
時は遡る。
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トキ 「今からそこに行く。 待っててね……利夜♡」 |
──Cross†Roseの画面を閉じる。
チャットの送信にはタイムラグがある。
このメッセージが届くのは、およそ1時間後。
位置は確認した。距離はかなりある。
常人であれば、走って向かって3時間は掛かろうか。
その上、ここハザマ領域では常に戦闘の危険がある。
自身の不在は、同行しているメンバーに負担を強いることになる。
偶発的に発生する戦いの一つ一つが、この侵略戦争の情勢に影響しているとすれば、
ただの一敗であっても、極めて大きな意味を持つ。
万全の状態で戦い、敗北したなら納得もできよう。
だが、端から駒落ちしていたが故に負けるなど、滑稽にも程がある。
であれば。
万里に等しいこの荒野を駆け抜けた上で、
1時間以内に、帰還する。
それを成し遂げる必要があるということだ。
……不可能だ。現実的に考えて。
常人であれば、往復はおろか片道で3時間。
常人であれば、この荒廃した道を進むだけで疲弊する。
常人であれば、まず計算するまでもなく悩むにさえ至らない。
不可能だ。常人であれば。
しかし彼女は常人ではない。
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トキ 「……ごめん、みんな。ちょっと、行ってくる」 |
言うが早いか。
傍らの水溜まりに視線を落とす。
さてそれは水溜まりであっただろうか、
それとも今しがた“くびり”殺した獲物の残骸だったろうか。
重要な事実は──
その水面に、かの鬼の瞳が映り込むということだ。
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トキ 「──“眩惑の魔眼”──!!」 |
燐光が炸裂し、彼女の異能が発動する。
視線を媒介とした暗示のチカラ。
それは己自身さえ対象に含まれる。
そうしてイバラシティでは、自身の異能を身体強化と偽っている。
ああ、そうだ、そうだとも。
鬼の身体能力。
常人離れしたバケモノの力。
それを暗示で以て増幅強化すれば……
……届く。
いや。
届かせる。
斯くして鬼は、赤い魔境を引き裂く白光の尾と成った。
一心不乱に野を駆け抜ける。
その速度はまさに常軌を逸する。
熱を帯びた吐息を散らし、まるきり空っぽになった肺へ冷えた空気を総動員して、
全身全血の筋繊維と細胞を奮い立たせ、叫び軋む限界を暗示で取り払い。
そうまでして一ッ直線に疾走しながら、鬼は想う。
何故?
あれはたかが人間だ。
人間は等しく捕食対象に過ぎない。
ましてイバラシティの住人など根絶やしだ。
鬼人・兎姫に躊躇などない。
鬼人・兎姫に呵責などない。
そんなものは既に、慣れ親しんだ上級生を手にかけた時に捨て置いた。
……慣れ親しんだ?
いいや、いいや!
そんな事実など、もはや欠片も有りはしなかった!
であれば、なおのこと!
総て人間は滅ぼさねばならぬ。
クラスメイトも嘗ての友人も知ったことではない!
現に彼女はそう在った。
級友には既に明白に告げている。
道を阻めば殺して仕舞うぞと。
それは脅かしや交渉の域には初めから無い。
事実だ。邪魔をするなら容赦はしない!
そういう紛れもない事実を単純に再確認しているに過ぎない!
早乙女ちえりへの心配もそうだ。
あれは彼女という人格への気遣いではない。
あれは彼女という存在を害された場合に、
己の同盟者たる十日夜レキの士気が下がることを懸念しての、
ただそれだけの理由から成る、まったく合理的な判断に過ぎない!
故に、
故に、
故に、
故に!
この全くの非合理が、分からない。
どうしてここまでする必要がある?
他と何も変わりない。
取るに足らぬ下等生物の一個体!
紡ぎ重ねた思い出など万にひとつもありはしない!
たかが!
……たかが一匹の人間ごときのために!
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トキ 「ッ……」 |
不愉快だ。ひどくひどく不愉快だ!
何故、何故、
……何故。
……方針は決まっている。
最初からひとつきりだ。
月瑕利夜が己の敵であるなら殺す。
……それだけだ。
その時はとびきり丁寧に、とびきり残酷に、
とびきり慈愛を以て、欠片ひとつ遺さず殺してやろう。
あの異能のことを思えば、そうしなくてはならない。
そうでなくても、きっと、
リヨはそれを望むだろうから、
…………。
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トキ 「……ぁあッ!!」 |
鬼が吼える。
千里を駆ける。
如何にして。
如何にして事を運ぼうか。
あれは馬鹿馬鹿しくも己の姿に動揺するだろう。
その隙を突いて喰らってやろうか。
抱擁のひとつでもしてやれば、
愚かしくも警戒を解いてくれるだろうか。
全く下らないありさまだ。
すべて嘘だったのに。
すべて嘘だったのに。
すべて嘘だったのに。
すべて、……。
……一心不乱に野を駆け抜ける。
その速度はまさに常軌を逸する。
熱を帯びた吐息を散らし、まるきり空っぽになった肺へ冷えた空気を総動員して、
全身全血の筋繊維と細胞を奮い立たせ、叫び軋む限界を暗示で取り払い。
そうまでして一ッ直線に疾走しながら、
……鬼は、その姿を捉えた。
──そして、残照へと至る。