■ラジオノイズ。
『【──葛乃葉。】』
恋しくば尋ね来て見よ和泉なる
信太の森のうらみ葛の葉
走った。
瓦礫の途を越え、ナレハテ達をすり抜け、ただ一心に走った。
薄暗く、赤黒い空。のっぺりと照らされるコンクリート。擦り切れた道路標識。
彼が何処にいるのかも分からないままに。けれど、分かる。
身体を変化させ、一頭の美しい白い狐になり、流星の如く走る。
逢いに行く。別れを告げるために。
カスミ区。
赤い空の光に照らされ、それでも雪と椿は降りやまず。
椿の小径は、そこに確かにあった。
「保名さま……!」
荒れ果てた歩道。たたき壊されたベンチ。火の消えたストーブ。
狩衣姿の男が、椿の花に積もった雪を払い。
「──葛乃葉」
そう、女の名を呼んだ。
「ああ……葛乃葉。そなたの元気な姿をこの目に見たかったよ」
精悍な顔。眼光は鋭く、しかし穏やかで。
鷹のようなお方と呼ばれたその表情は、微笑みに満ちていた。
「保名さま……わしも、あなたに」
声が詰まる。
「おあい、っしたくて……っ。あやまらねばと……ずっとっ……!」
滲み、あふれだす。視界をぼやけさせる。
雪に零れ落ち、わずかに融かす。
何を謝ったらいいのだろう。自分だけが生き残ってしまったことを? 二人の許へ逝くよりも、未来が欲しくなってしまったことを?
恋を、してしまったことを?
「泣くな、葛乃葉。
それでよいのだ。そなたはもういい加減、わたしたち亡霊から解き放たれなければならぬ」
保名の顔には、なお笑顔。
さく、さく、と足を踏み出す。一歩ずつ、葛乃葉に近づいていく。
「そなたが生きていてくれて、嬉しい。
それがどんな奇跡であったとしても、今ここにいるそなたは、ヒトと共に未来を生きてよいモノだ。
わたしはそれが、かけがえなく嬉しい」
だから。
「ぁぁ……っ、ぅ、ああっ!!」
ぽろりぽろりと、止まらず零れる。
葛乃葉は男の許へ駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
「すまぬ……すまぬ、保名さまっ! わしは生きたい! 未来が見たい! あの子らと共に、あのひとと共に……!!」
ごめんなさいと、ありがとうを繰り返す。
男は女を抱き留め、ふわりと抱きしめた。ずっと、そうしてきたように。名残惜しむように。
だから。
「謝るのは私だ、葛乃葉よ。
ヒトの死に囚われたそなたなど……。
あの稲荷神を宿しているのだ。豊穣の神は、命を謳わなければ」
雪が降り続いている。椿が一首、とさりと落ちて。
これで、このひと時限りで。
狐は愛した男に別れを告げ、ようやく明日の光へ向き合う。
だから。
男は葛乃葉の背中に回した手で、葛乃葉の腰に備えられた【信太虚狐】──小太刀の柄に手を伸ばし。
すらりと引き抜くと、葛乃葉の背中に突き刺した。
「え──。」
「ああ、やっと。それでこそ、やっとだ」
視界からごっそりと色が抜ける。
焼けるような痛み。何がなんだか分からず、懐から男の顔を見上げる。
時が、なにか重たく粘るものにからめとられたかのようで。
眩しい。暗い。眩しい。保名の表情は、楽し気な、笑顔。
「死にたがりでは意味がない。死に囚われても意味がない。
私が愛した、生に満ち溢れたそなたを。
暖かな未来を、美しい声で謳うそなたをつれて逝かねば、意味がないのだ。」
ずるり、刀を引き抜く。
ぽろりぽろりと、止まず零れる、血。
雪の上に紅いあかい染みを拡げ、枯れない椿を咲かせる。
身に刺さった刀を抜かれた衝撃で、葛乃葉は雪の上にくずおれた。また一つ、椿の大輪が雪の上に咲く。
「やす……な……さま」
ぼやける視界。じんと深さを増した寒さが、葛乃葉の唇を震わせる。
「ふふ。何故、とかどうして、とか。相変わらず訊かぬな、そなたは。
狐の情深さも、あまりに拗らせると身を亡ぼすぞ?」
保名は冗談めかしてそう言い、柔らかな笑みを作った。
小太刀を振って血を一旦払い、倒れた葛乃葉に近づいていく。
そのままその身体を跨ぎ、馬乗りになった。くるりと柄を手の中で回し、逆手に持ち替えて。
「ふふ。まだ死ぬなよ?
せっかく、最期の夫婦水入らずなのだ。ゆるゆると愉しもうではないか」
「なぜ……?」
「ああそうさな、それはわたしが狂うたからだ。
汚らわしい妖の伴侶と揶揄され、非人と蔑まれ、戦の中でそなたも晴明も、自らの命も失った。
ふふ……ふふふっ!! それで、なあ」
笑いを堪えきれず、保名は楽し気に続ける。
「目覚めた先は“あんじにてぃ”とやらだ。死して地獄のような現世から離れ、ようやっと総てが終わると思いきや、総てに否定された世界でまだまだ生きて地獄を味わえと来た!
いやはや、カミも仏もあったものではないわ。最高ではないか!! ふふっふふっふふふ!!」
けらけらと笑う保名。神経質に震える身体の振動が、葛乃葉の腹に伝わってきて。
小太刀の刃が、ぴたりと葛乃葉の首に添えられる。保名の顔が、ずいと寄せられた。囁くような声。
「それでなんだ、ワールドスワップ? 侵略せよ? 侵略先にはそなたが生きているだと?」
「ふふ。恨めしいなあ。怨霊とは、修羅とはこのような心持か。
うらめしい。そなたが終わったらあの男だ。それが終わったらあの子供だな。
何をそなただけ幸せになろうとしている? 許さぬ。恨めしい。
そなたを斯様に変えてしまったヒト共、ヒトでないモノ共、総て討ち取ってやろう。
千年だ。千年ごしの戦を終わらせるのだ。
妖は、カミは、居るだけでヒトを不幸にするのだろうが。疾く去ねよ、我が妻よ」
嗚呼。
頬をおちる涙の温度。
背中が熱い。首筋に当たる刃の感触が冷たい。
何もかもが、夢のようだった。否、心はこれが夢であってほしいと絶叫していた。
これはなんだ。どうしてこんなことになってしまうのだ。
追憶は、彼方。夫と仔の笑い声。森に差し込む朝日。
ぼろぼろと零れ落ちる涙。もうこのまま、この方のうらみに身を任せ、消えてしまいたい。
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葛乃葉 「……それでも」 |
身を斬る思いで笑顔を作る。言葉に乗せる想いは。
“護る”と手をとってくれた、恋しいひと。
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葛乃葉 「わしはな、保名さま。生きたいよ……約束じゃから」 |
瞬間、保名の瞳が瞋恚に歪む。
掻き斬られようとする咽。
しかし鈍い音が響き、小太刀は男の手から弾き飛ばされ、何処かへ飛んでいく。
突如として生成された障壁のようなものに、刃が弾かれたがゆえの出来事であった。
「なっ!?」
「──【おろち】さま。【雪女】さま!」
「承知した」
「かしこまりました」
ブンッ、と空気を薙ぐ音。巨大な蛇の尾が木の上から振るわれ、したたかに保名を捕える。
葛乃葉の上に馬乗りになっていた保名は、油断ゆえか受け身を取ることもできずに吹き飛んだ。
続いて径の雪が舞い上がり、豪風が吹き荒れる。
ヒトも妖も通さない吹雪の壁が、葛乃葉と保名の間に横たわった。
「くずこさん。しっかり!」
「傷は……大丈夫、間に合うでしょう」
「そなたらは……」
細く涼やかな声は耳元で。声変わり前の高い声は、背の傷を診ているようで。
葛乃葉を支える、優し気な顔の少女。すました顔の少年。
二人とも和装姿で、その身からは妖気を漂わせていた。
「だいじょうぶ。私の“お家”が、くずこさんを護りますから!」
「あなたの声が聞こえました。【さとり】の力が、こう役立つとは。分からないものですね」
黒い長髪の女性が、冷気を纏わせながら近づいてくる。
ニッコリと晴れた笑顔で、言った。
「くずこさん、こんにちは。お便りがだめだというので、直接会いに来てしまいました」
「用意は済んだか。奴め、この程度で死ぬはずもなし。疾く逃げるぞ」
「そなた、【おろち】殿……そちらは【雪女】殿か?」
葛乃葉が問えば、女性は笑顔で頷く。巨大な蛇は不機嫌そうにしゅるると音を鳴らした。
「借りを、返さねばならなかっただけだ」
保名を残し、妖たちは狐を連れ、赤い空へと飛び去っていく……。
「──ふふ。」
逃げ去る一行を見、保名は微笑む。語り掛けるように、独り言ちる。
「また会おうな、葛乃葉よ。いずれ機会は巡ってくる。その時には」
「今度こそ、そなたを救おうな。」
空を泳ぐ【おろち】の背中の上で。葛子はぼんやりと、自らを救った者たちの姿を見回していた。
「皆……」
「狐よ。我等、相も変わらずイバラシティの敵ではあるが──」
言葉を躊躇うおろちの言葉を、雪女が継いだ。
「──私たちは、くずこさんの味方です。イバラシティであれアンジニティであれ、あなたは消えてはいけないひとだと。私たちはそう思ったから」
ぶんぶんと頷く、少女、座敷童。
「くずこさんのラジオが、言葉が、わたしたちの救いになったから……!」
「あなたのラジオが、あなたの毅然とした姿勢が、僕に何かを教えてくれたから」
少年、さとりの透かす瞳は、真っ直ぐに葛子を見つめている。
「生きよ。傲慢に生きよ。我らは、そなたのラジオが聴きたい。」
涙が流れる。悲しみは寄せて返す波のようで、けれど葛子はそれでも、生きていた。
強い眠気に襲われ、葛子の瞼が落ちる。
「安心して眠ってくださいね。私の“お家”には、良くないもの一匹たりとも、中に入れませんから!」
「手当を終えたら頃合いを見て、そちらの本拠へあなたを送りましょう。なに、僕の眼があれば何とかなるでしょう」
「ありがとう……ありが……と……」
ほの暗い狭間の地に、夜明けがやってくる。
彼女の懐から、赤い、五芒星の描かれた御守りがぽろりと落ち、ハザマのどこかへと消えていった。
ゆっくりと立ち止まって検める暇さえなく、時間は矢のように過ぎ去っていく。
身をどろどろに溶かしてしまいそうな悲しみも。悔悟も。
淀んでしまった、千年の想いも。
だから今は、一時は意識を手放す。
次に目覚める時には、全てが変わっているかもしれない。それでも。
それでも、安倍葛子は生きたいと叫び続ける。
縁はまだ、つながったばかり。