
「終わり」というものに、憧れていた。
平坦に流れる思考の中、電気も点けず、カーテンの隙間から月の光が一筋のみ指す暗い書斎でただ何をするでもなく座っている。こんな事を考える時間もどうせ無駄なのだ。しかし何も考えずにいようにも、いやに働く頭は意思に反し動き続ける。思考を止める術を自分は知らない。もし知っていたとするならば、このような思いはしていなかっただろう。部屋には自分の呼吸音と、朝から降り続く雨の音だけが響いていた。
ごめんなさい、皆。やめてしまいたい。何もかもを。もう、おわりにしてしまいたいと思ったのだ。無気力に机に伏せながら、白紙の原稿用紙の上に転がるペンを何の意味も無く視界に映す。その横にすうと走る月光の糸を、力のこもらぬ人差し指で同じように、すう、となぞる。それをしたから、何が起こるという訳でもない──無意味だ。だからといって、今日はペンを握る気には、到底なれなかった。何もしていないのにまどろみ出す瞼をそのまま閉じる事すらも億劫で、その事にすら嫌悪感を抱き、自己否定のサイクルを早めていく。どどめ色に漂う空気を重たく吸い込み、自重で潰れそうになる精神の空気を抜くように、吐き出した。
そうしていたところで、ピピ、ピピ、と腕時計の時報が鳴った。頭を少し起こし時間を確認すれば、時刻は23時を回っていた。……そろそろ、行かなければならない時間だ。
鉛のような身体を持ち上げ、壁に掛けた上着を羽織る。
*
*
12月6日の夜。日付も変わりそうな頃に彼は家を出て、森の中を歩いていた。左手には長い間使われていたであろう蝙蝠傘。左手には、自分には不釣り合いな小さい花束。サク、チャプ、と水たまりとともに草を踏めば、ラッピングされた小さな白い花がゆらゆらと揺れる。土に染みた雨水が靴の中を濡らすまで、そう時間は掛からないだろう。
傘に上半分を遮られた視界は、雨降りだというのに白く澄んだ月明かりで照らされている。空を見上げれば、木々の隙間から丸く月が輝いていた。この森はいつもそうだ。どんな天候であれ、朝であれ、昼であれ、夜であれ。ここはいつでも、満月が夜空に浮かんでいる。そういうふうに、自分が「作った」のだ。
──この森は、自分の作品だ。自分の異能で、自分以外の者に入り口が見えないように作った。【偽戯の手帳】と誰かに名付けられたこの異能は、そういうことが、可能であった。無いものを生み出し、有るものを消す。現実に想像を「上書き」し、虚実を反転させる。やりようによれば、どんな事も出来るだろう。ただこの異能は「自分が直筆で書いた文章や単語」のとおりにしか作用せず、書いた文章を音読しなければ効果は無かった。紙とペンが無ければ無力だし、効果も文章量によって左右されるので、便利といえば便利だが、使い勝手がいいといえば、あまり良いものではない。とはいえ、こういう架空の風景を自分の為に書き、こうやって実際に歩けると言うのはなかなかに悪くない気分だった。
……夜の路を進んでいけば、ようやく開けた場所まで出て来ることができた。さや、と涼やかな空気を連れて緩やかに風が通り抜けていく。この場所は木々に囲まれ丸く形を取った広間のようになっていた。月はようやく木陰から顔を出し、森に空いた丸窓からここを見下ろしている。濡れた草むらが月明かりで碧く輝き、夜だというのに明るく見えた。
その奥に、ぽつり。
 |
小さな岩がある。 |
その岩の前へ、静かに立つ。少し屈んで、岩の上に乗った葉を取ってやる。風が運んできたのだろう。ぱっぱと地面に捨て、他に変わりのないことを確認してから、また立ち上がる。雨足は少し弱くなり、ぱらぱらと小さい水の玉が岩に跳ね返っては小さく砕けて地面に吸い込まれていく。その様子を傍目に見ながら、視線は自らの腕時計に注がれていた。一目盛ずつ、一目盛ずつ上へと目指していく秒針を目で追う。……じきに全ての針が真上を指した。ピピ、ピピ、と時計の時報が鳴ると、小さく「よし」、と呟いて、
 |
小鷹 「……はい、誕生日おめでとさ〜ん。」 |
気の抜けた台詞と共に、ぱさ、と花束を岩の前へ置いた。
そのまま、頬を緩ませ岩に向かい言葉を落としていく。
 |
小鷹 「今日で幾つになる筈なんやったっけ。25?26? そんくらいやんなぁ。」 |
 |
小鷹 「そんで、今年で四年目か。早いもんで、ほんまにあっちゅうまやったな。あんたが死んだんも雨の日やったしなぁ。 ……悪いなぁ、ちゃんとしたお墓、用意したったら良かったんやけど。」 |
 |
小鷹 「注文出来ひんし、あんたの家の墓の場所も知らんしな。 あんたの墓建てられるのも、もう僕しかおらんやろ? こうやって誕生日覚えとんのも、あんたの事自身を覚えとんのも。」 |
 |
小鷹 「まあ、堪忍してや。あんたが死んだままでいられるように、ここに墓建てたんやし。」
「……なあ、死ぬのってどんな感じやったん?」 |
 |
小鷹 「痛かったかなあ、苦しかった? 寒いとも言うよな。 もしそうなら謝るわぁ。僕が上手く殺してやれんかったってことやしな……。 でも、誕生日に死ねて良かったやん! キリいいし! いつも死にたそうな顔してたし、 実際死にたい死にたい言うとったからなぁ。せっかくやから、僕が殺したろ思ってな? 僕もあんたに死んでほしかったし、ギブアンドテイクってやつやろ? 丁度良かったなぁほんま。」 |
 |
小鷹 「羨ましなぁ、僕も死にたいけど一人じゃ死なれんしなぁ。殺されてみるのもアリやと思うけど、ほら、僕度胸無いから結局死ぬの怖なってしもうてさぁ。まあまだやる事もあるし死ぬのはその後でもええかなって思うんよ。なあどんな気持ちで死んだん?悲しかった?嬉しかった?悔しかった?気持ちよかった?聞けたらええんやけど、まあ僕が殺したから無理やんな!もしかしたら死んだ気せえへんかったかもしれんなぁ、刺したり首絞めたり燃やしたりしたらそりゃなんかあるんやろうけど、僕が書き換えただけやろ?死んだってより消えたに近いかもしれへんね。そしたら地獄にも天国にも行かれへんのかな。そしたらすごく虚しいな!でも分かってくれてもええんやない?皆に忘れられるっちゅうことがどんだけ悲しくて寂しくて暗くて怖くて虚しくて辛くて」 |
──がさり。
 |
小鷹 「っ!誰?」 |
明らかに不自然に揺れた草影に、口を閉じすぐさま顔を上げる。草影の方を注視し、もし誰かが迷い込んできていたらどうするか考える。今話し掛けていたのを聞かれていたら、どうしようか、忘れてもらうしかないかなどと思いつつ、自分も動かずに居た。やがてまたガサガサと音を立て、黒く小さな影がひょこりと身を出した。
 |
旅鴉 「…………くぁ?」 |
顔を出したのは、一羽の鴉だった。自分の顔を見るなり嬉しそうにパタパタとやってきて、足元に来れば体を擦り寄せるように足元に纏わり付く。
 |
小鷹 「なんや、お前か旅鴉。心臓に悪いねんてほんま……びっくりしたやろ。 いい子にしとったか?せっかく顔出しに来てくれたし、 帰り送ってもらいたいな。ええか?」 |
語りかけながら、黒い頭を優しく撫でる。旅鴉、と呼ばれた鴉は心地よさそうに体を擦り寄せ、肯定するようにくぁ、と一つ返事を返した。いつでも行けるぞ、とでも言うように、翼をバサバサと広げて主張している。旅鴉も自分が書いて生み出したものだが、想定外に人懐っこい鴉になった。様々な場所を自由に旅して、飛び回る一羽の鴉。彼に与えた物語は、「誰かを連れて望んだ場所へ飛んでいく」というものだ。以前も自分の友人を、危ういところで自分の所まで避難させてくれた。彼の旅は頁を捲る間に終わる。あの時もきっと、すぐに運んできてくれたのだろう。翼を広げる彼に、ありがとなぁ、と礼を言う。鴉はまた一つ嬉しそうに鳴いた。
「そしたら行こか、旅鴉。僕らもそろそろ眠らななぁ……」
「じゃあ、また今度。」「ばいばい、せんせ」
ばさ、と一際強く羽ばたく音。──次の瞬間、森には誰もいなくなっていた。男も、鴉も。雨はいつの間にか止んでいた。そこには月明かりに照らされた墓と、花束だけが残った。
花束から一輪だけ覗くスノードロップが、雨に濡れ月明かりに光った。
*
*
。
そこまでが、彼の設定に基づいた、イバラシティで起こったとされた12月7日の出来事。
狭間の世界。
 |
小鷹 「……なんで」 |
自分はアンジニティの住人で。イバラシティへの侵略者。
アナウンスがあったはずだ。ハザマに来れば、記憶は戻ると。
嘘だ。無い。記憶が無い。返ってこない。アンジニティにいたはずの、"自分の記憶がまるで無い"。そもそも自分がアンジニティの住民だったのかもわからない。おかしい。彼の事を書き換えたのはイバラシティの出来事であったはずだ。ならばそれは嘘だ。あの出来事もなかったことになる。しかし自分の今の姿は、
 |
小鷹 「…………どんな顔してたっけ、俺……………………。」 |
今の姿は、「自分の存在を彼に上書きした」姿だ。自分の本来の姿ではない。これは自分ではない。彼でもない。
──なら、誰であるのだろう?
揺らぐ。自分が保てなくなる。それを認識した瞬間、指先からぼたり、ぼたりとインクが溶けだす。視界が黒に、赤に明滅し、
 |
小鷹 「……っ、ぐ」 |
げほ、とそのまま大きく咳き込み、吐き出したインクで自分の輪郭が溶け、
無くなる、 自分が 形を保てず 溶けて
消えて、 何もわからないまま、 そのまま
黒いインク溜まりと 意識だけが残った。
──カラン、と高い鐘の音が響く。
「何寝ぼけてるんですか。」
「貴方は今、"誰"でいたいのですか?」
……声が聞こえる。わからない。形を取れない。自分がなにものであるのか分からない。けれど、イバラシティでの生活は煩わしくも、確かに楽しいと思える時間があった。チヨちゃん、ソラちゃん、黒衣くん。あの子たちと一緒に居るのが、いっとう楽しかった。新斗くんと仕事するのも、好きだった。あの時間だけが愛しかった。
「なら、簡単な事です。帰ってくればいいですよ。そうでしょう?『
小鷹裕吉』さん?」
そうだ。自分はまだ、まだ『小鷹裕吉』のままでいさせてほしい。
勝手に消えないって、約束したじゃないか。
──瞬間、誰かに強い力で引き上げられる。インクの海から上がった身体は、徐々に輪郭を取り戻していった。激しく咳き込みながら、自分の掌を見る。黒いインクが集まり、徐々に"元"の形へと戻って行く。
 |
小鷹 「……新斗?」 |
 |
アラト 「はあい。」 |
自分を引き上げた声の主の方を見る。確かに友人の声だったそれは、元の姿の面影を残して違った姿になっていた。恐らくこれが、彼の本来の姿なのだろう。ありがとな、と礼を言う。どういたしまして、といつもと変わらぬ様子で返ってきた。自分の姿が完全に戻った事を確かめ、小さく安堵の息を漏らす。それにしても、これからどうすればいいのだろう。侵略と言えど、何をすればいいかなど分からない。
 |
小鷹 「なあ新斗、俺どないしよ。なんも分からへんねん。なんも覚えてへんよ?」 |
 |
アラト 「おや、それはいけないですね。……ここは一先ず、 貴方の友人方と合流してはいかがでしょう?」 |
ほら、と彼が指を空に向ける。Cross+Roseのログイン画面が開き、マップが表示された。
……成程。これを頼りに、あの子達と合流か。今回の目標は、それにしよう。