
荒れた道路を歩いていたかと思えば、沼地に平原……目まぐるしく景色が切り替わるハザマの過酷な道行きを一時間も進んだところで、一行はやがて入り組んだ山間へと辿り着いた。
東へ進むには此処を通るしかないらしい。吸血鬼オニキスは山道の入り口を見付けるや否や、一切の躊躇もなく其方へ足を踏み入れた。
二人の少女は黙って男に従い、その後ろをついていく。
程なくして到着したのは、ハザマの怪物や敵対者の気配も無い小さな洞穴だった。
一行にとっては、ベースキャンプ以外で初めて一息つくことの出来そうな場所だ。
「丁度いい。此処で授業の続きをしてやる」
「お前たちは知る必要がある――イバラシティに対する敵。アンジニティについて」
しかし吸血鬼は近くの外壁にその背を預けると、少女たちが座ることすら待たずに口火を切る。
それもその筈だ。男が洞窟へ入ることを選んだのは、少女達への気遣いからではない。
戦争は既に始まっている。それを理解しているからこそ、彼は視界の開けた平原や挟撃の恐れのある山道では立ち止まらなかった。
この男はただ、話をするのに都合がいい隠れ場所を見繕っていただけだったのだ。
「あ、あの」
遠慮がちに小さく手をあげて、おずおずと男の話に割って入ったのはさきだった。
「割り込んですみません。あの、そのお話はちゃんと聞きたいんですけど、その前に。
お名前もなにも聞いてなかったと思って。聞いてもいいでしょうか」
「私はさき。早生さきです」
怪人は自分が合流する以前のことを断片的にしか知らない。
巳羽とさき、二人の少女が窮地に陥ったのを救ったのがオニキスである……それだけを道中に二人から聞かされていたが――まさか、互いの名前すらもまだ名乗っていなかったとは。
ぜえぜえと息を整える振りをしながら――尤も、実際に体力も回復していない中で足場の悪い道行きを休憩も無しに進むのは堪えたようだが――イデオローグも片隅で岩肌に体重を預けて会話に耳を傾ける。
兄が口を利けない状態にあると判断した巳羽は、さきに倣って自己紹介を続けた。
「……結城巳羽と、兄の、結城伐都です」
二人の話を聴き終えた後、それぞれを順番にじっと見据えて吸血鬼は漸く壁から背を離した。
「嗚呼、そうだったな。『お前達のことはよく知っている』から忘れていた」
「……、覚えてるだろう?シロナミの説明を」
前へ歩み出るごとに、外套に隠されていた骸骨そのものの腕が衆目に晒される。
それは異形である己の姿を知らしめるかのように、悠然と。
鋭い眼光を湛える筈の右眼も――何も無い、虚を示すばかりで。
「アンジニティの虜囚、吸血鬼の王オニキス。そして」
「――『天河ザクロ』。それがイバラシティでの名だ」
「ざっく、先生」
言葉にすることこそ無かったものの、さきの声と瞳の色は如実に感じた戸惑いを示していた。
巳羽もまた、異形の正体に息を呑んでしまっている。二人の視線はかの王に一直線に注がれていた。
怪人がさして驚きもしなかったことは、もはや何の問題にもならないだろう。
イデオローグは黙りこくったまま、己の正体を惜しげもなく明かしたオニキスを鋭く睨め付けていたものの、暫くして静寂を打ち破るように口を開いた。
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イデオローグ 「世界と世界の間に侵略戦争を引き起こす何者かの異能、ワールドスワップ…… そいつによってイバラシティにゃアンジニティの住人が紛れ込んだ。 そしてヤツらは侵略戦争の為の舞台であるハザマでしかその本性を現さない。そういう話だったな」 |
合流までの間に白南海が説明していた内容を反芻する。
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イデオローグ 「イバラシティを守る為には、嫌でも世界の影響力を賭けて争わなきゃあいけないって訳だ」 |
「『天河ザクロ』という男は最初から存在しない。ワールドスワップが生み出した、単なる虚像だ」
「ヤツにアンジニティであるという意識はない。純粋なイバラシティの住人として過ごし、この事態を憂慮さえしていた。……まさか自分が“ソレ”だとは思いもしなかっただろうなぁ」
厳然たる事実を、言葉にして繰り返す。敢えて少女たちの想いを踏み躙るかのように、男は冷酷なまでにそう言い切ってみせた。
「世界改変はそれだけの途方もない力を持っている、ってこった。てめえらはまだ、その足許すら見えちゃいない。……話を続けるぞ」
オニキスのアンジニティについての話は、要約すると以下のようなものだった。
・其々の世界から『否定』されて流れつく場所がアンジニティであり、本来外界への脱出手段は存在しない。
・資源が殆ど存在しない不毛の地であり、生き残る為に過酷な争奪戦が繰り広げられていること。
いずれもイバラシティの結城伐都として振る舞い続ける怪人の口からは到底語ることの出来ないものだった。
言葉を噛み締める一同を前にして、男は更に続ける。
「アンジニティの連中は種族も主義もてんでばらばらだが、共通した点がある」
「……奴等は、止まらなかった。否定され、牢獄に堕ち、求められず、理解されずとも、ただ己が為だけに」
「
″圧倒的な個″――如何なる状況下においても揺るがぬ己の『定義』」
「≪否定≫の最大の強みは、そこだ。世界がどうなろうが奴等には関係がない。自分自身の為だけにこのハザマでも歩き続けるだろう。……這いつくばるのがせいぜいのお前らとは雲泥の差だ」
「妙な気を起こさないよう、今のうちに釘を刺しておいてやる。いいか、アンジニティの奴等に
和解は絶対に成立しない。否定の方から口にしてきたら必ず虚言だ。『力』。イバラシティとアンジニティの間に通じる規則はそれのみだと魂に刻んでおけ」
「……ていぎ。和解、出来ない」
端々から拾い集める言葉の全てが、この侵略戦争の過酷さを物語っている。
さきはショックから思わず視線を逸らしてしまっていたようだった。
「イバラシティで、どれほどの言葉と思い出を重ねてきたとしても……?」
同様に、巳羽もまだ全てを受け入れられてはいないのだ。
怪人は知っている。男の言葉に何一つの誇張も偽りも無いということを。
だからこそ、イデオローグに出来ることはたった一つしかなかった。
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イデオローグ 「大丈夫だよ!そんな暗い顔すんなって!」 |
再び重苦しくなりかけたその空気を打ち破ったのは、喧しいほどに大きな声だ。
さきと巳羽の肩を後ろからばしばしと叩きながら、怪人は話を続ける。
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イデオローグ 「和解が出来ないからって一方的にやられちまう訳じゃあない。 おまえさんたち気付いてたか? 今のさきの異能は余裕で重いもんを持ち上げちまうし、巳羽の異能だってイバラシティにいた時に比べてとんでもなく“おまもり”の効力が強まってるんだ。 さっきの化け物もやっつけられたくらいにね」 |
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イデオローグ 「つまり! この“ハザマ”とかいう世界はきっと――イバラシティとアンジニティ、二つの世界の存在が対等に戦う為の舞台なんじゃねーのかな。
確かにオニキスの言う通り、侵略者たちには絶対に譲れねーもんがあるんだろうよ。だから決断が早くて、だから冷酷になれる。侵略戦争においちゃそれほど強い武器はねえ。
――だったらさ、おれたちもそういうもんを握りしめときゃいいんだ。自分にとっての『軸』ってもんを、立ち続ける為の理由を。奴らに出来ておれたちに出来ねえことはない……そーだろ?」 |
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イデオローグ 「イバラシティとアンジニティの間に通じる規則は力だけ。 逆に言や、力さえ示せるんならこっちの言い分も通せるってコト。 何も命を奪う必要なんて無いんだ。なんならハザマの強い化け物をやっつけて、間接的におれたちの強さを知らしめるってのもアリだ。“世界の影響力”ってのは多分、そういう風に増やしていくんだと思う」 |
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イデオローグ 「話し合いでどうにか出来ないなら、 それ以外の方法でどうにかすりゃあいい! なんとかなるさ、絶対。おれたちが生きてさえいりゃあね」 |
「
甘い。甘すぎる。“生きてさえいれば?”
そんな程度の気構えで希望が見出せる程、このゲームはお優しくねえぞ」
打ちのめされる二人を少しでも励ませるようにと取り繕うのも束の間、吸血鬼の怒りすら孕んだ言葉が容赦無くイデオローグを切り捨てる。
「36時間。平和ボケしたてめえらと最初から戦争する気で来たアンジティじゃまるで生かし方が変わってくる。――俺が侵略するつもりなら、まず開幕で、」
『おっくれまして―――ッ!!』
そこで、通信がそれを遮った。
発信者はCross+Roseの管理者アバター、ノウレット。
彼女が“創造主からのメッセージ”として繋げた回線から語られた内容は、まさしくこの侵略戦争の創造主に相応しいものだった。
術者への利を齎すことのない、制御不能の呪い。
それこそがワールドスワップなのだと、黒幕らしき女性の声は言う。
己の世界のために、争え。その言葉を最後に、通信は締めくくられる。
「
力を付けろ。価値を示せ」
再び静寂が訪れようとしたところで、吸血鬼の一喝が空気を一変させた。
無機質で冷淡だった声音には、確かに燻る火種の熱が灯っていた。
「アンジティはかつて、世界に否定された。そして今は俺の存在こそがお前達への《否定》の象徴だ」
「根本から覆され、ばらばらに砕かれた存在証明――己を『再定義』してみせろ。それで漸く、“敵”にとっての零時間目だ」
少女たちにとってはどれ程過酷な試練だろうか。
イデオローグは再び言い返そうとしたところで、二人の少女の表情にはっとする。
――彼女らは憔悴こそすれ、絶望はしていないのだ。
幼いながらも受け入れ、抗おうとしている。それはオニキスとの戦いの折にも垣間見られたものだ。
彼女たちは駒ではない。それでも、戦士として覚悟を決めるつもりならば――
イデオローグはそれ以上オニキスに対して反感を示すことは無かった。
「……俺が戻ったらすぐに出発する。準備しておけ」
待ち伏せをされていないか哨戒してくるつもりなのだろう。
オニキスが洞窟から去ったあとの静寂の中で、怪人はただ、己の定義について考え続けていた。