渡辺慧の場合 1/2
「――忘れてしまうのに、これに意味はあると言えんですかね?」
また始まった、そう辟易しながらもそれに付き合わない選択肢も大して思いつかない自分は愚かであるというべきか。男はそう考えている。顔を向けた先の女は、いつも通りの顔をしていた。
えぇ、と。と頬をかく。思考は巡るが、突飛な話題に突飛に対応できる程自身のそれが優れているとは思っていない。一応とばかりに、その声に返答となるべく言葉を返した。
「それは、どっちが現実か、って話か?」
認識の妙。意識の連続性。意味がある方とない方。
どんな返答を期待してるのか、分かった物ではない。分かった物ではないから、好きに返す。
「いいえ。保持される記憶には価値は付随するといえますが、保持されない記憶の価値を定めるのは如何せん難しい問題でやがりますね、という話ですよ渡辺慧。ここまでついてこれてますか? これてますね。どっちが現実かについて論じる意味はありやがりませんが、意味の有無については論じることはできるでしょう」
「勝手に進めるなよ……。……まぁいいや。そうだな、意味を求めるのが人っていうんなら、求められない奴にある訳がない。そういう意味じゃ、向こうでの俺にとって何の意味もないだろう。でもそうじゃないか。記憶の連続性を保ってるのに、優位性がこっちにあるのなら、そもそもそれは同じ人物か? ……あぁ、いや。飛躍したな」
意識の連続性、か。保持されない記憶に価値を求めるのは誰だ。
保持されない記憶は、保持されない物にしか宿らない。
保持されない物は、認識を許さない。
認識を許されない物は、価値を求める事すら許されない。
ならば、そんなものに価値はない。
だが……、それについて、“保持されない記憶を、保持された状態で”認識している人物がいる。それは、此処の己だ。それは、……本当に同一人物だと言えるのだろうか。
自己の同一性が自己足り得るのだとしたら、連続性を持てない自分は、本当に自分だろうか。
余りにも詮無き思考は、どうせ答えはない。そして意味もない。だからこそそれを思っていたが、次の返答に流しされる程に意味がないのだ。
「価値は、きっとないんだろうと思うんですよね。歪曲した思考、喪失する記憶。……ヤエの《異能》すらも突き抜けて、規定された日常だなんて。……戻る価値が、ヤエには見当たりませんで。どうです渡辺慧。一緒に、こっち側で自堕落に暮らしませんか」
女は口を開いていた。言葉を発していた。その言葉の意味を認めて。……何を言うかと思ったら。
それも悪くはないな、と男は少しだけ思った。
ただそれ以上の意味を持つことはない。それ以下の意味だって。
無意識的に、或いは自覚的に。
……これすら忘れてしまうなら、殊更に。
「それは暗に、保持される記憶に君は絶対的な価値を認めてるってことか? ……まぁ別にいいとは思うよ。思うけど、どっちでもいい。君みたいに戻る価値が見当たらないけど、戻らない価値も別に見当たらないな」
「じゃあ、」
女は手を伸ばす。この手を取れ、と、無言の内に右手を伸ばして。深い深い夜に浸っていようとでも言うように。無表情を少しだけ和らげて、微笑んで。
「それなら、じゃあ……。渡辺慧、ほら、……こっちに来て欲しいと言えば、きみは来てくれるんですか」
男は手を伸ばさない。その手を取れ、という言葉にならない意思を何も気づかない振りをする。
・・
「君が、その手を伸ばして、俺の手を取り、攫って行くというのなら、俺に止める術はないだろうね」
そこに意思はない。意見もない。そうしたければそうすればいい。
或いは、その言葉には何かが付随されているのかもしれない。いないのかもしれない。
されているとするならば。その性質としていうならば――。
それは傲慢なほど、否定的な断定。又は、肯定的な推測、だったのかもしれない。
「わかってんですか?」
その手を引く。女は手を伸ばして、男の手を強く引っ張って。その細い腕で、高校生の――かわりゆく、その全てを引っ手繰るかのように。男を睨みつけて。
「きみ。……自分が殺されるときにも、同じことを言ったりしねーですよね?」
男の体は風に揺られるように、まるで人の体ではない。風に舞う葉か、それとも水に流されゆく木の枝だ。
「……わかんないよ。でも死にたいと思った事はない。俺がまだ生きてるっていうんなら、きっと違う事を言う。でもやっぱり、……わかんねえなぁ」
その呟きは、酷く真摯だった。
男は死にたいと思った事はない。肉体が、精神が生きているのならば。それが酷く欺瞞に聞こえようとも、生理的に、生きる事を選択するだろう。
では、意味は? その価値は? それはどこから齎される?
何処から齎される?
「……わかんねんのはこっちですよ。きみ。いい加減にしてもらえますか。タクシーは乗り過ごすし、フラフラと何考えてんだかわかんねーですし」
悪意を込めて、女は男に顔を近づける。小柄な体躯が、自分よりも大柄な彼の首根を掴んで引き寄せた。
「わかんねーってのは、解答にはなり得ませんよ。ヤエは、きみがどうしたいのかを聞いてるんです。……ここじゃあ、幸いヤエだって”有用な”異能を使えます。だから、聞いてんですよ。ヤエはいま、きみの味方にだって、きみの敵にだってなれる」
「人のこと言えんのかよ、君」
その顔を遠ざけるわけでもない。かと言って自ら近づくわけでもない。睨みつけるわけでもない。力を籠める素振りもない。だけど、少しだけそこには意思があった。
「何考えてるのかわかんねーのは君だってそうだろ。何がしたいのか、君がしたい事だって、俺にはわからねえ。意味のありそうな問答を始めて、意味がわかんねえ部活初めて、全然本質なんて理解してないよ、俺は。……それじゃダメなのかよ」
それでは、ダメなのだろうか。分からない事を何故考えなくてはいけないのだろうか。
きっと女は、否定するだろう。それでも、ダメなのだろうか。と男は逃げるように胸中で呟く。
男が分からないのは当然の事だろう。
だって、“分かりたくないのだから。”
女のやりたいことを。女の口から齎された時。
男は、その時の己を少しだけ考えていた。
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に続く。