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脳裏に残った、最初で最後のこの森の記憶は、
開いて間もない目から見えた、おぼろげな光景。
深い緑を、淡い白と青の光が覆う、幻想の世界。
習わしどおりであれば、この場所に育ち、
いつしか求めに応じて外に出ていく。
神の使いとして人々に祝福を与え。
あるいは人々を守るために神力を用い。
その狐には終ぞ、元来望まれたことをする機会は巡ってこなかった。
生まれた森から、奪われて、いなくなってしまった。
爾来、在るべき姿を知らぬまま、
敵対するものに災厄を与え、生を断つために妖力を用い。
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倒れた少女の身体を抱いて、
狐は自分が生まれた世界へと戻る。
場所としては何も変わらない、少女のいる里の森の奥。
ただ、普通の人には見えない世界、
見えないだけで、常にそこにある、 怪異の住む世界。
自分がなにか行うにはこちらのほうがやりやすく、都合がいいし、
さっきのような追手がまだいる可能性もある。
そこら中にいる怪異が興味本位で手を出してくる可能性もあるが、
こちらから何もしなければ基本的になにも仕返してはこないし、
追手に比べればよほどましだ。
少女を木の根元に置いて、ヒトの姿から狐の姿へと戻る。
少女の顔色は、世界の色を差し引いても、血の気を失って青白くなっていく。
結局――数多の犠牲を強いて、
生まれた森に帰ってきたと思えば、
静かに過ごせるなどという都合のいい話はなく、
今も、他人の血に塗れている。
どこまでいっても、血で血を洗うような世界から逃れられないのであれば、
せめて最後に、目の前の少女を助けて終わりにしよう。
本来なら、きっとこのような目に合うことのなかった子を。
――ただひとつ、誤算だったのは。
この少女は、
こんな世界で生きていくことに
・・・・・・・・・
向いていなさすぎた。
何にでも手を伸ばして、
なんでも手で掴もうとして。
怖れもなく、抵抗もなく。
ただ真っ直ぐに。
自分が持ち合わせることはなかった性質ばかりで、
見ているだけでもどかしく思うぐらいに。
自分が持っていた力は尾が3本分。
追手を直ちに退かせるのに1本使った。
少女を助けるために、1本分を少女の内へ。
そして、この少女に霊的な素養は皆無と目されるので、
この致命傷が癒えるまで、最期の一本は、少女に憑く。
少女の傷が癒えたなら、あとは消えるまで、時間が過ぎるのを待つだけだ。
本来であればいくつも手順を踏む必要があるものの、
そのような猶予も、実現できる可能性もないので、
事前の準備も、合意も何もなく、強制的に執り行う。
人と狐の間で何かをする場合、狐笛の『音』が多くの場合要件に挙がるが、
『音』でなければならない必要は、あまりない。
要は、笛を介して、自分の情報が相手に渡りさえすれば良い。
自分の魂を、相手に移すように。
狐は、自分が持っていた狐笛をくわえる。
通例、術者が死ぬなどして、狐が笛を持ち帰るというような場合でもなければ、
狐が笛を持つことはないが、この笛は、この森に帰ってくる前に、
最後に自分を使役していた術者に渡されたものだ。
いわく、帰ってから、どうするかは決めればいいと。
ありがたく、そのようにさせてもらう。
狐は、動かない少女の身体に触れる。
目を覚まして、気づいたときには、
驚くといった程度では済まないだろうが、
そこは目を瞑ってもらうことにする。
少女に狐が憑いて、一命を取り留めて、そして目を覚ました時。
そこは、彼女にとってまったく見覚えのない森の中。
まだ頭の中がぼやけているせいか思い出せないが、
何かしないといけないことがある気がする。
すこし後になって、
彼女は、そこが学校の敷地の中だったと知った。
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イバラシティの5月の終わり。
音のない静かな夜更。
住んでいるマンションの屋上。
わたしはなにもなかった屋上に、仰向けになって転がった。
「だーめーだー。うまくいーかーなーいー」
チョークで見よう見まねの陣を描いてみたり。
なにかそれっぽいものを燻してみたり。
指を切って血を落とそうとしてみたり(これは止められた。)
狐笛を吹こうとしてみたり。
自前の霊力がそろそろ枯渇して消えていきそうな霊狐を
なんとか繋ぎ止めようと四苦八苦しているところ、
最初から薄々感じていたし、色々試して改めて突きつけられるが、
どうやら根本的に、わたしにはそういった霊力やら何やらを操るといった才能が足りないらしい。
昔聞いたような記憶によれば、自分の祖父母以前は割とその方面に長けていたそうだが、
隔世遺伝とかそういったうまい話はないようだ。
その世代あたりで才能が尽きたのかも知れない。
自分の親についても、そういった話はあまり聞いた覚えがない。
(聞かされていないだけかも知れないけど。)
3月や4月の半ばあたりまでは呼ばなくてもたまには出てきた狐は、
5月になってからは、用があって初めて出てくるぐらいになった。
それだけ消耗しているのか、温存しているのか。
自分がうまいこと、それこそ何かを召喚するみたいな力でもあれば、
自分の中に埋もれてるはずの狐の尾の霊力をぱっと明け渡すなどなんとでもできたろうに。
しかしないものをいくらねだっても仕方がないので、最後の作戦を試すことにする。
「こーかーげー。出てー」
ずるりと自分の中から狐が這い出す。
最初は驚きもしたが、とうの昔に慣れてしまった。
月の光が狐の身体をすり抜けるように通っていく。
それぐらい薄く、存在は弱々しい。
さっきまではそんな霊体に対して
なんとか契約などしようと試していたが、
そういう霊的な素養はないので。
もっと物理的に。原始的に。
「10秒だけでいいから、言ったら実体化して」
それが相手が消える時間を早めるというのは十分承知している。
もとより、おもっている手段が全部付きたらどうしようもないから、気にしてはいられない。
わたしの言葉に、狐は一瞬嫌そうな表情をした。ような気がした。
「逃げないでよ。
これは、きっと『お前がわたしにやった』ことのはずだから」
わたしはそれをやり返すだけ」
起き上がると、自分の首から提げた笛を手に持って、
体長だけみれば自分とそんなに変わらない狐に近づいていく。
「移してもらったんだから、それをちょっとでも、返すだけ」
狐笛を口に咥える。
そこでちょうど。
星がまたたく。
何が起きたのかは、分からない。
ただ、強く強く輝く光が、夜空を覆っていく。
流れ星というには強すぎる光。
でも、わたしにとっては、少しでも希望になる光。
「神使様に大切なお守りももらって、流れ星まで降ってきて、失敗するわけないよね!」
合図をする。
眼の前の狐の身体がほんの僅かな間、質量を持つ。
淡い月の光のような毛。
わたしは膝をついて、目線を合わせて、さらに近づいていく。
狐笛を介して、眼の前の狐とつながるように。
触れる。