榊さんのアナウンスがあってからしばらく経っているけれど、こうして暮らしている限りでは何も起こっているようには見えなかった。
異能を使って、この世界を救うために戦ってみてはどうだろうと榊さんは言っていたのに、これではどう対抗していいのかさっぱりだ。
学校もしばらく榊さんの話でもちきりになってたのが、もうみんなすっかり忘れて、いつも通りの生活に戻っている。
巧妙に世界が改変されて、隣のだれかがアンジニティという世界の住人に成り代わられているかも知れないと榊さんは言っていた。
でも、それをどうやって確かめればいいのかも分からない。やっぱり、何にも起こっていないのかも知れない。
あのひと、あんまり本当のことを言いそうなことを人には思えなかったしね。
ただ、確かめようもないってことは、本当のことかも知れない、という可能性が、ほんの少しでも、わずかばかりでも残っていて。
一度気になると、ぼんやり不安になって、馬鹿みたいだと思いつつも、完全に否定だってしきれないということだ。
そうやって人のことを不安にさせて、楽しもうってつもりなのかも。
いかにもそういうことをしそうな人な気がする。話したこともないし、顔を合わせたこともない人に、ちょっと失礼だろうか。
とにかく街では何にもない。
異能を利用して悪いことをする犯罪者の話は聞くけれど、別の世界からの侵略者ではなさそうだ。
もちろん、現実で今まさに起こっているぶん、榊さんのアナウンスより切迫していて、大事で、何とかしなきゃいけないんだろうけど。
それは自分の異能が何なのかさえ分からない僕じゃなくて、別のひとたちがやることだろう。警察であるとか、ヒーローであるとか。
宙ぶらりんのまま、放っておかれて、落ち着かない気持ちが浮き沈みを繰り返している。
そんなことよりちゃんと勉強しろって言われそう。
明日も学校!
◆ ◆ ◆
イバラシティでのかりそめの姿、いつわりの記憶、つくられた身分。
古月さだめは平和な日常の中で生まれ育った少年として暮らしている。
土台からして嘘で塗り固められていても、【古月さだめ】自身がそれを知らないのであれば、そこから作られたかれの考え方や思考はうつろなものとも言い切れないのかも知れない。
あの少年だけではなく、多くの住民が不安と、疑念と、あるいは期待と。そうしたものの中にいる。
それも、ワールドスワップが成就すればすべてが破壊される。
儀式が成立すれば、イバラシティのもとからの住民はアンジニティに送られ、罪を犯さぬまま牢獄の中で暮らすことになる。
そしていずれにせよ、イバラシティの住民たちを欺くために用意されていた囚人の現身たちは、みな消えてなくなる。
……
必要以上にあの少年のことを気にかけはじめていることは、認めなければならないだろう。
彼の経験、思考、記憶、すべてを自分のものとして体感しているけれど、むしろ他者として感じる【古月さだめ】という存在について。
それが決して叶わないと知っていても──確実に消えてしまう偽りの存在なのだと頭で分かっていても──彼のことを護りたいと感じている自分がいるのを、ニアクは強く感じていた。
何度もそれを、不可能ごとであると頭で否定している。
……否定している。否定しているけれど、そう感じることを止めることができない。
それが、あるいは自分の記憶を取り戻す端緒になるかも知れないと考え始めたのは、ハザマでモドラの話を聞いてからだ。
さだめの家に勤めるハウスキーパー、ルネという男は、モドラのイバラシティでの分身であるという。
ばかりではなく、【ルネ=レスピーギ】は本来、モドラのきょうだいの配偶者、つまりは義理の弟であるのだと。
古月さだめもまた、モドラにとってのルネと同じように、ニアクにゆかりあるものではないのか。
それを反映して、イバラシティでのニアクはあの姿かたちを取っているのではないか。そう、モドラが言っていた。
記憶のないニアクに、否定する材料はない。
肯定する材料は、髪の色、目の色。乏しいけれど、ないわけではない。
あの少年が自分の何なのか。
モドラの話を聞いてから、それをずっと考えている。
そうした時に、記憶を取り戻したいという望み以上に、罪を犯した囚人である自分が抱くには過分な欲が出る。
イバラシティの【古月さだめ】を護ることはできない。あれはまぼろしであって、どう足掻いても消えゆく存在でしかない。
けれど、彼が実在するのであれば、自分はこの枷を振り捨て、アンジニティを脱してでも、彼を護りにゆくべきではないのか?
……いや、それは、あまりに都合のいい話だろう。
彼がいかに自分にとって重要な存在でも、こうして縛につき、囚人となり果てている以上は、きっとそれを裏切ってしまったのだ。
望むべくもないことだと言うべきだろう。
早くあの少年のことを思い出したい。
それは、自分がどうして罪を犯したのか、それを理解するのに必要だろうから。
理解すればきっと、囚人として生きることにわずかな疑問さえ、差し挟むことはなくなるはずだ。
────それを、期待している。
◆ ◆ ◆
「私のため──そうか、私のためか……」
腕を組み、ニアクは口の中で言葉を繰り返した。
テーブルの対面に座るモドラの目が、逸らされることなくこちらを見つめている。当然だ。こちらの、問いの答えを待っているのだから。
ニアクはため息をついた。
「……そうだ。何もない荒野だったけど、囚人としてあの場にいたんなら、あそこが私の監獄だろう。
だから鎖を繋ぎなおして、囚人らしくするのが振る舞いようだと考えていた……けどな、……」
私のため。
もう一度、繰り返す。
穏やかで、気軽そうですらあったモドラの表情が、ほんの少し薄暗さを帯びた。
「俺のためになることか、あんたのためになることなら、する。
どちらでもないなら、今回の予算では請けられない」
鎖が音を立てる。自分で、意識せずに体を動かしているからだ。ニアクは眉根を寄せて、顔を俯けた。
モドラの言葉はどこか上滑りに流れていく。先に投げかけられた問いが、ぐるぐると頭の中を回っている。
私のため。考えてみれば、千切れた鎖を繋ぎ直すのも、囚人のつとめを果たそうとするのも、自分の納得のためだ。
その意味では、そう、モドラの言う要件は満たしている。だが、それでは困るのだ。
「……実のところ」
目をゆらゆらと泳がせて、ニアクは指を組んだ。なおも鎖が姦しく音を立てる。耳が痺れたように熱くなっている。
「記憶が無いのが気懸りだ。忘れていることが、さらに自分が罪を重ねている気がして落ち着かない。
お前に言われて気付かされた。鎖を繋ぎ直した程度では、正しい償いにはならない。自己満足に過ぎない気がする」
言葉を吐き出しながら、自分が焦っていることを自覚する。
だが、慌てながらも選んで紡いだ言葉通りに、鎖に繋がれるべきは今ではないということを、自分にうまく承知させることができそうな気がした。
「悪い。いずれ依頼はする。でもそれは、記憶を取り戻した後の方がいい。
お前のためになるような対価も用意する。でも、今はまだ直してもらわない方が良さそうだ」
「そうね、それが良さそうね」
しどろもどろの自分の言葉の意味を、モドラは分かってくれたらしい。どこか安堵の表情で彼は頷いた。
「記憶が戻ることがいいことかどうかも、俺には分からない。
ただ、ニアクが楽になるように祈ってる」
「気遣いはありがたい。楽になれるかは分からない。楽になってはいけない気がするからな」
「自罰的ィ~」
おどけた口調でモドラが声を上げる。ニアクはその言葉には答えずに、カップにわずか残った茶を飲み下した。
「騒がせてすまなかった。茶も菓子も美味しかったよ。ここでこんなものが口にできるとは思わなかった」
「とんでもない。こうしてお喋りして、褒めてもらえるんなら、また来てほしいくらいだね」
モドラの言葉に、ニアクは自分の口元が緩むのを感じて、奇妙な気持ちになる。
また来て欲しいと言われ、悪い気はしない。悪い気はしないけれど、そういう感情の動きをすること自体に引け目を感じている。
それは確かにモドラの言う通り、自罰的に過ぎるのかも知れない。記憶がない状態では、むやみにそのような思考になるしかない。
「きっとそのうちまた来るよ、モドラ。
ここはいろんな世界の連中が集まってる。ないと思うが、もし記憶を失う前の私に覚えがあるやつがいたら、話を聞いておいてくれ」
「分かった。何かあれば知らせる。
…すぐ来てよね。暇なんだから」
椅子を引いて立ち上がったニアクを見上げるモドラの口調がふと弱々しいものに変わったけれども、それは少しわざとらしい。
この男がどのような罪で世界から否定され、アンジニティに墜とされたのか、そこではじめてニアクは想像を巡らせたけれども、すぐにやめた。
その話しぶりや振る舞いから罪状を推し量ることなど、自分にはできそうにはなかった。
「お前は友達が多そうに見えるがね。
それじゃ、またな。ごちそうさま」
「知り合いは少なくないけどね、友達は選びたいよね。
…お粗末様でした。気をつけて」
モドラの言葉を背に、ニアクはあばら家を後にする。
エディアンなる女がワールドスワップの発動を宣言したのは、それから程なくしてのことだった。