妖と人の魂が同じ器に在れば、瞬く間に妖の魂に取り込まれる。
しかし互いを異物と認識するならば暫しの猶予はあるだろう。
泣き声が聞こえる。最初は遠くから、段々と近くに。
いつまでも居られたのでは安心して眠れもしない。
気だるそうに身を起こすと、心地よい眠りを妨げる騒音の元へと向かった。
声の主はすぐに見つかった。
見れば年の頃は4歳か5歳、迷いこんだにしては余りに山奥すぎる。
親と離れ迷い子になったか、もしくは……
「棄てられたのかもね」
突然目の前に現れた白髪の女に驚いたのか、迷い子の少女は泣き止み
ぱちくりと目を見開いている。
「行くわよ、ずっとここに居られたのでは煩くて敵わない」
ようやく里に着く。さっさと行けとばかりに背中を押しても離れない。
「なまえ……」
掴んだ袖を離さないまま、そう呟いている。
どうやら聞くまでは離すつもりがないらしい。
「珠沙よ」
どうせもう会うこともない幼子だ、一言そう告げて、
袖を掴んでいる手を振り払うように踵を返した。
***
翌日、もはや草木で埋め尽くされた境内の中、私は呆然と立ち尽くしていた。
「みさ!」
その原因、あの幼子が目の前に再び姿を表しているのだから。
近隣の集落も消滅し、今や訪れる者も守る者も居なくなったこの社は、
とても幼子一人で来れるような場所ではない。
見ればあちこち泥にまみれ、擦り傷だらけになっている。
ここまで来れたのは神の悪戯か、はたまた何か特殊な力でも持っているのか。
いずれにせよこの場所も、自分の存在も知られるのは勘弁願いたい。
嬉しそうに見上げながら抱きついてきたソレを無理やり引き離すと、昨日と同じように山道を下る。
幼子は不満気だったが、手を引くと素直についてきた。
日も暮れる頃、ようやく人里まで辿り着く。
手を離そうとしない幼子の額に手をかざす。
「あなたはあの場所も私のことも忘れる。いいわね」
幼子は虚ろな表情で歩き始めていく。
更に翌日、日が落ちても未だ人気の無い境内、
ようやくいつもの姿に戻ったことに安心を覚え、眠りについた。
***
いつものように生気を喰らった男に人里へ帰る幻術をかけて送り出したあと、唐突に背後から声が上がる。
「や、やっぱりここだ……あ、あの!」
振り返ればまだ幼い少女が立っている。
歳は寺子屋に通い始めた頃、今風に言うなら小学生程度だろうか。
茶黒の髪には見覚えがあった。
「わ、私ずっと昔にこの山で迷子になって、それで助けて頂いたんです。今日はその時のお礼――」
「きっと人違いね……、ここまで歩いて疲れたでしょう?お茶を飲んだら日が暮れないうちに帰りなさい」
遮るように話し始めた私の言葉に反論するように少女は大きな声で反論する。
「ひ、人違いなんかじゃないです!その耳と尻尾、私は確かに見ましたから」
「見えてるの……?なら、今すぐに忘れることね。ま、嫌だって言っても忘れてもらうけれど」
「う……っぐ……わ、私お礼を言いに来ただけで、ここの事もあなたの事も言いません、からっ……!」
じりじりと距離を詰める私に、少女はまだ声を上げる。
「あなたは分かってないわ、妖を知ることの意味を。そう、例えばこんな風に……」
少女へ飛びかかり、地面に押し倒すと首筋に手をかける。
「少なくなったとはいえ、我々を討つ事を生業にする人間も居る。どこからバレるか分からないのだもの、口封じの為に殺してもいい、何の躊躇も無いわ。分かったら、忘れることを受け入れなさい。そうしたら命だけは助けてあげる」
「よ、よく分からないけど、わ、私は……忘れたりなんかしないです。だって……」
「そ、じゃあ無理やり忘れて貰うわ」
少女の額に手をかざす
「
そんなことしたって、無駄なんだから!わ、私忘れない、忘れても何度も思い出すから!命の恩人の珠沙の事を!」
「呆れた、やめにするわ」
押さえつけていた手を離すとくるりと立ち上がる。
「……?」
「やめてくれるの……」
「好きにして」
「あの、私……お礼にお弁当作ってきて」
「要らないわ、間に合ってる」
「あ、で、でもちょっと転がってぐちゃぐちゃになってるかも……」
瞳を潤ませて転がっている手荷物を拾っている。声は掠れ嗚咽も混ざり始める。
はぁ、とため息。
「悪かったわ、ちゃんと食べてあげるから出して」
「お、美味しくない……」
「ええっ!?」
「まぁ子供だから期待はしてなかったけれどね。はぁ……料理、教えてあげるから次はもっと美味しいの作ってきなさい」
「えっと……それって……」
***
手首からするりと何かが千切れて落ちる。
拾い上げたソレの裏に描かれた文字を、見る。
「皮肉ね」
「あの街の記憶が、あなたの魂をかろうじて留めている。だから私は可能性に賭ける」
イバラシティを侵略して、元の世界に帰り、元の力を取り戻す。
そうすればきっと……。
「その為なら何だってする。例え、あなたの思い出を奪う事になってもね、灯」