*** Side : イバラシティ
風のそよぎが聞こえるような夜。
眠れずに、マンションの屋上で、寝間着のままコヌマの方角を見ていた。
不意に、微かな音が聞こえる。
注意していても、普通なら聞き落としてしまいそうな程度の、小さな音。
自分の首から提げる笛とは少し違うが、似た笛の音が、風にのって運ばれてくる。
直接、聞こえる音が思い出せるような記憶は、ない。
でも、自分の耳は、確かにその音を聞いた事があるかのように受け止める。
聞こえた瞬間から、その音が、耳に残って離れない。
自分の中で鳴り響く、ずっと消えない音として。
まるで、ずっと自分の中にあったかのように。
根拠もなにもなく、そこになにかがあると、第六感は告げる。
気づいたら、いまの服装も忘れて、音の方角へと駆け出していた。
いつか、どこかに置いてきてしまったらしい音を探して。
***
その日の夜。
少し、懐かしい場所の夢を見た。
自分のいた里の、森のなかの夢。
深い森の中。ところどころ木漏れ日が差す。
いろんな場所に、いろんな生き物の気配がある。
本当は、入ってはいけないと言われている場所だけれど、
何年か前から、大人に隠れてこっそり、入りこんでいる。
森のいちばん奥には、里の大人が束になっても敵わないような、とても妖力に優れた霊狐がいて、
子供は化かされて帰ってこられなくなってしまうのだとか。
その真偽はさておいて、それまでのわたしの経験上、帰れなくなった試しはない。
もとより里に狐が降りてくるような場所なので、この森の中にもたくさんの狐がいた。
里によく降りてきて、可愛がってもらうのに慣れているようなやつもいれば、
ヒトにはあんまり慣れた様子を見せずに、すました顔をしているやつもいる。
そのうち忍獣として、里の人間とともに戦うようになる狐もいれば、
この森を出ずに、ずっと居場所を護っている狐もいる。
ヒトにいろんな性格があるように、狐にもいろんな性格があるらしい。
そんな一匹一匹違う狐の表情を見るのが好きで、
わたしは大人に隠れながら、森の奥へ通っていた。
森に入りだして、大方の狐たちを知ってしまうまで、そう時間はかからなかった。
わたしは気配を察知するのは割と得意らしく、狐たちが少々変なところに隠れていても、第六感のようなものでビビッと分かってしまう。
隠れている狐たちからは、「またお前か」みたいな表情をされて、すげなくあしらわれた。
慣れてしまって逆に近づいてくるやつもいて、そういう狐にはいっぱい撫でたりしてあげる。嬉しそうにするのを見るのも好きだった。
毎日行くとバレるので、森に来られる日はそうやって過ごすのが日課になっていた。
森の奥の狐をほぼほぼ知り尽くして、しばらくたってからのことだった。
わたしは森の奥で、知らない狐の気配を見つけた。
森の中でもいくつか区分けがあるのか、狐が多く群れているところ、
一匹狼的な狐が多いところ、そして、ぜんぜん狐がいないところなどがある。
知らない狐の気配がしたのは、普段全然狐がいないところだ。
その場所にはなぜ狐がいないのかという理由は、わたしは知らなかった。
狐たちの表情を見ても、言葉で理解できるように伝わってくるものでもない。
テレビアニメでやっているように、動物の言葉が分かれば良かったけれど、
そんな便利な道具はわたしのポケットからは出てこない。
この時のわたしは、狐たちがいない意味も知らず、
知らない狐の気配の方に向かっていった。
それは、とても静かな気配だった。
どちらかというと弱く、放っておけば消え入ってしまいそうな。
気配の強さだけで言えば、図体が大きくて、小さいの相手にイキっている狐のほうが大きいかもしれない。
その狐が隠れていたのは、岩場の中の陰、
わたしも入れないような細い細いスキマの中。
立ってそこを覗き込むことは出来ず、岩の上に登って、
そのスキマを覗き込むように顔を出した
真っ暗なそのスキマを覗き込めば、煌々とした金色がわたしの視界を貫く。
敵意を出したつもりはないが、警戒されていることだけは分かる。
森で生活している狐たちは、多かれ少なかれヒトが近くにいることを知っているので、ここまで警戒を顕にすることは早々ないが、
そうすると、この狐は、普段ここにはいない仔なのだろうか。
暗闇で、身体の大きさは見えない。
視線と視線だけがぶつかりあう。
息が詰まるような時間だけが過ぎていく。
別に、目を逸らしたから負けだとか、そんなことは一切ない。
ただ、なぜか、その金色の双眸から、目を離せなかった。離してはいけない気がした。
それは、単に興味をもっただけなのか、物珍しさを感じただけなのか、
それとも他になにか感じたことがあったのかは、分からない。
ゆっくりと時間が過ぎた後、狐はこちらに害意がないことを分かったのか、
一度またたきして、視線を別のところにやった。
どうやら、頭を下ろしたらしい。
最初の一勝負(別に勝負はしてないけれど)を終えたので、
わたしはその狐に声をかけた。
もちろんその狐が言葉を解すると思ってではなく、いつもどおりの行動だ。
「こんにちは! 隠れるのが好きなの? それとも怪我でもしてる?」
再び、わたしはスキマの中にいる狐を見た。
一瞬、片目だけ開いて金色の光が見えたが、すぐに閉じられた。
あんまり心を開いてくれてはいないらしい。当然だろうけど。
ややあって、振られてしまったようだとわかったので、一旦退くことにした。
「また明日来るね! 明日は外に出ててよ!」
そう言い残して、その日はわたしは帰った。
そして次の日またこの場所へ来てみると、言うことを聞いてくれたのか、
そのスキマの中に、昨日の狐はいなくなっていた。
この日はいろいろ手を尽くして探したけれど、結局見つからなかった。
この日から、わたしの森の奥でのやることが、少し変わった。
新しく見つけた例の狐をまた探すこと。
その時は、もうこの森にはいなくて別のところに行ってしまった、
という後ろ向きの発想はぜんぜん浮かばず、
なぜか、絶対この森のどこかにいる、という気がしていたのだ。
ちなみにその成果は、というと、
わたしは結局、このあとしばらくその狐を見つけられなかった。
今までちょっと小賢しい普通の狐がわたしから隠れようとしたこともあったけど、すべて看破してやっていたので、正直ヘコんだ。
事実、その狐は森のなかにいたし、実際わたしは隠れた場所を当てること自体はできていたらしい。
あとから聞くと、本気で隠形術を使って隠れたらしい。マジで大人気がないと思った。
これがその狐――こかげとわたしとの最初の出会いだ。
こかげが隠れていたところにほかの狐たちがいなかったのは、
狐たちにとっても神域に当たるような場所だったから、らしい。
霊場と言ったほうが、より意味としては近いのかもしれない。
霊狐のいる場所。現世と隠世の境界。”本当に”入ってはいけない場所。
もっともわたしがこかげを見つけた場所は、その核心の場所よりはだいぶ手前で、
むしろこかげがその場所にいたのが例外的だったようだけれど、
――こかげがそこにいた理由は、わたしはまだ知らない。
* * *
夢の中の時間は進む。
こかげを最初に見つけてから、しばらく経ったころには、
修行(?)の成果もあってか、稀に、こかげを見つけることが出来るようになった。第六感が成長したらしい。
居場所を当てたら、こかげはしぶしぶといった表情で、出てきてくれた。
その時は隠形術というのを知らなかったので、単に気配を消しているだけだと思っていたが、もっと高度なものだったらしい。
(ちなみに見敵術と第六感に特化していった結果、
ポピュラーな刀術とか格闘術は割とおざなりになった。)
隠れられる。追いかける。逃げられる。見つける。
隠れる。追いかけられる。逃げる。見つけられる。
そんなことを繰り返す日々は、突然に、終わる。
夢が切り替わるように、視界が変わる。
視界が低い。こかげの視点らしい。
視線のずっと先に、”わたし”がいた。
たしかあのころ、もうすぐ12歳になるはずだった。
年が明ければ中学生に。
もっといろいろなことができると思っていたとき。
そんなとき、わたしたちしか来ないような森の奥に、招かれざる誰かが来た。
”わたし”は、その人物に、なにかを話す。
声は聞こえない。無声映画のように時間は流れていく。
相手の視線は”わたし”ではなく、ずっとこちらに注がれている。
”わたし”は、相手に対して身構えていた。
今こうして外から見てみれば、どれだけ無謀なことだったんだろうと思う。
そもそも、里に縁のない部外者がこの場所に立ち入っていること自体が、非常事態なのだから。
精神が混在して、こうしてたまにこかげの視点から夢を見ることで、ようやく分かることがある。
こかげにとって、わたしから隠れることはさして意味のあることではなく。
こかげはこのような相手から遠ざかるために、ここに来ていたんだろう。
(その意味では、わたしはとんでもない邪魔をしていたのかもしれない。)
霊狐は人に使役される。
使役するには、狐笛がいる。
その2つが揃って、然るべき手順を踏めば大きな力を扱えるのであれば、
力を手に入れたい輩は、他の流派のものであれ、当然、”奪いにくる”。
相手が”わたし”の横を通り過ぎていったあとに、”わたし”の身体は力を失ったように前に倒れていく。
”わたし”を、ただ通りすがりに倒していった相手の目的は、当然、こかげのほうだ。
霊狐を手に入れんと、こちらに向かって、進んでくる。
そして――