
王歴325年。王城は混乱の只中にあった。
万を越す民衆によって叫ばれた自由革命。
どこから入手したのか手に手に武器を携えた暴徒達が、離反した一部の騎士団によって城中へと引き入れられた。
建国王の銅像は引き倒され、美しかった薔薇園は踏み荒らされ、上等の絨毯は既に血と死体が積み上げられている。
騎士達は多勢に無勢によって囲まれ、幾人かを相打ちにしては引き倒されて縊り殺された。
隠れ潜んでいた侍女たちは見つかり次第に引きずり出されて、その場で嬲られていた。
革命を叫ぶ民衆たちの狼藉が、城の全ての歴史と伝統を破壊していく最中。
まだ柱の金箔が剥がされていない廊下を急ぐ、2つの影があった。
年若い少年
まだ年幼い少年。上質な真紅のマントを身に着け、急ぐ足取りの中にも気品が残る。
鎧を着た男
騎士。少年の護衛。略式とはいえ金属鎧を着込んだ上で極力足音を立てないその動きは熟達を感じさせる。
廊下の先の一室には隠し通路があり、そこにたどり着けさえすれば、後は校外まで逃れられる。
しかし、隠し通路の入り口を開くには一定数の複雑な操作を要する。
それにかかる時間を思うと、既に怒声と剣戟の音はあまりにも近い。
────このままでは逃げ切れない。
それを悟った騎士は廊下の中腹で立ち止まり、少年へと告げた。
「この先はどうかお一人で」
少年は同じく足を止め、戸惑った。
無論、騎士の意図を理解はしている。
それでもすぐに気持ちを切り替えて進める程彼は冷酷ではなく、騎士に対して思い入れがあり、そして幼かった。
騎士もその事を理解してはいたが、それを慮る事のできる事態では無かった。
騎士は元々、どこの者とも知れぬ流れ者だった。
この国の者とは異形とも言える程異なる容貌を持ち、薄汚れた衣服を纏って、貧民街の路地で物乞いをしていた。
城下をお忍びで散策していた王子がそれを見つけ、物珍しさと好奇心から、まるで犬猫のように城へと連れて帰ったのだ。
城の者達は始めは王子の一時の気まぐれに過ぎないと見ていたが、王子がその男を己の護衛にすると言い出せば流石に苦言を呈した。
ましてや騎士叙勲を与えるとなれば苦言は猜疑となって降り注ぐ。
時にそれは実態を持って害を成したが、男はその全てを忠勤と、何より実力でもって跳ね除けた。
そして男は騎士となり、近衛として王子の側でその身を護っていた。
この革命の日までは。
尚も足を進めない少年に対し騎士は再度、視線によって強く促す。それでも動かなければ、兜の面頬を上げ────
鎧を着た男
この国の皇太子に見出され、その近衛騎士として命尽きるまで忠義を捧げる男。全身が緑色。
何度命じられても頑なに「殿下」の呼称しか用いず、一度も呼んだ事のなかった少年の名。
それを口にした。
聞いた少年は瞠目し、目を伏せ、一度だけ強く唇を噛み締めた。
その後踵を返して、廊下の奥へと走り去っていった。
騎士は笑んで面頬を下げ直し、そして剣を抜いた。
音が近い。あの曲がり角からすぐにでも、狼藉者たちが顔を出すはずだ。
民衆が手にしていた武器や騎士団への内通の手はずからして、隣国の者の煽動があったのだろう。
だとすれば革命が成った後、この国は必ず割れる。
パイの切り分けを巡る争いで、この城で流れた何倍もの血を民自身が流す事になる。
皇族の血筋は割れた国を再び一つに纏める唯一の希望となろう。何があっても、絶やしてはならない。
故に、自分のするべき事は唯一つ。
出来る限り、時間を稼ぐこと。
そこに自分の命を守る事は含まれない。それを再度心に決めて、駆け出した。
廊下に屍が重なり合って、山を成している。
ある者は胸から滝の如く血を流し、ある者は首を折られ、ある者は袈裟懸けに斬りつけられた裂傷が、腰の近くまで及んでいた。
床に流れた血の量はもはや血の湖と呼ぶべき大きさで、元の絨毯の色などはもうどこにも見当たらない。
その中心に、騎士が立っていた。
鎧は全身が打撃痕で歪み、またあらゆるところにクロスボウのボルトが突き立っている。
腕の片方の手甲が外れ、そこから覗く腕は明後日の方向に捻じ折れ、それでも、無事なもう片方の手には剣を握り、立っていた。
血の湖の上にはもう騎士以外生者は居ない。まだ生きている者たちは皆屍の山の向こう側にいて、前列で槍を並べるか、後列でクロスボウを構えていた。
この陣形を取られてから、新たな死体は一つも増えていない。騎士もまだ倒れてはいなかったが、既に動きは酷く鈍い。
一矢、クロスボウが放たれ、足甲を貫いて膝の皿を砕いた。体勢が崩折れ、咄嗟に剣を杖代わりにしようとしたその手に、第二矢が突き立つ。
もはや体勢を保つ事は能わず、突っ伏して血の湖を舐め、それでも尚敵を睨視せんと背筋の力だけで面を上げる。
その眉間へと、第三矢が突き刺さった。
この城の最後の騎士がようやく動かなくなった。
それを見届け、群衆の中で一際声を大きく張り上げ、現在のこの陣形を指示していた男が胸を撫で下ろした。
男は一刻も早く、皇太子の確保をしなければならかったい。
それを取り逃がせば、この城の他のどの人物よりも男の”仕事”に差し障る。
だからこそいち早く駆け出し、倒れ伏した騎士の死体の上を跨ぎ、足早に廊下の奥へと向かわんとして。
その足首を、緑色の手が掴んだ。