【★LOG//http://dolch.bitter.jp/sub/agata/log/agata.html】
景色の錆びていくような暗い曇り日。
ふたたびハヤミの前に姿を現したアガタは片手にはギプス、
反対の手にも厳重にテーピングしていた。ぶらぶらと体を揺らし、頼りなく笑う。
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「腱鞘炎じゃって。ほら、利き手がこうじゃから、 逆手をこう…慣れんのに急にたくさんつかいすぎたんじゃと。 じゃけえ、ドクターストップ。ふふふ」 |
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「笑い事じゃないだろ…」 |
念を押すように言う。
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「笑い事じゃないだろ…?」 |
待ち合わせのカフェ、二人分のティーカップ。
言葉で頼むでもなくアガタが首を伸ばす。ハヤミが、アガタのカップを持ち上げて口につけてやる。
一口、二口。律儀にカップを傾けては静止する。
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「ハヤミちゃん、お願いがあるんじゃけど」 |
-アガタのアトリエ-
立ち込める絵の具の匂い。降り出した雨音に交じって、大量の絵の具をかき混ぜるドプドプという音が立つ。
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「ハヤミちゃんインク。追加あけて。赤、乾いてきとるし、やわらこしといて」 |
床一面にキャンパスを寝かせ、アガタは足に画料をつけていた。
垂らし、引きずり、足跡(そくせき)で絵を描く。
キャンパスに体で当たり、髪で飛沫を散らす。絵の具が目に入る。涙が洗い流す。
片目をつぶり顔をへんに曲げながら、何かを探すようにキャンパスの上を歩きまどう。
もはやどうなれば画面として正解なのか、それがここにあるのか。
このアガタの製作風景を、ハヤミ以外は観測していない。
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「…人に見られたらいよいよ頭がおかしくなったと思われるな 治してから描けばいいのに… うわっ」 |
黄色の足の指でインク缶を持ち上げ、キャンパスの上に転がす。
白のインク缶を持って片足で反対側まで跳ねて行き、同じように転がす。
やけくそか、怒りか インクは放流し合流する、インクが交じる。
深呼吸。入水者のように静かに足の裏を浸す。アガタの足についていた絵の具が逃げ出すように流れの中に溶け出す。
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「…あははははは、あはははは」 |
足の裏がくすぐったい、アガタは声を上げて笑い出し、キャンパスの上を走り回る。
足跡。足跡。足跡足跡。ドンドンバタン、ペタペタ。息を荒げて笑う。
あがった息がいつまでも戻らない。
雨音。昼だというのに今日は、なんて暗いんだろう。
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「死ぬんじゃわ」 |
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「…なに?」 |
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「死ぬんじゃわ。余命宣告されとるんよ。」 |
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「余命を宣告されたのよ」 |
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「いつ?」 |
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「半年位前かなあ。」 |
チナミ芸術館でハヤミと再会した時にはすでに解っていた事だ。
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「…余命って、なに、病気なの?」 |
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「オピウムマルチプルスクラーシングスカラディザーサーチメイト」 |
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「なに?」 |
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「オピウムマルチプルスクラーシングスカラディザーサーチメイト症。 めずらしい病気じゃって。
視力がどんどん落ちて、見えんなって、手が動かなくなる。足が動かなくなる。 胴体や首が動かんなって、鼻も耳もきかんようなって、五感もなんも肉体に閉じこめられる。 自力で息ができんなって、 はい さようなら。」 |
……
……
ハヤミはわずかに顔をしかめる。
返答が思いつかない。次に何を言ったものか、舌は強張って動かないものの
内面は驚くほどに静かだった。
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「解ってたんだ。黙ってたんだ。」 |
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「さみしいんじゃもん。 遊び相手とか、話し相手とか…欲しかったんじゃもん。 けど新しい恋人をつくっても、傷つけることになる、取り残されるんは不憫で」 |
『アガタはアユミちゃんに先に死んでほしくなかった』。独り言のように付け足す。
よく言えば甘えていた。わるく言えば、心のどこかでハヤミなら傷つけてもよいと思っていた。
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「ハヤミちゃん」 |
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「もっとビビるか思うたら、驚かんのねえ。ふふふ」 |
ひとり笑い、深呼吸する。
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「じゃけえ、もうほんとに『アイフェイヨ~ン』の使い道きめんといけんね…」 |
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「…そういう事情なら普通、その病気を治すんじゃないの? たしかに、その後の人生無能っていうのはアレだけど、それは今までも同じようなものだったろ。 お前は他に食ってく才能もあるんだし、別に…」 |
アガタは口角をわずかに上げる。声なく笑う。
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「…は? なんなの?死にたいの?」 |
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「余命。 宣告された時はそりゃあショックで、自分でも調べたんじゃ。 なにができるのか、どんなことが起きるのか」 |
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「したらね、 おかしなことがあったんよ。」 |
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「この病気、実例がないんよ。医学書には、確かに症状は明確に描かれとるのに。 過去にかかっとる人が一人もおらん。 ヘンじゃろ?だ~れもかかっとらんのに、どうやってこの病気が解ったんかと。」 |
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「けど。」 |
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「ワールドスワップのはなしきいてよーやっと腑に落ちた…」 |
アガタははじめから、アンジニティの侵略の話を信じていた。
質の悪いいたずらだというハヤミの横で、それが『起こる』前提でいつも生きていた。
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「『ないもんの記憶を作り出す』。『ありえんことがありえる』。 …」
「この病は、オレと共にこの世界に表れた。 いわば、オレにあたえられた『設定』、 皮膚の色や目の色、年齢、声、匂い、それと同じに。 じゃけえ、オレ以外の人間には関係ない。 でも、病と言う『設定』としては矛盾のないようにこの世に事実らしくつくられてある。」
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「ねえ」 |
アガタは黙る。その先を、ハヤミに言いあてられることを望む。
ワールドスワップによって設定が与えられた存在。
つまり――
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「アンジニティの、侵略者?」 |
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「そう。」 |
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「だから、生かしてどうする?」 |
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「考えたんじゃわ。」 |
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「オレにこがいな設定がある言うことは、『本物のオレ』が死なんとしとるんちがうかなって。 … …世界の掃きだめに送られるような罪人か。…オレ、わるいやつなんじゃねえ。ぞっとするわ。『アガタ』は人をきずつけてまで生きとうない。」 |
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「そのさきも考えた。 それでもオレが生きたとする、生きたとして、そのアガタは… … ハヤミちゃん、」 |
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「絵を描けるんかな」 |
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「わからんのよ。ううん。信じられん。 自分も、自分のおかれる環境も。」 |
ばらの湯で話したこと。
アンジニティの侵略者には『何かを美しいと思う気持ちあるのか』考えてしまう、と言っていた事。
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「命は惜しい…。でも絵を描けんのは死ぬより虚しい。」 |
キャンパスの上に涙が滴り落ちる。絵の具の上にささやかな痕を残しては、吸い込まれる。
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「…考えてみると、これ以上何か求めるものがあったかと思う…」 |
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「ハヤミちゃんのねがいごと、なんかない? お世話になったけえ、べつにゆずってあげてもええんよ…」 |
ふたたび返答につまって、ハヤミは黙りこくる。
それが出てこないのか、アガタはなんとなく、解る気がした。
この人にも何か、無邪気に望めることがあればよかったのに。同情するように微笑む。
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「…無欲な事で。ふぇっふぇっふぇ」 |
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「みんないろんな願い事ある。 地位、名声、巨万の富。宇宙の謎、タイムマシン、世界平和。永遠の若さ。病気を治してほしい。悪党を裁いてほしい。死んだ人ともう一度会いたい。あの人の愛がほしい。 どれを叶えてあげてもべつにええと思うんじゃけどね」 |
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「………お前が、お前自身の望みは?なんもないのか。くだらないことでも」 |
オレ?
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「この世界から病気を消してしまおうか。 いままで俺の絵画の迷信を信じてくれた人たちのために」 |
ふ
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「アンジニティの侵略前に戻ってワールドスワップがおきんようにするとかあ?」 |
ふふ。
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「天国いくっていうのもええかもしれんねえ」 |
あははは。
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「あとは」 「究極の選択。子供の遊びみたいよねえ。」 |
「一生に一度、一つだけ願い事がかなうとしたら、なににする?」
「あした世界が終わるとしたら、今日なにする?」
「生きている内に一時、時のひととなるか。
死んでから永遠に名前を残すか。芸術家ならどっちがいいか。」
「……
オレが存在せんのなら、この侵略戦が終わるころ、いや、
死ぬころ。
オレが消えるとしたら、オレが描いたものはどうなるんかなあ」
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「……それも全部消えるんだろうな」 |
いつの間にか雨音は収まり、金色の夕日が差し込み始める。
初夏だというのに、ため息が白く濁った。なんて絵の具臭い部屋なんだろうか。
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「作品を残すっていう願い事はお前的にナシなの?」 |
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「……」 |
アガタのスマートフォンがひとりでにガタリと揺れる。
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「…いままでありがとう。お世話係はもうええわ。 しばらく一人になりたい。それ持ってって。」 |
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神に問われている気がした。
「作品が残らなくてもお前は絵を描くか」と。
ならば何ひるむくことなく己は答える、
「描く」と、「それは絵を描くことと描かないことと関係がない」と。
この幸運の星すら、阿呆な質問に対してのよい返答――証明のような気もした。
アンジニティの己が何者であるかは解らない。なおも突き返せるものは、感謝ばかりだ。
一年の命。消えてなくなる作品群。 神様、己に絵を描く日々を 預けてくださり感謝しています。
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…アガタは絵を描く。明日も明後日も、消えると了解した絵の構想を今から練る。それだけだ。 |