
中学に上がってからだ。俺が莉稲を「りいちゃん」と呼ぶことをやめたのは。
俺たちの繋がりは自然な発生だった。
彼女の両親が仕事を終えるまでの間、彼女をうちで預かるだけで同じ空間を過ごす人間となったのだから。
自分の下校時刻と都合の合う日は莉稲を支援学校まで迎えに行ったりもしたし、小学校を卒業してからも続けた。
今思えば、身内でもない赤の他人がやるにはすこしだけ境界を超えていたのかもしれない。
けれど悪いものとは思っていなかった。莉稲は妹ではないが妹同然だし、俺が中学に上がっても莉稲はまだ10歳に届かない。だから俺が兄貴のように振る舞うのは当然で、疑問も持たずその日も迎えに行った。
いつもと違ったのは、その日がテスト前で部活もなく、みんな早上がりだったことだ。俺は莉稲を迎えに行った帰りに、遊びに出ていたクラスメイト達とばったり遭遇してしまった。
「卯島くん、妹いたっけ」
「いや、一人っ子でしょ」
妹でもない相手となんで一緒にいるの? という好奇の視線。その興味の抱かれ方は、どこか居心地が悪かった。
「りいちゃんは妹じゃない」
俺が一緒に居たら悪いのか? という意を込めて俺は答えた。それが墓穴を掘ったらしい。
「“りいちゃん”だって。仲良いね!」
「もしや年下カノジョですか!」
噂好きのクラスメイト達はこちらの話も聞かず好き勝手に言う。事実か否かはどうでも良くて、俺をおちょくるのが楽しかったのだろう。
「結婚式いつですか卯島氏!」
この時期の少年少女というのは自制がまだ十分に効かない。掛かる言葉はあまりに無神経で、癇に障った。彼等との仲が悪かったわけではないが、強く拒絶したくもなり。
「ンな訳ねェじゃん、結婚するならもっと相手見て選ぶね!」
俺は咄嗟に否定する言葉をぶつけた。
中学に上がろうとクソガキはクソガキだった。鼻で笑って言い放つと、すこしだけやり返した気分になった。
けどそんなもの、すぐに追いついた不快感に埋め立てられる。俺はその台詞が莉稲を貶めるものであると気づかない程度には自分のことに手一杯で、さもしいガキだった。
「わーくん、」
俺はすぐに車椅子を押してその場を離れた。莉稲がなにか言おうと振り返りかけて、やめた。視界の端に映して俺はずんずんと、無言で進む。
悔しくて、腹立たしくて、ずっと前だけを見ていた。むしゃくしゃして一刻も早く遠くに行きたくて、車椅子を押すのに夢中で。莉稲がなにか話しかけても、素っ気なく返して。そんなことがしたかった訳ではないのに、意地になって。どうしようもないクソガキだ。
後から件のクラスメイトには謝られた──根が良い奴らなのは知っていた──が、俺はなんとなくその一件を意識するようになり。
そこをきっかけに学校の人間とも莉稲とも、すこし距離を置き始めた。
元々能無しコンプレックスを抱えた思春期だったこともあり、自分から輪に入るにはふとした瞬間に引っ掛かりを覚えていたのでちょうど良かったのだと思う。
たまに、そんな俺を面白く思わないやつもいて、難癖つけられたり、莉稲の送迎をチラチラ目撃されることはあったが大したことじゃない。取り立てて揉め事を起こして目立つということも無かった。
けど一度だけ、中学生の間に殴り合いの喧嘩をした。詳細は覚えていない。
送迎の帰りに、クラスの調子のいいボスみたいな奴に莉稲が悪く言われた覚えだけはある。確か、身体のことで。
「取り消せ!!」
俺にしては珍しく叫んで果敢に立ち向かった。俺は喧嘩に強くない。異能抜きにしても大して太刀打ちできる実力がない。部活で鍛えてる訳でもない。片や相手は当然異能──風で弾き飛ばす力とかだったと思う──は使うしサッカー部だかバスケ部だか何だかの主将だしで力の差は歴然だった。
それでも、己を止められなかったのだ。
莉稲はすごいやつだ。汐見莉稲は、強いのだ。素人が知ったように語っていい相手ではない。それだけ考えていた気がする。本当に細かいことを覚えていない。
気づけば俺は仰向けに寝て、暗色の滲み始めた茜色の空をぼうっと眺めていた。じんじんとした痛みを全身に満遍なく感じながら、すぐ横に誰かが居ることに気づいた。
横で莉稲が泣きながらわーくん、わーくんと俺を呼んでいた。
「……なんでお前が泣いてンだよ」
翌日、顔に絆創膏を貼ったボス野郎が登校するとは知る由もなく。
一発も入れられず負けたのだと、自分に呆れながら俺は重たい視界に泣きじゃくる顔を映して、グラデーションの掛かった空の下、莉稲をどう泣き止ませようかとただ思考に耽っていた。
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莉稲 「うさ子ちゃん、本当に探索するの? 大丈夫?」 |
莉稲が心配そうに尋ねてくる。どうもまだまだ頼りなく見えているらしい。こちらとしては彼女が安全な場所にいないことの方が落ち着かないのだが、まだ信用を得るに至らないのだから致し方ない。
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うさ子 「私は大丈夫ですって! 莉稲お姉ちゃんこそ、」 |
言いかけたところで、強化された聴覚が接近する風切り音を捉えた。
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うさ子 「ッ! お姉ちゃん後ろ──!」 |
激しい衝突音が響く。
叫びも虚しく結果はすぐ眼前に表れた。
金属質の余韻の中、一羽のカラスがどさりと地に落ちる。
莉稲は背後を振り返ることなく、接近したカラスを握り締めたフライパンで叩き落としていた。彼女曰く先刻拾った武器だ。
凶暴な原生生物も飛び出してくるこの世界、敵は侵略者ばかりではない。けれど。
汐見莉稲は、強いのだ。俺に守られるまでもなく。