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「アンジニティという世界の住人が、この街を乗っ取ろうとしている」
いつかシロナミと名乗った男が言った言葉。
侵略だとかワールドスワップだとか、全部夢や幻覚の類だと思っていたのだが。
「…………グ、ッウ」
赤い空。見覚えはあれど跡形もないほど荒れた景色。
シロナミの言う《ハザマ》というこの場所へ飛ばされてすぐ、体に異変が起きる。
以前にも、経験した不安定な感覚。
骨が軋み、全身の毛が逆立つ。頭部や腰のあたり、爪や歯に感じる違和感。
耐えきれず、膝から崩折れる。その間にもざわざわと体中の毛が生き物か何かの用に体を覆っていく。
大きくなっていく体に耐えきれず、着ていた学ランとシャツが悲鳴を上げている。
「………ハッ、ハァ…」
違和感が引いていく頃には、目の前には獣とも人とも言えない赤黒い毛で覆われた腕。
恐る恐るその手で、顔に触れる。
いつもよりすぐに手が届く鼻先。そのまま頭部に触れれば本来顔の横にあるはずの耳。
後ろを向けば、太く長い獣の尾が視界に入る。
――――また。まただ。
もう二度とならないと、なりたくないと思っていた、人でも獣でもない歪な生き物がそこにいた。
「………ワウ……ゥ…」
何か話そうとしても、助けを求めようとしても、言葉は獣の鳴き声として虚しく響くだけ。
突然こんな所に飛ばされて動揺でもしたせいだろうか。
いや、確かに戸惑いはしたが、《あの時》のようにそこまで大きな感情の変化があったとは思えない。
事実自我は保てている。それに暴走というよりは、変化を抑えられないというような。
「…………」
――――異能が、強くなってる?
赤く染まった景色を見渡す。誰か他にいないか。
まず沙和子や親父のことが頭をよぎる。この空間に自分の身内や知り合いも来ているに違いない。
とりあえず誰かを探さなくては。ここから、動かなくては。
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このハザマで、改めて目の前で説明を聞いて一番不安だったのは、《アンジニティはイバラシティの住人になりすましている》という部分だった。
もし自分の知り合いがアンジニティだったら?
「…………」
そうなったら、戦わなければいけないのだろうか。それとも向こうは、躊躇なく倒そうとするのだろうか。
そもそも、なりすましているのならイバラシティでの姿と同じとは限らない。
ここで出会って、そいつだと気付けるのだろうか。
――――とはいえ自分もイバラシティとは全く違う姿なのだし、自分だと気づいてもらえない可能性だってあるのだが。
この獣が《獅童美和》だとわかる人間は、親父と沙和子と羽柴と、鳴海。
そして恐らく、蜜だけだ。
厳密には獣の姿になったのを知っているだけで、この姿―――所謂《人狼》の状態でミツに会ったことはないが。もし、アンジニティだと思われたらどうしようという不安がよぎる。
今まで一人なんて平気だったのに、急に心細くなる。怖い、と思ってしまう。
それは、ハザマにいるからなのか。この姿だからなのか。
そうしていつの間にか止まってしまった歩みを急かすように、嗅ぎなれた匂いが鼻をかすめる。甘ったるいチョコレートと、それに交じるいつもより更に冷たい匂い。
――――ミツ?
すぐに辺りを見回すが姿は捉えられない。
――――もしアイツがアンジニティだったら?違う姿をしていたら?
鼓動が早くなっていく。全身の毛が緊張からざわりと逆立つのがわかる。
「バカ犬?」
ふと掛けられた声にビクリと体が跳ねてから、恐る恐る振り返って静かに声のする方を見下ろす。
「なんでまたでかくなってんだよ……脳筋め」
ただでさえ身長差があるのに、今じゃ頭二個分は優に離れているその表情は確かにイバラシティと寸分変わらぬミツのもので。
「黙り込んでどうした?」
歩み寄られて思わず身を引く。
今の状態はイバラシティにいる時とはわけが違う。手には鋭い爪が生えているし、力も体も人間のときより何倍もある。
ほぼ初めてと言っても過言ではないのに、そんな力をコントロールできるとは到底思えない。
「………ッ!?」
距離をとろうとまた一歩足を引いたところで、不意に手を掴まれて体が石のように固まる。
そんなことはお構いなしに、掴まれたままの顔を覆うほどの獣の手が、ミツの首元に持っていかれる。わずかに触れた爪先からじんわりと冷たさが上ってくる。
「ん、やっぱこの味はみかずだな」
そう言って笑うミツから逃げるように慌てて手を振り払う。
「………ウゥ…」
――――怖い。
これは、気軽に触れていい姿じゃない。
俺はもうこの姿で、不用意に誰かを傷つけたくはない。
だから―――そんな風に、笑わないでくれ。