甘ったるい香りが纏わりついてくる。
此処は何処?私は家で勉強をして、それからご飯を作らなきゃいけないのに。
チョコレート色の海で、もがいて、足掻いて、何かに掴まろうとする。
星も夜空も其処にあったのに、自分は沈んで行く。
────否、沈んでいるのではなかった。
変化しているのだ、同化しているのだ。
ゆっくりと、自分の肉体がチョコレートの海に溶けていく。
嗚呼、そうか、思い出した、
私は ヒトではないんだ。
知世子は自らのすべき事を思い出して、ひたすらに四肢を動かす。
必死に波を掻き分けて、解ける自分を
『否定』する。
ざぱ、と腕が水面を裂いた感覚が、あった。
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*** 「 」 |
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*** 「 あ 、 」 |
チヨ子が初めに見たものは、
どうにか原型を留めようと溶けては固まる自分の掌だった。
理外のチヨ子
ハート型の箱に入った、スライム状のばけもの。
理の外へと放逐された者。
何処にでもいて、何処にもおらず、
なにものでもない、虚ろに成り行く存在。
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チヨ子 「……はぁ、 もう そんな時間かぁ……」 |
大事な一時間が、やって来た。
なのにチヨ子は暫く呆然としたまま、その場から動けなかった。
脳に壊れてしまいそうな程に詰め込まれる記憶の整理に、どうしても時間がかかってしまって。
ふと、イバラシティでの事を思い返す。
学校に行ったり、友達を作ったり、遊びに行ったり。
チヨ子は初めて人間らしい生活を知った。
その中でいつの間にか、何の前触れもなく周りに親しい人々がいた。
嘘偽りの幼馴染みや、仲良しのお兄さん、家族の皆。
今思えば全てが捏造の記憶で、何の感慨もないものだけど。
なんだかんだ、イバラシティでの事は楽しかった。
彼等がどちらか、それとも侵略に関係がないのかは会うまで分からないけれど。
もし仲間なら共に行きたいし、敵ならばせめて戦いたくはないものだ。
何も知らないなら、知らないまま、それでいい。
否定の世界はとても劣悪だ。
それに、何より、世界から存在を否定された者が集まるということは。
共にアンジニティへと来てしまった大事な恋人と同様に、その否定された者達は“なにものでもない”という烙印を押されてしまった訳で。
何となく、目を細めて空を見る。
あの嘘偽りの周りの存在達も、そうだったなら?
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チヨ子 「…………、……」 |
なにものにもなれない辛さは、よく知っている。
チヨ子は、ぽっかり空いた左胸から熱と鼓動を感じた。
それは何となく、此処より前にいた世界で見つけた
“命”と
“心”と
“愛”が、此処にいても存在する証明のように感じられる。
それさえあれば、なにものでもないと世界に否定されたとしても、チヨ子はまだチヨ子でいられる気がした。
──チヨ子はそっと、それを大事にするように左胸に溶けかけの手を当てる。
地面にある水溜まりが映すのは、人間の模倣に失敗した出来損ない。
だからと言ってチョコレートとして食べられもしない、なり損ない。
だけどチヨ子はチヨ子であると、示してくれた人がいる。
──また、自らの使命を、思い出す。
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チヨ子 「……チヨ子は、だいじなヒトに しあわせに 生きてほしい」 |
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チヨ子 「……、 ……だから、 あきらめたく ない」 |
口を開いてみると、上手く発音が出来ない。
辿々しい声で自らの気持ちを言語化してから、べちゃりと箱の中に沈み込む。
今まで幸せに出来ず苦しんだ分だけ、奪われた分だけ。
自分が、いっぱいいっぱい、大事な人を幸せにしたいから。
その為だけに、チヨ子は二人で此処までやってきたのだから。
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想えば想う程、気持ちは強くなっていくもので。
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チヨ子には、全てを救うなんて無理だから。
せめて、せめて、周りに輝く星達を抱き締めて。
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夜空の王子様の、手を引いて。
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誰にも傷つけさせないように、護る為に生きるのだ。
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もう二度引き裂かれないように、私はなにものでもなくなったのだから。
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甘い平穏を此処で味わうと決めた。
チョコレートのように甘美で、まろやかな幸せに浸ると決めた。
綺麗な星空を、咲き誇る花畑を、何処までも広がる海を、
彼に見せたいと、願ったから。
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歩みを止めるという選択肢は、何処にもなく。
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あどけない少女は、ただ淡々と侵略への覚悟を固めていく。
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少女の口から、何かが這い出す。
夜空色で、星を浮かべた、けたけた嗤う
何か────
────否、“なにものでもないもの”が、生まれ出る。
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チヨ子 「ごめんね、 でもね、 しあわせにしたいんだ」 |
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チヨ子 「なにものでもなくたって、 夢を見たって いいでしょう?」 |
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チヨ子 「追いかけたって、 ゆるされる でしょう」 |
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チヨ子 「わたしたちは これ以上 虚ろになりたくない」 |
誰に言うでもない言葉が、宙に舞って溶けていく。
それと同時に、ハート型の箱に付随していた黒いリボンが先端にある手で、ゆっくりと道を進み始める。
ずずず、ざり、ざりり。地面と擦れて音がなる。
自分は未だに箱の中で目を閉じたまま、現実からなるべく遠ざかる為にお守りを包み込む。
大丈夫、大丈夫。
チヨ子はこんなに頑張った。そして、これからも頑張るから。
負ける筈がないんだと、自分を鼓舞して。
赤い物体の前まで来れば、ずるりと中からその姿を現した。
へにゃり、へにゃり。
歪な笑顔と共に、明滅する偽の星の光を揺らす。
理の外のチョコレートは、ぐちゃりと音を立てて口を開いた。
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チヨ子 私が絶対に、今度こそ護り抜いてみせるから 「王子様とお姫様は、ハッピーエンドにならないと」 |
祈るような仕草と共に、黒いリボンと異形の落とし子達はそれに襲いかかる。
命も心も愛も、願いも祈りも。ちゃんと存在している。
チヨ子はそれを今だって忘れていない。
だからこそ、チヨ子はひたすらに前に進むのだ。
それらを否定された存在たちに、そして彼に差し出す為に。
守りたいものを、大事にしたいものを、譲らず貫き通す為に。
────譲れない物がある同士は、ぶつかり合うしかないのだ。