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それは。
幸福の記憶。
偽りの街に住む。かれらの記憶。
愚かな誰かの理想の形。最期まで求めたもの。
そんなものは、在り得ないのに。
夢と現の狭間。そこに一人の男がいた。
その男は、和弘と言った。
彼はある養護施設の園長である。
「……巫山戯んな」
──紛い物のイバラシティにおいては。
“和弘”
『まほら園の園長』。アンジニティの住人。
ぼろ切れを身に着けているが、
格好と振る舞いから現代人と推測できる。
「ワールドスワップだったか?
どうしてそんなまどろっこしいことしなくちゃいけねえんだ」
薄汚れた格好の男は、苛立ったように舌打ちをする。
廃墟の壁に背を預け、忙しなく足踏みをしている。
「とっとと奪えばいい。そうすりゃ、俺も何もかも元通りの生活ができるんだからよ」
数年前、男は否定の世界へ堕とされた。
その日から、文字通り死に物狂いで生きていた。
化け物だらけのこの地で身一つ、何度も死にかけた。
かの地には気を晴らすための酒やタバコといった嗜好品はおろか、十分な食料もなく。
地獄のような日々を強いられていた。
……唯一、無抵抗な住人を探し暴力を振るう時だけ、胸がすく思いがした。
元の世界でいう“サンドバッグ”の代わりは此処には幾らでもいた。
そして元の世界と違い、その行為は咎められることもない。
「ああクソ……」
ハザマを訪れてから、何度目かの悪態を吐いた。
苛立っていた。こういう時、どうしていたか。
答えは単純だ。暴力の行使。弱者の蹂躙。
今まではそうしてきた。つい先刻も、出会った生物を虐げた。
しかしそれでも、男の腹の虫は収まらなかった。
「なんでまた。ガキどもに関わらなきゃいけねえ」
一時間毎に流れ込む記憶。それが男を最も苛立たせている要因だった。
もやしのような、腰の低い男。
児童養護施設で子供に慕われる園長。
時事に疎い穏やかな人物。
それが己に与えられた役だった。
男にとって、そのへらへらとした振る舞いが酷く癪に触った。
その善人然とした人格が己が脳味噌に押し込まれるのだから、堪ったものではない。
何より、男は子供が嫌いだった。吐き気がするほど。子供という生き物が。
そして。
あのこどもを目にするのは、決して初めてではない。男はこどもをよく知っていた。
例え紛い物の、模倣であるとしても。それは実に不愉快な事実だった。
認めたくはないが、男自身が否定の世界へ堕とされた理由が“それである”と思われるからだ。
「ハア……」
じとりと、厭らしい溜息を濁った空に放る。
嗚呼。
こんな場所でも、天は何処までも高いのだなと。
こんな場所でも、その隙間には雲が流れているのだなと。
こんな場所でも、花弁が舞っているのだなと。
「……」
「花びら──?」
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「──こんなところにいたんだね」 |
違和感を拾い上げたのと、声を掛けられたのは殆ど同時だった。
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「探したよ、“カズヒロ”」 |
「、」
男は咄嗟に反応ができなかった。
「ッ、なんで」
不自然に筋肉が硬直した。
先ず、背に汗が噴き出るのが分かった。
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「……なるほど。その姿。きみも在り方を受け容れてもらえなかったのだね」 |
傍らのこどもは、笑ってこちらを見上げていた。
もし──この瞬間生死の駆け引きが行われていたならば。男は既に死んでいただろう。
それほどの動揺と間。
「く」
「くるな」
男は建物に沿い、後ずさり、後ずさる。
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「おや」 |
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「そう怯えることはないだろう? きみはついさっきだって、作楽誘乃の姿を見ていたはずだろうしね」 |
煙のように男の傍に現れたそれは、にこりと笑んで頭を傾ぐ。
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「それにしても……ああ。ぼくにとってはほんの刹那であるけれど。 きみにとっては久方振りかな? また会えて嬉しいよ」 |
「……」
「……ば、ッ」
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「ば?」 |
それは、きょとんと瞬いてみせた。
その愛くるしいともいえる仕草が。恐怖の底に苛立ちを沸かせる。
人間を感じさせない態度。変わらない。なにもかも。
「化け物……」
「結局、本当に、それがお前の本性だったんだ。悍ましい、まるで人間じゃない……ッ」
「俺を否定したのは、お前なんだろ」
「っ……これ以上近づくな、殺すぞ……!」
男は湧き上がる恐怖を、握った拳で誤魔化し、それを鬼気迫る形相で睨みつける。
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「あれ、まあ。ぼく、随分と嫌われているみたいだね」 |
「……ああ、嫌いだ、気色悪い!」
「お前はいつもへらへら笑いやがって、」
「アイツが死んだ時も、」
「思い切り殴りつけた時も、今みたいに笑っていやがる!」
「気持ち悪いんだよ……ッ!!」
言葉を重ねるごと苛立つとともに、忘れ去ろうとしていた怯えも膨らんでいた。
男は混乱していた。報復を恐れていた。
少なからず数年あの世界を生き抜いたはずであるのに。
こんな、ただのこどもの形に。生理的に恐怖を抱いた。
柔い笑みに相対して、がたがたと芯が震える。
「お前は化け物だ。お前は死んで当然だった!」
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「……」 |
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「カズヒロ? 怖がらないで。きみは勘違いをしている」 |
それは穏やかに語りかけ、微笑む。
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「それは、ぼくの傍で眠っている子を重ねているのだろう? ぼくがきみを傷つけることはないさ」 |
大人に成り切れなかったこどもを、諭すような声。
──男は沈黙した。
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「可哀想に。随分と疲れてしまったのだね。 ……安心して。ぼくならきみを救ってあげられる」 |
親に成れなかったおとなを、なだめるような声。
──男は沈黙する。
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「ぼくはきみを迎えに来たんだ」 |
その声は。生涯の路頭に迷った人間に、手を差し出す。
──男は沈黙していた。
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「だから──」 |
……だから?
──かつての無理解の瞳が、私を見ている。
迷わなかった。
男は瞬時に自らの力を発現させる。
物質の創造。対価は、血中の鉄。
ごく単純なもので良いと──鉄パイプを。隠すこともなく右手の内に生み出して。
「──巫山戯るのも大概にしろ!! 化け物ッッ!!!!」
血液が、零れている。
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「少し──手荒になってしまったかな」 |
脆い何かがひしゃげる音がする。
生温かい柘榴の中身が転がりおちる。
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「でも皆の為だから、こればかりはね。 ……うん。これでカズヒロともずっと一緒に居られるよ」 |
大きくうろのように口を開けた幹が、ヒトの形を飲み込んだのが数秒前。
ヒトだったものと言葉を交わし始めてからは、所変わって暫く後の出来事だった。
それは──その桜の巨木は、男だったものを食らっていた。
無垢のままのかげぼうしは。
その“戯れ”の様子を、ひとつぶん満たされたというように。
微笑ましげに眺めている。
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「大丈夫だよ」 |
それはヒトを好いている。
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「ぼくはきみを理解してあげられる」 |
その行為は、それにとっての愛情表現であり。この因果が逆転することは決してない。
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「そう──番を失って寂しかったんだね。 そうして、目につく全てが怖くなってしまったんだ。可哀想に」 |
「ヒトを愛している」からこそ「ヒトの在り方を己のものとする」。
それは感情や記憶、個としての全てを享受することを意味する。
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「でもやはり、暴力は好ましくないね。 しかし……きみの子は、それでもきみを好いている。ヒトというものは本当に面白いものだね」 |
木の肌に滲む鮮紅は、じわりと内に馴染んでいく。
堕とされるほどに肥やされた命脈の、そのひとつとなる。
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「大丈夫だよ。これできみも、ぼくの“ともだち”だから。 もうひとりじゃない。寂しい思いなんてしなくて良いんだよ」 |
それは長い時をかけてヒトを愛している。
それは長い時の中でヒトを害してきた。
それはヒトを学び、把握しながら、永劫“理解しない”。
ヒトと相容れようとする、決して相入れてはならない化け物である。
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「さて。暇も十分かな。 ……そう。同盟も背盟も、些細なことだ」 |
その化け物は、この地の一切を“ヒト”と見做しながら。
その罪を、鮮やかに咲き誇らせている。