己の定義。揺るぎなき自己の確立。それがオニキスの課題だった。
沼地に差し掛かったところで襲ってきたザリガニたちを蹴散らしたところで、再び小休止を言い渡された伐都は一人、沼地の岩場に腰かけて釣り糸を垂らしていた。
糸の先には釣り針もついてなければ、餌が結ばれている訳でもない。
ただ、何かをしながらの方が考え事が捗ると思ったのである。
揺らがないもの。
少なくともこの侵略戦争において、結城伐都にはイバラシティを勝利へ導きたい強い理由があった。
妹を守りたい。友人を守りたい。恩人を守りたい。それだけではない。
アンジニティの住人は、侵略に失敗すればその時点でアンジニティへと強制的に送還させられる。
イバラシティの人々を守り、自分自身も彼らの前から姿を消して――すべて、『なかったこと』に出来る。
それこそが、結城伐都にとって最も重い『戦う理由』だったのだ。
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バツ 「(おれらしくもない、後ろ向きな理由だけど……誰かを泣かせちまうよりはずっとマシだよな)」 |
たとえ『ワールドスワップ』に形作られた仮初めの記憶であろうと、結城伐都にとってそれまで生きてきた過去は克明にして鮮烈なものとして胸に刻み込まれている。
遠い昔。まだ自分が病床から動くこともままならなかった頃に、少年は一度だけ妹の本心を聞いたことがあった。
浅い眠りについていた時に、まだ幼い彼女の口から零れ出た言葉は、意識を覚醒させるには十分過ぎるものだった。
「あのね、ないしょだよ。わたしね、おにいちゃんがきらい。おにいちゃんがいなかったら、わたし、さみしくないのに」
病弱であるがゆえに、両親の寵愛を一心に受けた。
健康であったがゆえに、彼女は我慢を強いられ続けた。
恨まれるのも当然のことだ。仕方がない。
ただ一言、ごめんね、と。そう言ったのを覚えている。
妹がそれを聞いて、涙を流して謝ってきたことも。
彼女は何も、悪くなんかないのに。
それから時が経った今でも、巳羽は兄の存在に縛られ続けていた。
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バツ 「もう少しだ。もう少しで、おまえを寂しくなくさせてやれるからさ」 |
元々長くは無い命だ。けれど、心の優しい妹が死を望む訳がない。
自分の人生をどれだけ食い潰されようと、彼女は結城伐都の死を悼み悲しんでしまうだろう。
友人たちとは出来ない約束も沢山した。
卒業してから進学するだとか。大人になったら何になりたいだとか。
百年長生きするなんて無茶なことも言った。
結城伐都が、イデオローグが、生き永らえることの出来る世界など、何処にも無いのに。
自分の言葉に振り回された人間を、不幸にはしたくない。
彼らの、彼女らの、悲しむ顔は見たくない。
だから、都合がいいのだ。この戦いは。
誰の記憶からも消える為に戦う。
誰にも悼まれず、誰にも愛されずに己の生に幕を下ろす為に、戦う。
それこそが、己の戦う理由なのだ。
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バツ 「ふふっ……ははははは。生きる為に他人を踏み躙ってきたおれが、今度は死ぬ前に人の心配か」 |
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バツ 「でも、やっぱ――悪いもんじゃないな。『自分以外の誰かの為に命を燃やす』、ってのは。だけど……」 |
それをそのまま仲間たちに伝える訳にもいくまい。はて、どうしたものやら――