2.『境界』
11月の狩猟解禁日を超え、秋の山の実りで肥え太った獲物を追い続けてしばらく――
罠に上物の雌猪が引っ掛かったと連動させた監視装置から、スマホに通知が来たのは深夜のことだった。
安眠を中断された不快感を噛み殺し。手早く眠気をシャワーで一蹴して準備を整える。
捕縛された獣は暴れ回るので、その間に肉はやせ細り、疲労から肉質は急激に劣化してしまうからだ。
クオリティが高い内に仕留め、うまく血抜きをせねば高品質品を卸せやしない。
即死させても血抜きはうまく行かないなど色々と制約も多い。
肉に水気が多く鮮度が困難な鹿ほどではないが、それが厄介な仕事であるのは痛い経験で学んでいた。
それに鹿と異なり猪というのは、人間にとって戦車のようなものだ。
突進され、危うく当たり所が悪ければ簡単に命を落とす。
牡丹肉はそれなりに高く売れるが、リスク分がその中に含まれている。
秋にアウトレットで購入したモッズコートを着込み、首にマフラーを念入りに巻く。
確か、大学の同学年であり一之瀬家の同居人であるハイネと一緒にアウトレットに遠征して購入したような記憶がある。
自室の施錠したガンロッカーから愛銃を取り出し、弾薬は予備を含めて携行しておく。
山歩き用の保存食――バランス栄養食のキャリーメイトやペットボトルのミネラル水などはリュックに常備してある。
遭難用にビタミン剤やらシュラフ、ファーストエイド・キットも整備してあるので不足はないだろう。
多少重いが炊飯用の固形燃料も補充したばかりだ。浄水剤も十分。
あとは台所で熱い紅茶とマグに注ぎ、すずめの作り置きの夜食を朝食に失敬するとしよう。
こうして一之瀬家を出立したのは、日の出前だった。
祖父譲りの愛車に荷物を放り込み、カスミ区からコヌマ区方面へと深夜の県道を法定速度で飛ばしていく。
そのまま入りくねった山道に入り込み、目的地近くに愛車を駐車。
あとは懐中電灯を頼りに山岳の傾斜に茂みを掻き分けて入り込み、罠を仕掛けたポイントへと向かう。
獣道まで辿り着いたところで愛銃をケースから取り出し、セッティング。装填しておく。
山歩きのコツは適度な休息が重要で、昔、爺さんに教わったテクニックだ。
カロリー補充に砂糖とミルクを存分に放り込んだ仏蘭西紅茶を時折飲みながら、小休憩を挟む。
足裏のマッサージもしておきたいところだが、この時期のイバラシティは寒い。
これから獲物を担いで山を降りる事を考えれば、アルバイトにハイネを叩き起こしておくべきだったかもしれない。
上物の牡丹肉はかなりの高額で売れる為、来年度の学費を考えればアイツにも悪くない話だろう。
もちろん、実家との仲が険悪な俺にもありがたい話なのだが――
それに牡丹肉は中々美味い。スジ肉や赤身はそこまでではないが、上質のロース肉となれば高級ジビエの一種だ。
女性には引かれる可能性もあるが、病院坂や近日ホームステイ予定の異邦人の歓迎にも使えるかもしれない。
最低でも、すずめは喜んで調理をしてくれるはずだ。
赤味噌と白味噌を上手く混ぜ合わせた特製のスープで煮込んだ鍋は絶品だ。
寒さに冷え始めた身体でそれを想像すると、恋しくて溜まらない。
視界は悪くとも行きがけの駄賃に、偶然遭遇した獲物も幾らかは狩れた。
小動物や鳥程度なら愛銃はなくとも、異能でちょいと石礫を当ててやれば狩れるのだ。
売れるほどではないので、こいつらは自家用かな?
山の悪路と傾斜に多少苦戦しながら、山林を掻き分けていると日の出の時間が訪れる。
東の空に仄かな明るみが見え始め、黒一色の世界は色を取り戻して――
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星見 蓮 「――ここはどこだ?」 |
幻覚だろうか? 一面には自然林ではなく、廃墟が広がっている。
逢魔が時は早朝ではなく、黄昏時、夕方だろう? 狐に化かされた気分だ。
暗く紅い、逢魔が時――
何かの記憶がフラッシュバックする。いつぞや世間を騒がせた白昼夢の記憶。
空が部分的に異様な色に染まった異界としか形容のできない光景。
荒れ果てた荒廃の地方都市。変容した荊街。
日の出というのは確かに世界が変容する瞬間で、現世と幽世を分ける境界線だったのかもしれない。
この世界はアンジニティと呼ぶには、慣れ親しんだ荊街に近すぎる。
だとすれば、ここは狭間だ。境界線の世界だ。
現世と幽世の交わる中間の特異点。
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星見 蓮 「アンジニティ、ワールドスワップ……狂言ではなかったのか?」 |
問いに答えるものは誰もいない――。