― 即ち『灰掻き』だ。
緩慢に円匙が振り上げられると、『橙』と『黒』は距離を取った。『橙』はそのまま女と対峙し、『黒』は物陰に身を潜める。
「ねぇ、あんたたち。同じ『灰掻き』なんでしょう?」
『灰掻き』に見られる癖の少ない口調だと、『橙』にも分かった。
「だったら、おとなしく死んでよ。私は『竜殺し』なのよ……?」
「オマエが『竜殺し』だったとして、それとオレが死ぬのと何も関係ない」
「
まだ私だけが、ひとりも殺せていないのよ……? 皆は、楽しんでいるのに……。」
「だったらオマエがいう『竜殺し』とやらから、足を洗ったらどうだ? 多分、技術とかの方面で『適正』が無い」
「
どうせ私は『灰掻き』の下っ端よ!」
甲高い声で喚き、円匙を振り下ろした。『橙』は動かない。―― 動かなくても当たらないと、見てすぐに分かったから。
再び円匙を振り上げようとするが、その隙を『黒』が見逃す筈もない。
背後から円匙を掴んで奪い、円匙の柄で女を殴り飛ばした。それほど体力が無いのか、それだけで女は動かなくなった。『黒』は女の手首を縛っていく。
「おい、女相手にそこまで……」
「治らないケガさせるほど強く殴りつけてねェ。ってか、実力はともかくテメェを殺そうとしてきた人間相手に何言ってんだ。
しかし、本気で向いてねェな、こいつ。こりゃ『人参』がいてもいなくても大して変わらなかったな」
「
うるさい、うるさい!」
女は、意識までは失っていなかった。
「
『灰掻き』から『英雄』なんて出たことは無いって、『名無し』だって知っている!」
叫んでから、女は盛大に噎せている。『灰掻き』は多かれ少なかれ、胸を悪くする仕事でもあった。
『黒』は、土色をした女の髪を掴んで顔の向きを変える。目を合わせて、話す。
殺人を『楽しい』と表現する輩に加える慈悲は無いが、そうかといって人の目も見ないで話すような理念は持ち合わせてはいない。
「お前だって、腐っても『英雄候補』のひとりだろうが。……別に自分だけのために生きるなとは言わねぇが、もうすこし考えて見ろよ。
『灰掻き』出身の『英雄』が居たこと無いから何だ。『灰掻き』になったからってやけっぱちになって誰かを襲って回るのは、本当に『英雄』にふさわしいか? それが本気で『名誉』だと思うのか?」
この国の人間は全員が 『英雄』になる可能性を秘めている。
『英雄』とは名誉である。
そういう建前になっている。
せんのう
『声届ける力』による 日々の 信仰 が殆ど効かない『黒』にも、その建前だけは刷り込まれている。
『黒』の話す間に、もうひとつ近づく気配がある。『黒』は気づいていない。
「
どうせ無駄なら好き勝手しても良いでしょう!?」
「……要するに、自分が『灰掻き』なのを言い訳にして 人を殺そうとしてるだけか」
これ以上語ることに意味が無いと判断して、『黒』はそのまま女の意識を奪おうとする。
その時には、もう一つの気配が『黒』に迫っていた。
『橙』は『黒』を庇うように、間に入る。
もう一つの気配は壮年の男だ。その手にはナイフが握られている。
『橙』がそれを視認した時には、既に『橙』の脇腹に深々とナイフが刺さっていた。構えた盾は間に合っていなかった。
背後で息を呑むのは、おそらく『黒』だろう。
ここを離れろ、と『橙』が言葉にする前に 走り去る足音が聞こえた。土色の女は先ほど『黒』が縛り上げていたから、おそらくは『黒』だ。『黒』がそうした意図は知らないしどうでもいい。たとえ偶然であろうと自分の望むままの展開になったのだから、それでいい。
そう考えるまでの時間は さほど経っていなかったらしい。『橙』の身体からナイフが引き抜かれる。借り物のマントも 中に着た肌着も赤く染められる。
壮年の男は、僅かに口角を吊り上げる。再び『橙』に向けてナイフを振り下ろす。ここに来てすぐに対峙した男よりも幾分早い。それでも『橙』は、そのナイフを掴んだ手首を掴み 持ちこたえる。
ナイフを持った相手の対処法は、全く知らない訳でもない。最初に対峙した『竜殺し擬き』を相手に捌き続けることが出来たのも、それが理由である。
しかし、『橙』は成長途上とも言える年頃であり 相手は今まで相手をした者と比べて手練れと見えた。おそらく、長くは持たない。
「
……面倒くせぇ。『灰掻き』の偽物が、抵抗しやがって」
低い声が聞こえる。―― これも、自称『竜殺し』の一派か。
永遠とも刹那ともつかない硬直が続く。硬直を破ったのは、使い込まれた鎧を着た人物の乱入である。先ほどマロンという人物について尋ねて来た『守護者』だ。棍を手にした彼を見て、男は『橙』を放り棄てて路地に入っていった。
「君はさっきの『灰掻き』、―― いや。その橙の髪、『講堂』で何度か見たな」
たとえば、『黒』はそのカリの名が現すように黒い髪。
たとえば、つい先ほど相手をした女は土色の髪。
たとえば、たった今『橙』にナイフを突き刺した男は白髪交じりの赤銅色。
――『橙』は、鮮やかな橙色だ。このような色をした髪は、この国には少ない。
それを自覚して、マントで 服だけでなく髪を隠していたが。ナイフを刺された直後あたりには、マントがはだけていたのだろう。
「……、アイツを、追わなく て、いいんですか」
傷口を手で押さえ、『橙』は尋ねる。緊張が解けたことで、痛みに意識が向き始めていた。
「他の仲間が待機していて、捕らえる手筈になっている。君は『名無し』か? ……ここにいる理由は、後ほど聞く」
存外呆気なく終わりは来るものである。しかし。
――随分、長く持ちこたえた。
嘘や隠し事の類いに適正の無い『橙』は、呆気ないなどとは考えていない。
――今の恰好で見つかるのと、それ被ってるのが『名無し』ってバレるのだったら……後者のがヒドい目に遭うだろうな。
『黒』の言葉が思い出されたが、それでも『橙』はそれ以上抵抗しない。たとえ教官の指示があったとはいえ、自分の行動は紛れもない規律違反に当たるのだ。過ちを犯した人間は罰せられる必要があるのだ。他人も、自分も。
止血の手当てを受けている間に、『癒し手』と思われる者がひとり。来たばかりの時点で『癒し手』はいなかったが、この惨状に動き出したのかもしれない。
完治とはいかなくとも動ける状態になったところで、土色の女と共に『守護者』に連れられる『橙』である。『橙』が『竜殺し』や『竜殺し擬き』の疑いを持たれているわけではなかったが、違反者か否かという意味で考えればどれも差が無かった。
「
――ッ、『人参』ッ」
視界の隅、随分離れた位置。『守護者』と一緒にいる『黒』の姿が見えた。自分を呼ぶ声も微かに聞こえたが、『橙』は反応しない。『黒』もまた規律違反を犯す『名無し』のひとりであったが、彼を巻き込むのは違うと考えた。―― 彼から『灰掻き』のマントを借りると選んだのは、他ならない自分自身だ。
自分の罪を『黒』に押し付けるのは違うと考えた。他の『名無し』に余計なものを渡したという『黒』の罪を自分が被っているとは、気づかなかった。
最終的に『橙』は普段の素行と 負傷者の救助を手伝っていたことが加わり 罰らしい罰を与えられることは無かったのだが、兎に角 こうして長い夜は明けたのだ。
当初の目的である教本は、日を改めて買いに行く破目になるだろう。
……。
「―― 学び舎担当のヴァネッサ。現時点で、『英雄』最有力候補は?」
「C区では2名。どちらも現時点で10歳。下四桁はそれぞれ0183と0185。しかし『神子』どもの報告を見るに、0183に関しては『声届ける力』の効力があまりに低い。おそらく『赤』の適正が強すぎるのだろう。『銀』の適正も持っているようだが……」
「『神子』の報告なんて宛てにならないよ」
「あながちそうとも言い切れんぞ。『神子』どもが 雛型から逸脱した報告書を出してきた時、それは我々が目をつけた『英雄』候補と概ね一致している」
「話を戻す。0185に関しては?」
「『声届ける力』の効きが強いが、おそらくあれは、完全には塗りつぶされていない。大陸史の中で教本を買うように指示をしたが、誰よりも早くに動いた ―― 随分迷っている様子だったがな。そして今日の 『竜殺し』および『竜殺し擬き』の襲撃での動きから、『銀』の適正も見られる」
「つまり、『不幸喰らい』候補になり得る」
「そうなるだろう。0183については『象り』候補になるが……こちらは『灰掻き』のマロン然り、他にも候補が見られるからな」
「参ったな……少しでも早く『不幸喰らいの英雄』を選出しなければならないのに、やっとひとり可能性ある人が見つかったばかりなんて。真逆の適正をもった人間なら、斬り棄てるほどいるのに。ねえ、『青』の適正だけを持った人間ではだめなの? 初代ではそうしたと聞いているけれど」
「駄目だ。前回は確かにそうしてシメイも成し遂げられたが、同時に二度目の『災厄』を促した」
「繰り返す訳にはいかない。……一先ず、C-8500185が『不幸喰らいの英雄』としての技術を身に着けられるような仕事を与えられるよう、働きかけるか――」
「待て。アレが『不幸喰らい』候補であれば、職を与えるのは 私のイェルデ史が全て終わった後だ。―― 『不幸喰らいの英雄』が救わなければならない国のことを、知っておいた方が良い」
「では0185に関して、ヴァネッサによるイェルデ史の講義が終わった頃に役目を与えよう。『守護者』あたりが良かろう」
「それはアイツ次第だろう。0183に関しては、現時点『象りの英雄』最有力候補である マロンと近しく在れる役目にするといい。―― あれだけ『赤』の適正が強ければ、勝手に合流するだろう」
「……調和竜がいない中で、そんなこと決めちゃっていいの?」
「決定ではない。あくまで提案だ」
サンドリヨン
『灰被る国』で秘密裏に行われた会議から10日後に、『黒』は ノアールという名と『灰掻き』の役目が。20日後に、『橙』は リオネルという名と『守護者』の役目が。それぞれ贈られることになる。